ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その2 詩の大海原

「詩は絵画のように」から詩の大海原へ

Willam Turner, Calais Pier

第1−2詩節では、酔いどれ船(私)が、「大河」を自由に下ることになったいきさつが明らかにされた。

第3−5詩節になると、船は河から海に出、海岸近くから沖へと流されていく。

ランボーはその様子をナレーションで語るのではなく、イメージを連ね描いていく。

その手法は、ut pictura poesis(詩は絵画のように、絵画は詩のように)と言われる、詩に関するローマ時代からの考え方を思わせる。

第3詩節

Dans les clapotements furieux des marées
Moi l’autre hiver plus sourd que les cerveaux d’enfants,
Je courus ! Et les Péninsules démarrées
N’ont pas subi tohu-bohus plus triomphants

大波が怒り狂ったように押し寄せる中、
ぼくは、あの冬、子どもの脳よりも人の言葉に耳を貸さず、
走った! とも綱を解かれた「半島」が、
これ以上に勝ち誇った揺れを蒙ったことはなかった。

Monet, mer agitée à Etretat

酔いどれ船(Je)は河を出、沖から、海に突き出した「半島」を見ている。
それまでこんなに大きな波を体験したことはなかっただろう。
揺れた船の上からだと、半島も、とも綱を解かれた船と同じほど揺れているように見える。
波の怒り狂ったような動き(les clapotements furieux)や、勝ち誇った揺れ(tohu-bohus triompoants)が、その様子を描き出している。

その激しさは、唇を丸め、舌をその間に突きだして発音する[u]の音の反復(アソナンス)が感覚に訴えることで、はっきりと感じられる。courUs, péninsUles, sUbi, tohU-bohU, plUs.

ぼくは、かつて誰の言うことも聞かず、走った(courus)ことがあることを思い出す。言うことを聞かない子どもの行動だったが、それは、船曳きたちから自由になって航海する船の動きと対応する。

第4詩節

La tempête a béni mes éveils maritimes.
Plus léger qu’un bouchon j’ai dansé sur les flots
Qu’on appelle rouleurs éternels de victimes,
Dix nuits, sans regretter l’œil niais des falots !

嵐が、海での目覚めを祝福した。
コルクよりも軽々と、ぼくは波の上で踊った。
遭難者を永遠に転がし続ける奴って呼ばれている波の上で。
十夜もだ。カンテラの愚かな目玉を惜しいとも思わなかった。

船は航海を続け、嵐に襲われる。目覚め(mes éveils)が複数形なので、何度も襲われたことが示されている。また、最後に十夜とあるので、10日連続して嵐があり、カンテラも含め、船の装備が吹き飛ばされたのだろう。
大嵐の中、船はますます軽くなり、大浪の上で揺れに揺れる。

Rembrandt, Le Christ dans la tempête sur la mer de Galilée

そんな大波に揺られ、ますます酔っ払ったぼく(船)は、コルクよりも軽々と、ダンスを踊っているように感じられる。

嵐が祝福をもたらすのは、こうしてダンスを踊らせてくれるからに他ならない。

カンテラがないのは、夜の中で航海を照らしてくれる光がないこと。ぼくにとってその光は、船曳きたちと同様に、束縛と感じられたことだろう。その証拠に、カンテラの眼には愚か(niais)という形容がなされている。
嵐のおかげで、カンテラに束縛されず、自由を満喫できる。

ダンスが、ランボーの詩の中でとても大切なイメージであることを確認しておこう。
現代フランスの優れた詩人であり、また最初にフランス現代詩に俳句の精神を導入したフィリップ・ジャコテは、次のランボーの一節に美を見出した。

J’ai tendu des cordes de clocher à clocher ; des guirlandes de fenêtre à fenêtre ; des chaînes d’or d’étoile à étoiles, et je danse.

ぼくは何本もの綱を張った。鐘から鐘へ。花飾りを窓から窓へ。金の鎖を星から星へ。そして、踊る。

鐘に張った綱、窓の花飾りは現実的な次元だが、次に金の鎖を星にかけ、意識は地上から天上に向かう。そして、ダンスする。
そのダンスは、肉体の動きであると同時に、精神の高揚を表している。

酔いどれ船も、荒れ狂う大海原で、ダンスを踊る。

第5詩節

Théodore Gudin, Trait de dévouement du capitaine Desse, de Bordeaux, envers Le Colombus, navire hollandais

Plus douce qu’aux enfants la chair des pommes sures,
L’eau verte pénétra ma coque de sapin
Et des taches de vins bleus et des vomissures
Me lava, dispersant gouvernail et grappin.

子どもたちには酸っぱいリンゴの果肉よりも甘い、
緑の海水が、ぼくのもみの木の船体に侵入した。
そして、青いワインのシミと吐いたものを
ぼくから洗い流し、舵や小さな錨を飛び散らせた。

とうとう海水が船に浸入する。
その勢いは、貫き通す(pénétrer)や飛び散らせる(disperser)という動詞で示される。航行に必要な舵も、停泊に使う錨も、波に持ち去られてしまう。

しかし、押し寄せる水は甘く、ワインのシミや酔って吐いたものを洗い流してくれるように感じる。嵐は過去との訣別を決定づける、祝福すべき動きなのだ。

この一節を書きながら、ランボーにはまだ子どもの意識が抜けていなかったのだろう。第3詩節では子どもの脳に言及され、ここでは子どもには酸っぱいという表現が出てくる。「酔いどれ船」のぼくは、子ども以上に人の言葉に君を傾けず、子どもには酸っぱい水を甘いと感じる。
こうして子どもを引き合いに出すところに、彼の若さが顔を覗かせていると考えてもいいだろう。

その少年詩人が、まだ見たことのない海を想像し、嵐に襲われる船の姿を描く。
船体、舵、錨という船に関する単語で形を素描し、緑の海水と青いワインで色づけする。(vin bleuには安いワインという意味もあるが、ここでは青という色彩を重視したい。)
さらに、緑の水に甘い/酸っぱいという味覚を付け足し、共感覚の世界を生み出そうとしたのだろう。

このようにして、3枚目の海洋画には新たな試みも垣間見られる。「詩は絵画のように」の伝統に基づきながら、その先に一歩に足を踏み出したのである。

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