ヴェルレーヌ 「巷に雨の降るごとく」 Verlaine « Il pleure dans mon cœur », Ariettes oubliées III 日本的感性?

Camille Pissaro, Avenue de l’Opéra, effet de pluie

ヴェルレーヌの「巷に雨の降るごとく」は、掘口大學の名訳もあり、日本で最もよく知られたフランス詩の一つである。

掘口大學の訳も素晴らしい。

巷に雨の降るごとく
わが心にも涙降る。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?

ヴェルレーヌの詩には、物憂さ、言葉にできない悲しみがあり、微妙な心の動きが、ささやくようにそっと伝えられる。
こうした感性は、日本的な感性と共通しているのではないだろうか。

「巷に雨の降るごとく」は、1874年に出版された『言葉なきロマンス』の中の詩。最初の章である「忘れられたアリエッタ」の3番目に置かれている。

この詩集が書かれた時期、ヴェルレールはランボーと過ごし、彼の影響を最も強く受けていた。
そのためもあり、「忘れられたアリエッタ 3」では、エピグラフとして、ランボーの詩句が置かれている。

« Ariettes oubliées »   III
Il pleut doucement sur la ville.
( Arthur Rimbaud)

Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville,
Quelle est cette langueur
Qui pénètre mon coeur ?

                街に静かに雨が降る。
                   (アルチュール・ランボー)

心の中に涙が流れる。
街に雨が降るように。
この物憂さは何だろう、
私の心を貫き通す。

1行6音節なので、2行にすると12音節。フランス詩の代表的な形であるアレクサンドランになる。
その真ん中で区切られて、規則的に6/6/6/6とリズムが刻まれる。

また、母音 eu の音が何度も反復され(アソナンス)、まろやかな響きが詩節全体を満たしている。
pleure, cœur, pleut, langueur, cœur.
アソナンスは詩句を音楽的にするための、一つの手段だと考えられる。

この詩がランボーの影響を受けていることは、韻を検討するとわかってくる。

ランボーは詩の革新者で、伝統的な詩法を守らないことがよくあった。

ヴェルレーヌも、この詩の中で、韻を無視している。
villeと韻を踏む単語がない! 
これは韻文の規則の重大な違反であり、韻文とは言えなくなってしまう。

では、なぜそうしたのか?
cœurは韻を踏んでいるので、 langueurのところにvilleと韻を踏む言葉を置けば、規則的な韻文になった。
しかし、cœurと« eu »の音を反復させ、アソナンスを韻よりも優先することで、音楽性を強く出した。
この伝統破りは、違反するということの強い意志の表明だと考えられる。

「何よりも先に音楽を」が、ヴェルレーヌの主張だった。
https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/
伝統的な規則を破っても、自己の主張をする。
これはランボーの影響だろう。

「忘れられたアリエッタ 3」は本当に音楽性に溢れている。
朗読を聞き、自分で詩句を口にすると、その音楽性がはっきりと感じられる。

ランボーの影響と考えられることは、韻だけには留まらない。
普通のフランス語には存在しない、新しい言葉、新しい表現を作り出していることも、彼の影響だろう。
その試みは、詩の冒頭に置かれている。

Il pleure (…) / Il pleut (…)

Il pleutは英語だとit rains. つまり、非人称構文で、il は誰も指していない。
ヴェルレーヌは、そのilを、pleurer(泣く)という動詞に適用した。

Il pleure.

雨が降るのと同じように、涙が降る。しかし、泣く主体は非人称で、誰なのかわからない。
この表現は通常のフランス語にはなく、全く新しいフランス語である。

ヴェルレーヌは、一人では、こんな大胆なことはできなかっただろう。
エピグラフにランボーの名前を出し、Il pleutで始まる詩句を挙げる。
そのことで、il pleureの il が非人称であることの予告をしている。
ちょうど、ランボーが彼の保証人であるかのように。

私たちにとって非常に面白いことに、この新しい表現法は、日本的な感性と対応している。
共通するのは、動作の主体が明確ではないこと。
まず涙がこぼれ、その場所として心が示されるという過程は、日本語表現がしばしば取る表現法である。

ヴェルレーヌ自身、主体がないままに、事象が生成する世界観を持っていることは意識していた。
そのことは、「忘れられたアリエット 1」ではっきりと示されている。
https://bohemegalante.com/2019/07/10/verlaine-ariettes-oubliees-i/
最初に来るのはc’estであり、その後ろの事態が示される。

それは、物憂い恍惚感。 C’est l’extase langoureuse.
それは、愛の倦怠感。  C’est la fatigue amoureuse.

西洋的な思考では、主体と客体の分離が前提である。
そして、主体が客体に働きかけることで、何かが生み出される。
こうした世界は、他動詞的と言ってもいいだろう。

日本的な世界観は、それとは反対に、自動詞的だといえる。
主体と客体は分離せず、ひとりでに何かが生成するという、主客合一の世界観といっていいだろう。
「私」という主体が外界の中に一人で立ち、自立しているのではなく、外界の中に溶け込み、一体化しているという感覚が最初にある。
人間が自然と対立するのではなく、調和を持ち、自然の中で、自然とともに生きるという感性。

こうした日本的な世界観の中では、心と外界の境目が希薄で、外の世界に降る雨も心の中で感じ、シトシト等といったオノマトペで表現したりする。
https://bohemegalante.com/2019/04/26/japonais-onomatopee/
実際、掘口大學は、ランボーの« Il pleut doucement »を「雨はしとしとふる。」と訳し、doucement(穏やかに)という副詞にオノマトペを使っている。

ヴェルレーヌが生きた19世紀後半のフランスでは、浮世絵が大流行し、ジャポニスムの華が開いた。
印象派の画家たちには、浮世絵の影響が少なからずあることは、すでに確認されている。
https://bohemegalante.com/2019/02/11/impressionisme-ukiyoe/
そうした中で、ヴェルレーヌも多少日本の事物に触れたかもしれない。
直接の影響関係を論じることはできないが、彼の中に日本的な感性と似た感性があり、彼の多くの詩句にその感性の反映が見られることは確かである。

第2詩節から最終の第4詩節まで、語尾の音はABAAと続き、韻の規則は守られていない。
韻がなおざりにされる代わり、母音反復(アソナンス)の効果による音楽性が主眼が置かれている。
これらの詩句は、ヴェルレーヌの音に関する感性を知るためには、最もよい例だといえる。

Camille Pissaro, Boulevard Montmartre

第2詩節

掘口大學の訳

やるせなき心のために
おお雨の歌よ!
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも!

素晴らしい日本語だけれど、ヴェルレーヌの詩句を読むと、言葉の順番がばらばらになっていることがわかる。

Ô bruit doux de la pluie
Par terre et sur les toits ! 
Pour un coeur qui s’ennuie
Ô le chant de la pluie !

おお、雨の優しい音よ、
地上にも、屋根にも降りかかる!
倦怠を感じる心には、
おお、雨の歌声!

心の中に秘めた悲しみが雨音と重なり、心の中で涙の雨音を立てる。
ウチとソトの世界が調和・融合した世界が歌われるのは、第一詩節の発展である。

ここでは、第1詩節から心(cœur)という単語を引き継ぎ、そこに、« uie »という音を付け足し、素晴らしい効果を上げている。
bruit, pluie, s’ennuie, pluie

その上で、雨の音を、最初は「優しい音 bruit doux」、次に「歌 chant」とし、変化を付ける。
そのことで、Ô — de la pluieという同一の表現に、微妙なヴァリエーションを与える。

Camille Pissaro, Rue Saint-Horoné, effet de pluie

第3詩節では、詩の冒頭の大胆な新表現、 « Il pleure »が再び用いられるところから始まる。

Il pleure sans raison
Dans ce cœur qui s’écœure.
Quoi ! nulle trahison ?
Ce deuil est sans raison.

涙が流れる、理由もなしに、
うんざりしている、この心の中に。
何? 裏切りもない?
この悲しみに、理由がない。

この一節、大學の訳は、本当にうっとりとする。

消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪そのゆえの知られず。

Il pleureを「雨は涙す」とする言語感覚には圧倒されるしかない。

ヴェルレーヌの詩句を見ると、もちろん素晴らしく音楽的。

pleureの« eu »がcœur, s’écœure, と反復され、最後はdeuilにたどり着く。涙するから、心へ、そして悲しみへ。
心がうんざりしている様子は、「心cœur」が「うんざりするs’écœure」という動詞の中にすっぽりと包まれていることで、形としても、音としてもはっきりと示されている。

主体が客体に働きかけて引き起こす悲しみではなく、理由のない悲しみ。それは、主客合一の世界観の中で、何かわからないけれど、「もの悲しい」という感覚だろう。
こうした世界観が、sans raisonという言葉だけではく、裏切りtrahisonの« zon »という音と響き合うことで、理由なき悲しみであることが強く印象付けられる。

音と意味の繋がりが完璧な詩句。言葉にできないほど、素晴らしい。

Camille Pissaro, Place du théâtre français, effet de pluie

最終の第4詩節は、これまでよりも少し理屈っぽい。

C’est bien la pire peine
De ne savoir pourquoi,
Sans amour et sans haine
Mon coeur a tant de peine !

最もひどい苦痛は
なぜか理由がわからないこと。
愛もなく、憎しみもなく、
私の心はこんなに苦しい。

大學の訳は、なぜこれほどまでに?と思えるほど、音楽的で美しい。

ゆえしれぬかなしみぞ
げにこよなくも堪えがたし。
恋もなく恨みのなきに
わが心かくもかなし。

理由のない悲しみは、悲しませる主体がないということであり、主客合一の世界観に由来することは、第3詩節ですでに触れた。
最終詩節は、その確認ともいえる。

なぜ確認が必要なのか?
西洋的な思考では、因果律が基礎にあり、原因があって結果が生み出される。
としたら、原因のない悲しみは、不合理で、理解不可能と感じられてもおかしくない。
ヴェルレーヌは、そのために、あえてダメ押ししているのだろう。

音的には、peineとhaineをアソナンスのために使い、sansという単語も反復し、sの子音反復とanの母音反復を用いる。

意味的には、最も悪いla pireを具体化するために、愛も憎しみも存在しない(sans)と否定した直後に、たくさんの(tant)と言い、不在から存在への逆接を行う。
その逆接のために、苦しみの多さが際立つ効果が生み出されている。

Camille Pissaro, Effet de pluie

このように見えてくると、「忘れられたアリエッタ 3」は、音楽的な詩句が見事に意味と融合し、主客合一の世界観に基づいた感性を表現している詩だといえるだろう

私たち日本語を母語にする読者には、フランス人の読者よりも、身近な世界かもしれない。

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