ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 2/7 詩の大海原

「詩は絵画のように」から詩の大海原へ

Willam Turner, Calais Pier

第1−2詩節では、酔いどれ船(私)が、「大河」を自由に下ることになったいきさつが明らかにされた。

第3−5詩節になると、船は河から海に出、海岸近くから沖へと流されていく。

ランボーはその様子をナレーションで語るのではなく、イメージを連ね描いていく。

その手法は、ut pictura poesis(詩は絵画のように、絵画は詩のように)と言われる、詩に関するローマ時代からの考え方を思わせる。

第3詩節

Dans les clapotements furieux des marées
Moi l’autre hiver plus sourd que les cerveaux d’enfants,
Je courus ! Et les Péninsules démarrées
N’ont pas subi tohu-bohus plus triomphants

大波が怒り狂ったように押し寄せる中、
ぼくは、あの冬、子どもの脳よりも人の言葉に耳を貸さず、
走った! とも綱を解かれた「半島」が、
これ以上に勝ち誇った揺れを蒙ったことはなかった。

Monet, mer agitée à Etretat

酔いどれ船(Je)は河を出、沖から、海に突き出した「半島」を見ている。
それまでこんなに大きな波を体験したことはなかっただろう。
揺れた船の上からだと、半島も、とも綱を解かれた船と同じほど揺れているように見える。
波の怒り狂ったような動き(les clapotements furieux)や、勝ち誇った揺れ(tohu-bohus triompoants)が、その様子を描き出している。

その激しさは、唇を丸め、舌をその間に突きだして発音する[u]の音の反復(アソナンス)が感覚に訴えることで、はっきりと感じられる。courUs, péninsUles, sUbi, tohU-bohU, plUs.

ぼくは、かつて誰の言うことも聞かず、走った(courus)ことがあることを思い出す。言うことを聞かない子どもの行動だったが、それは、船曳きたちから自由になって航海する船の動きと対応する。

第4詩節

La tempête a béni mes éveils maritimes.
Plus léger qu’un bouchon j’ai dansé sur les flots
Qu’on appelle rouleurs éternels de victimes,
Dix nuits, sans regretter l’œil niais des falots !

嵐が、海での目覚めを祝福した。
コルクよりも軽々と、ぼくは波の上で踊った。
遭難者を永遠に転がし続ける奴って呼ばれている波の上で。
十夜もだ。カンテラの愚かな目玉を惜しいとも思わなかった。

船は航海を続け、嵐に襲われる。目覚め(mes éveils)が複数形なので、何度も襲われたことが示されている。また、最後に十夜とあるので、10日連続して嵐があり、カンテラも含め、船の装備が吹き飛ばされたのだろう。
大嵐の中、船はますます軽くなり、大浪の上で揺れに揺れる。

Rembrandt, Le Christ dans la tempête sur la mer de Galilée

そんな大波に揺られ、ますます酔っ払ったぼく(船)は、コルクよりも軽々と、ダンスを踊っているように感じられる。

嵐が祝福をもたらすのは、こうしてダンスを踊らせてくれるからに他ならない。

カンテラがないのは、夜の中で航海を照らしてくれる光がないこと。ぼくにとってその光は、船曳きたちと同様に、束縛と感じられたことだろう。その証拠に、カンテラの眼には愚か(niais)という形容がなされている。
嵐のおかげで、カンテラに束縛されず、自由を満喫できる。

ダンスが、ランボーの詩の中でとても大切なイメージであることを確認しておこう。
現代フランスの優れた詩人であり、また最初にフランス現代詩に俳句の精神を導入したフィリップ・ジャコテは、次のランボーの一節に美を見出した。

J’ai tendu des cordes de clocher à clocher ; des guirlandes de fenêtre à fenêtre ; des chaînes d’or d’étoile à étoiles, et je danse.

ぼくは何本もの綱を張った。鐘から鐘へ。花飾りを窓から窓へ。金の鎖を星から星へ。そして、踊る。

鐘に張った綱、窓の花飾りは現実的な次元だが、次に金の鎖を星にかけ、意識は地上から天上に向かう。そして、ダンスする。
そのダンスは、肉体の動きであると同時に、精神の高揚を表している。

酔いどれ船も、荒れ狂う大海原で、ダンスを踊る。

第5詩節

Théodore Gudin, Trait de dévouement du capitaine Desse, de Bordeaux, envers Le Colombus, navire hollandais

Plus douce qu’aux enfants la chair des pommes sures,
L’eau verte pénétra ma coque de sapin
Et des taches de vins bleus et des vomissures
Me lava, dispersant gouvernail et grappin.

子どもたちには酸っぱいリンゴの果肉よりも甘い、
緑の海水が、ぼくのもみの木の船体に侵入した。
そして、青いワインのシミと吐いたものを
ぼくから洗い流し、舵や小さな錨を飛び散らせた。

とうとう海水が船に浸入する。
その勢いは、貫き通す(pénétrer)や飛び散らせる(disperser)という動詞で示される。航行に必要な舵も、停泊に使う錨も、波に持ち去られてしまう。

しかし、押し寄せる水は甘く、ワインのシミや酔って吐いたものを洗い流してくれるように感じる。嵐は過去との訣別を決定づける、祝福すべき動きなのだ。

この一節を書きながら、ランボーにはまだ子どもの意識が抜けていなかったのだろう。第3詩節では子どもの脳に言及され、ここでは子どもには酸っぱいという表現が出てくる。「酔いどれ船」のぼくは、子ども以上に人の言葉に君を傾けず、子どもには酸っぱい水を甘いと感じる。
こうして子どもを引き合いに出すところに、彼の若さが顔を覗かせていると考えてもいいだろう。

その少年詩人が、まだ見たことのない海を想像し、嵐に襲われる船の姿を描く。
船体、舵、錨という船に関する単語で形を素描し、緑の海水と青いワインで色づけする。(vin bleuには安いワインという意味もあるが、ここでは青という色彩を重視したい。)
さらに、緑の水に甘い/酸っぱいという味覚を付け足し、共感覚の世界を生み出そうとしたのだろう。

このようにして、3枚目の海洋画には新たな試みも垣間見られる。「詩は絵画のように」の伝統に基づきながら、その先に一歩に足を踏み出したのである。

詩の大海原

第6ー7詩節では、ランボーは彼が考える新しい詩について、詩と海を重ね合わせて、詩句を展開する。
そのことは、le Poème de la Merという表現、とりわけPとMが大文字にされ、
poèmeとmerが固有名詞化されることで暗示される。

第6−7詩節

Et dès lors, je me suis baigné dans le Poème
De la Mer, infusé d’astres, et lactescent,
Dévorant les azurs verts ; où, flottaison blême
Et ravie, un noyé pensif parfois descend ;

Où, teignant tout à coup les bleuités, délires
Et rhythmes lents sous les rutilements du jour,
Plus fortes que l’alcool, plus vastes que nos lyres,
Fermentent les rousseurs amères de l’amour !

その時から、ぼくは身を浸した。「海」という「詩」に。
その詩は、星々が注入され、乳白色で、
緑の蒼穹を貪り喰っている。そこでは、青白く浮かび、
魂を奪われた、物思う水死体が、時として下っていく。

そこでは、あっという間に青い大海原が染められる。錯乱と
ゆっくりとしたリズムの大海原が、日差しの輝きに照らされて。
酒よりも強く、竪琴よりも広大だ。
愛の苦々しい赤茶色の染みが発酵する !

「海」という「詩」。le Poème de la Mer. PとMが大文字になり固有名詞化し、酔いどれ船が航海する海が、詩であることが明示される。
酔いどれ船を呑み込んだ大浪の海は、詩そのものなのだ。

葛飾北斎、神奈川沖波裏

第一詩節で、船は無感覚の大河を下だり、船曳たちに引っ張られる状態から自由になる様子が描かれていた。
苦痛を感じない、無感覚な(impassibles)というのは、感情よりも形体に重きを置く詩の流派、パルナス派の標語のような言葉だ。
そのことから、詩を書き始めた時のランボーは、当時の大詩人(例えばバンヴィル)に従って、パルナス派的な詩を目指していたことがわかる。

大海での難破は、当時の詩の流れから完全に離れることを意味している。
そして、嵐が吹き荒れる海を詩として描く。

では、その海=詩はどんなものなのか。ここでは、3つの説明が施される。

1)
惑星がちりばめられ、乳白色(lactescent)。Lactescantは、la Voie Lactée(天の河)を思わせる。そして、緑の蒼空(les azurs verts)を呑み込んでいる。
こうして、空や星が地上の海に映り込んでいる状態が描かれている。それは、天と地が一つになっている状態を指していると考えてもいいだろう。

もう一点注目したいのは、蒼穹(azur)。マラルメが自己の詩法を展開した詩「蒼穹(l’Azur)」を思わせる。
https://wordpress.com/view/bohemegalante.com

2)
その海には時に死体が浮かぶ。青白く、魂を奪われたよう(ravie)。
その溺死者は、詩人だ。
これまでにも多くの詩人たちが、詩の大海原に漕ぎだし、命を落としてきた。
「下る(descendre)」という言葉は、第一詩節の冒頭の「ぼくが大河を下る」という詩句と対応し、ぼくも詩の海で溺死する可能性が示される。

3)
第七詩節は、そこでは(où)で始まり、4行全体がランボーの目指す詩を描く。
まずここで、« Bleuité »と言う単語に注目しよう。それはランボーが作り出した新語(néologisme)。新しい詩を目指す彼は、「海という詩」の色彩を青に染め、bleuから新たな言葉を創造する。

その後、その青いもの(bleuités)に対して、錯乱とゆっくりとしたリズムを同格に置き、詩とは錯乱であり、リズムであることを示す。そのリズムは、「言葉の錬金術」の中で好きだと言われる「純朴なリズム(rhythmes naïfs)」とも対応する。

それらは日の光に照らされて突然染まる(teignant)のだが、染める主体はなかなか示されない。
酒より強く、竪琴より広大だと言われるだけだ。
では、強く広大なのは、染まる青なのか、染める主体なのか。謎は続く。

そして最後に、やっとこの節の主語と動詞が出てくる。
主語は、赤茶色のもの(Les rousseurs)。
動詞は、発酵する(fermenter)。
赤茶色のものは、愛(l’amour)から発し、苦い(amer)。そして、青い海原を思わせる錯乱やリズムを、陽の輝きの中で染め上げる。
この時、酒より強く、竪琴より広大なのが、青いもの(bleuités)なのか、赤茶色のもの(les rousseurs)なのか、どちらにも取れるように詩句は構成されている。その両義性も、ランボーの詩を特徴付ける要素の一つである。

このように、ランボーは、第6−7詩節で、彼の目指す詩の3つの様態を描いた。
1)空と海が一体化し、永遠を思わせるもの。
2)難波して、青白い死人として流されていく危険があること。
3)青い空と海を愛が赤茶色に染めるもの。

この3番目のイメージはまだ明確ではない。そこで彼は、見者として見たものを以下の詩句の中で描き出していくことになる。

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