中原中也の「夜更の雨」。
ヴェルレーヌの面影に寄せたエピグラフが付けられ、ヴェルレーヌが都市の中を放浪する姿が描かれている。
第一連は、掘口大學の訳でよく知られた、「巷に雨の降る如く」を参照している。
https://bohemegalante.com/2019/07/26/verlaine-ariettes-oubliees-iii/
夜更の雨
―― ヱ゛ルレーヌの面影 ――
雨は 今宵も 昔 ながらに、
昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。
中也は、ヴェルレーヌの雨を、二つの方向に発展させる。
一つは、都市における放浪。
ボードレールを初めとして、19世紀フランスの詩人達は、都市を描き、その中を彷徨い歩く姿を詩のテーマとした。
ヴェルレーヌもランボーの、そうした詩人たちの仲間。

都市における放浪者のイメージは、小林秀雄や中原中也、富永太郎といった日本の詩人の中でも大流行し、彼等は東京の町中を歩き回った。
1926年に死んだ富永太郎の追悼文の中で、小林秀雄は次のように書いている。
「おい、此処を曲らう。こんな処で血を吐いちや馬鹿々々しいからな」—-僕は流竄(りうざん)の天使の足どりを眼に浮べて泣く。彼は、洵に、この不幸なる世紀に於いて、卑陋なる現代の日本の生んだ唯一の詩人であつた。
http://yarimizu.blue.coocan.jp/ktominagataro1926.html
「ここを曲がろう」という言葉は、町の中を目的もなく歩き回ることを前提にしている。
中也も、ランボーやヴェルレーヌの後をたどり、小林や冨永たちと共に放浪する詩人として自分を思い描く。
ヴェルレーヌから引き継いだもう一つの点は、音楽性。中也はそれを唄と言う。実際、中也の詩句は歌うようだ。
彼の唄は、語句の反復が生み出すリズム感によるところが大きい。
彼は詩句を反復しながら、微かに変化を加える。
昔 ながらに/昔 ながらの
唄(うた)を/うたつて
だらだら/だらだら
と、見るヱ゛ル氏「の」/倉庫の間「の」 :「の」の反復(7/8音の変化)
ほど「だ」/ゆくの「だ」 :「だ」の反復(3/4音の変化)
「だらだら」というオノマトペは、中也がヴェルレーヌの雨に感じた感覚なのかもしれない。いつまでも雨が降っている。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?
第2連でも、放浪は続く。倉庫の間を通り、路地を歩く。
雨合羽に電信柱に付けられた電気の光が当たり、道は雨でぐちゃぐちゃ。
早く路地を抜けたいと思う。
ここでもまた、言葉の反復がリズムを生みだす。
反射(ひかり)だ/巫戯(ふざ)けだ。
抜けさへ したらば/抜けさへ したらと
ほのかな のぞみだ/いやはや のぞみにや
自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。
今度は、「な」を使った言葉遊び。
反復しながら、微妙に変化させていく。
言葉にリズムが生まれ、詩句が歌うように感じられる。
なんぞに/ないぞ
なぞは/なほの
最後は、意味に基づく言葉遊びも行われる。
舎密(せいみ)というのは、中也の時代、 chimieの翻訳語であり、化学という訳語と併用されていた。
ここでは、鳴くという動詞の主語となり、音的にはセミを思わせることもできる。
従って、セミが鳴いているという意味にも、化学工場が音を立てているという意味にも取ることができる。
こうした言葉遊びは、ヴェルレーヌやランボーの得意技である。
こうして、ヴェルレーヌの雨から出発し、中也は居酒屋に到着する。
中には、飲んだくれたヴェルレーヌが待っているのだろう。

第3連の4行は、ほとんどが8/8のリズムで構成され、その唄に合わせて、赤い提灯がぶら下がる、鄙びた居酒屋が浮かび上がってくる。
これが、中也のイメージするヴェルレーヌの世界なのだろう。