無の美学 能と幽玄の美

能が禅の精神を反映していることは、広く認められている。

能の完成者である世阿弥は、室町幕府の三代将軍・足利義満に重用された。
義満と彼の息子である足利義持は、禅宗の積極的に導入し、北山文化を開花させた。
そうした状況の中で、世阿弥も能の思想を吸収し、猿楽や田楽と呼ばれていた芸能に、禅の精神を注入したことは、自然なことだっただろう。

世阿弥が記した芸の理論書『風姿花伝』にも禅を思わせる教えが数々見られる。
例えば、「住(じゅう)する所なきを、まづ花と知るべし。」
住する、つまり一カ所に留まらないことが、芸の花を咲かせると言う。
これは、中国の禅僧・慧能(えのう)が説く、「住する所無くして、其の心を生ずべし]という言葉に基づいている。

現実の世界ははかなく、全ては時間とともに消え去ってしまう。その流れに押し流されながら、しかし、その現実に永遠を現生させ、美を生み出す。
とりわけ世阿弥が刷新した能は、幽玄の美を目指している。

極小化

能楽は、余分なものを全てそぎ落とし、現実を極小化することで、逆接的に、無限の世界を喚起する。
「ないこと」が最大の効果を発揮するという意味で、省略の美学、余白の美学といってもいい。

舞台装置、道具、演者の所作、能面と装束、楽器とお囃子、照明など、演出の全てが極小化の方向に向かっている。

舞台は、本舞台と、その横にしつらえられた橋掛かり。

背景は、本舞台の背景に、松の木が一本絵かがれるのみ。
その年老いた松は、自然全体を表している。

舞台の照明は常に一定で、変わることがない。昼も夜も同じ光で、まして色が変化することもない。

音楽は、3人あるいは4人からなる楽器隊(囃子)と、8名のコーラス(地謡)。どのような演目だろうと、ほぼ常に同じ構成が保たれる。

演者のうち、主役となるシテは、能面を被り、豪華な衣裳を身につけている。
それらの能面や衣裳は、この時代を代表する美術品であり、大変に美しい。
とりわけ衣裳の豪華さは、無の美学に反するように思われるかもしれない。

西行桜
井筒

能面も、余剰の美と呼ばれる美しさをたたえ、わずかな動きで心理的陰影を表現する。

そうした美の裏側で、衣裳や能面は、生身の人間の身体活動を極度に制限する。

豪華な装束は身体の自由を奪い、普段の動きができなくなる。そのために、普通はあまり意識しない身体の部位が活発に活動を始める。例えば、足の裏の感覚が研ぎ澄まされるという。

能面は、視野を狭め、正面の空間の一部しか見えなくする。すると、ギリシア神話の盲目の老人が未来を見通すのと同じように、超人間的な視野を獲得する。現実と同時に、現実ではない世界も見渡せる目。

こうしたことから、ある能の達人は、装束を身につけ、仮面を被ると、役者の自我が失われ、自己を仮面の人物に託すようになると言う。
仮面を顔につける時、面の紐がこめかみを締め付けるために、意識を失いそうになり、トランス状態に入る。現実を離れ、異次元の世界に入り込む感覚。

修行の中では、次の会話もあったという。
長く正座し、足が痛くなったとき、どうすればいいのかと師匠に尋ねる。すると師匠は、その足が自分の足でないと思え、と答える。
この会話は禅問答のようであり、日常的な感覚の停止を示唆している。
自己意識を滅却して、無になること。そうすれば、足の痛みはなくなる。

登場人物たちの所作も、現実の複雑な身振りから余分な動きがそぎ落とされ、いくつかの型に限定される。

例えば、「構え」は、少し膝を曲げ、腰を入れて、重心を下げた姿勢。
「運び」は、足の裏を床の上につけ、腰を上下させずに、水平に歩くこと。
「しおり」は、少し顔を下げて、眉の辺りに手をかざし、涙を流していることを示す動作。

能に登場する人物たちの身振りは、こうしたいくつかの型の組み合わせだけで構成される。

全てを極限にまでそぎ落とし、無に近づける。そのことで、現実でありながら、現実とは違う世界が垣間見える。能は、そうした演出による精神性に基づいている。

複式夢幻能 ー 幽玄の美

現実と超現実の相剋は、複式夢幻能の中で物語的にも明確に表現されている。

複式夢幻能は、世阿弥によって芸術的に高められた能の形式。
前半と後半の2部構成になっていて、間に中入りが入り、前場と後場が明確に示される。

前場では、最初に、諸国一見の僧侶が現れる。彼は全国の由緒ある地を訪れ旅する僧で、能面を付けない、ワキと呼ばれる演者が演じる。
僧がある名所に着くと、そこに曰くありげな人物が通りかかり、その土地のいわれを語り、自分の身の上もほのめかす。この人物が主役で、シテと呼ばれ、能面を付けている。

ここまでが前場で、前シテは姿を消し、中入りに入る。

後場では、ワキの僧侶の前にシテが生前の姿で現れ、自分こそ、土地のいわくとなった出来事の本人であると打ち明ける。そして、出来事のいきさつを語り、美しい舞を舞い、僧に魂の供養を頼んだ後、消えていく。

この二段階の物語構成は、現実の人間(ワキ)が、亡霊など非現実の存在(シテ)と出会い、二つの世界の境界線が交わることから成り立っている。

Youtubeに「松風」をダイジェスト版で説明している映像があるので、夢幻能がどのようなものか、実際の上演に従って理解することができる。

一人の僧(ワキ)が、兵庫県の須磨海岸に立つ一本の木の前を通りかかる。そして、そこが、平安時代の歌人・在原行平を愛した松風の家のあった場所だと教えられる。
僧は弔いをした後、一夜の宿を取るため、塩屋に行く。

塩屋では、二人の海女(前シテと彼女に付きそうツレ)が桶を手にして現れ、秋の月を桶の水に映しながら、美しく謡う。
僧は、彼女たちに宿を請う。

宿で僧が松のことを話すと、二人は涙を流し、自分たちは松風(後シテ)とその妹(ツレ)の亡霊だと明かす。
そして、在原行平のことを思い涙を流し、彼の形見の衣裳を纏った松風は、激しい恋心に迷わされ、美しい舞を舞う。最後に、僧に弔いを願い、亡霊の世界に戻っていく。

物語の前半は現実世界で展開し、後半は亡霊が登場する。ここで興味深いのは、現実に生きる僧が亡霊と出会っても、まったく驚きもせず、ごく当たり前のこととして出来事が展開していくことである。
彼等にとって、この世とあの世は繋がっていて、一つの世界にすぎないかのように見える。

禅的な思考に従えば、この世は理性的な思考によって支され、知的に理解されるが、本質的なものはその根底にある実在=生そのものということになる。
能における超自然な存在は、実在からの使者、あるいは実在そのものと考えていいのではないだろうか。

禅について、鈴木大拙は次のように述べている。

人生の根本問題は、主客を分かつものであってはならぬ。問いは知性的に起こされるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ。なぜならば、知性の性質として、知性上の答えは必ず次から次へと問いを呼び求め、最後の答えに到り付くことができない。その上、たとえ知性の解決というものが得られたとしても、それは常に知性の上に留まり、おのれ自身の存在を揺り動かすものとはなり得ない。知性はただ周囲を空まわりし、かつつねに、二者対立の形で物事を取り上げる。ある意味では、実在に関する問いは、問われる以前にすでに答えられているとも言える。       (『禅』ちくま文庫)

超自然との出会いは、知性で解決できる次元を超え、実在そのものに達する体験だということができる。

実は、能では、複式夢幻能でなくても、超自然との出会いは頻繁に取り上げられていた。最もよく知られた例は、羽衣伝説に基づく「羽衣」だろう。

三保の松原で漁師(ワキ)が美しい羽衣を見つける。そこに天女(シテ)が現れ、返して欲しいと願う。そして、なかなか返してくれない漁師を前に、羽衣なしでは天に戻ることのできない天女は、涙を流す。

その姿を見た漁師は、天女の舞を見せてくれることを条件に、羽衣を返す約束をする。そこで、天女は羽衣を纏い、富士山を背景に美しい舞を舞い、最後に天へと戻って行く。

このように、「羽衣」でも、地上と天上は一続きであり、天女と遭遇した漁師に何の驚きもない。

複式夢幻能における世阿弥の工夫は、この世で未練を残した人々の暗く恐ろしい情念の世界を、美的な世界に変容させたことだといえる。
そのために、和歌の歌枕となった名所旧跡を物語の舞台として選び、平安時代から続く美と能を連結させ、その上で能的な美を生み出したのではないだろうか。
例えば、「松風」は、『古今和歌集』在原行平の和歌と、『源氏物語』の「須磨」に基づいている。

こうして平安朝の優美な美を連想させ、その上で、「もののあわれ」を「幽玄」へと変える。

秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知る事、肝要の花なり。(『風姿花伝』)

「秘せずは花なるべからず」とは、平安朝の華やかな美を指すのではないか。世阿弥は、花から華やかさを差し引くことで、新しい美を生み出していく。
「秘すれば花なり。」なのである。

何の物まねに品を変へてなるとも、幽玄をば離るべからず。
たとへば、上らふ・下らふ、男・女・僧・俗・田夫・野人・乞食・非人に至るまで、花の枝を一房づつかざしたらんを、おしなべて見んがごとし。(『風姿花伝』)

咲き誇る花ではなく、一房のみの花で美が生成する。
幽玄の美とは、極限にまで切り詰められ、無に限りなく近づくことから生まれる美だということが、一房という一語で示される。

『花鏡(かきょう)』になると、世阿弥は次の境地にまで至る。

さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある所あり。

さびさび(寂寂)とは、ひっそとして淋しい様子であると同時に、心から妄想を払いのけ、無心の心持ちでもある。そうした無心の中でこそ、心が動き、感じる。無が有を生み出す。

世阿弥が完成させた複式幽玄能の目指すのは、この幽玄の美だったといえるだろう。

「山姥」 

世阿弥作とされる「山姥」は、能の演目の中で、禅の伝える世界観を最も直接的に伝えているといえるだろう。(ただし、金春禅竹作という説もある。)

鈴木大拙は、『続・禅と日本文化』の「禅と能」と題された章の中で、ただ一つ「山姥」だけを取り上げ、梗概を紹介しながら、多くの部分を謡曲のセリフの引用に宛てているほどである。

「山姥」の中心的なテーマは、現実と現実の彼方にあるものとの出会い。
現実は、舞妓(シテズレ)によって表される。彼女は、京の都で山姥の山回りを謡った舞によって人気を博し、「百万山姥(ひゃくま・やまんば)」と呼ばれている。
現実の彼方は、本物の山姥(シテ)。
二人が山中で出会うことで、人間と自然全体の背後で動く、目に見えない力についての言葉が交わされる。

前場

山姥の舞で人気を博す舞妓が、ある時、信濃の善光寺に参拝することを思い立ち、都の人に伴われ、京都を出発する。

越中と越後の間にある境川までやって来たとき、分かれ道があり、その中でも最も険しい道を選ぶ。
その道は、西方の浄土への道であり、阿弥陀来迎の直路とされ、上路の山へと続く。この旅は修行の一つであることが、この選択から明らかにされる。
上路の峠に入るとすぐに、昼間にもかかわらず辺りが暗くなり、一行は途方にくれる。

そこに一人の女(前シテ)が現れ、宿の提供を申し出る。
家に着くと、女は、山姥の歌の一節を聞かせて欲しいと頼む。その際に、本当に山姥とはどのようなものだと思っているのかと、旅人たちに問いかける。
すると、舞妓は、「山姥は山に住む鬼女」と答える。それに対して、女が言う。

自分も山に住む女であり、山姥の一人といってもいい。その山姥が様々な山を回る歌を歌い、舞を舞いながら、あなたは、「言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ」とは恨めしい。

この言葉は、現実の世界に生きる舞妓が、山姥を歌い舞いながら、真の山姥を知ろうともしないことを明かしている。
現実を生きる普通の人々は、この舞妓と同じように、現実の背後に動く力を知ろうともせず、それがあることにさえ気づかないでいる。
旅が修行というのは、気づきへの出発だからである。

舞妓は女の言葉を聞き、恐れもあり、歌い始めようとする。
すると、女は、日が暮れるのを待ち、月が出てからにして欲しいと言う。そうすれば、自分も真の姿で現れ、舞妓とともに踊りを踊ると言い残し、姿を消す。(中入り)

日が暮れ、月が出るのを待つという提案は、鬼の姿をした恐ろしい存在を美に変える芸術観に基づいている。
異次元の存在である亡霊たちは、何らかの恨みを抱き、怨念のために醜い顔や姿をしている。そうした醜を美的な存在として表現するところに、幽玄の美がある。

後場

「月に声澄む深山」で舞が始まる前に、山姥(後シテ)が独白をする。

あら物すごの。深谷やな。あら物すごの深谷やな。寒林に骨をうつ。霊鬼なくなく前生の業を怨む。深野に花を供ずる天人。返す返すも幾生の善を悦ぶ。いや善悪不二。何を怨み。何をか悦ばんや。
萬箇目前の境界。懸河渺々として。
巌峨々たり山又山。
いづれの工か青巌の形を。削りなせる。水また水。誰が家にか碧譚の色を染め出せる。

深い谷は、現実の奥を指す。
現世で悪事を働いた者は地獄でも苦しみ、我が身を打つ。善行を行った者は、天国にいて、自分の身に花を飾る。そう考えるかもしれない。
しかし、現実の奥、つまり悟りの世界では、善も悪も相対的なことにすぎない。
恨みも喜びも現世的な価値観であり、その本質をたどれば全ては一つ。
あらゆる事は目前に示されている。勢いよく流れる川は遙かまで続いている。
山は高くそびえている。
誰が山を削り、川の水を青く染めたのか。それはどうでもいいことで、自然はただそこに存在している。

山姥の口から語られるこの世界観は、まさに禅と対応する。
それは超越的な叡智と言い換えてもいいだろう。全てはそこにあり、人間もその中の一つにすぎない。

そして、その生の存在を現世的な目で見るときには、普通に考えられている山姥の姿のように、醜く恐ろしく見える。一言で言えば、鬼。

舞妓は、初めて山姥の本当の姿を見、山姥を知る。
都で評判を取っていた時には、ただ歌い踊っていただけだった。そして、それが一般には現実と受け止められている。
ここで始めて、表層的な現実と真の実在が交わることなる。

そこで、前場の予告通り、「山姥の山まわり」を舞妓が舞い、山姥が続く。
鈴木大拙はこの場面に関して、「山姥が自分のことを歌うのか、舞妓が山姥のことを歌うのか、区別しがたい。両者は互いに混じり合ってしまう。」と考えている。

舞の後ろで、地唄(コーラス隊)が、山姥とは何か解き明かしていく。

それ山といつぱ。塵泥より起こつて、天雲掛かる千丈の峰、海は苔の露より滴りて、波濤を畳む万水たり。

天までそびえるような山々も、埃や泥土が積もって出来たもの。
巨大な海は、苔から流れる雫が集まったもの。
地上の大小など、ないに等しい。

遠近の。たつきも知らぬ山中に。おぼつかなくも呼子鳥の。声凄きおりおりは。抜木丁々として。山更にかすかなり。法性峯聳えては。上求菩提をあらわし、無明谷深き粧いは。下化衆生を表して金輪際に及べり。そもそも山姥は。生所も知らず宿もなし。ただ雲水を便りにて、至らぬ山の奥もなし。

遠くか近くかわからない山の中で、カッコウが心細げに鳴いている。
木々を切り倒す音も響き渡り、山はますます幽かになる。
法性を供えた嶺がそびえ立ち、菩提を追い求める菩薩の心を示している。
無明を表す深い谷は、菩薩が衆生を救う慈悲の心を示し、大地の底にある金輪際にまで及んでいる。
山姥は、生まれも住まいもわからない存在。雲や水を頼って、山奥まで尋ねていく。

この一節は、仏教用語がちりばめられ、自然が仏と一つになり、信仰の対象として語られている。
実際、自然そのものが仏性(ほっしょう)を宿していると言われ、厳かで神聖である。
法性と無明(むみょう)とは対立する概念であり、迷いや苦しみにつながる無明に見える谷にも菩提(ぼだい)はある。つまり、極楽浄土で成仏し、悟りに達する。
それほど、菩薩は慈悲に溢れている。
山姥が自然の中で山回りをする存在であるとすれば、それは菩薩でもあり、自然そのものでもある。

隔つる雲の身を変へ。仮に自性を変化して、一念化性の鬼女となつて目前に来れども、邪正一如と見る時は。色即是空そのままに、仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり、仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり、柳は緑、花は紅の色々。 

山姥は彼方にある雲である身体を変える。本性を変化させ、仮の姿として山姥として姿を現す。
正も邪も一つであると見れば、色即是空(しきそくぜくう)、つまり、この世の全てのものに実体はなく、縁起によって生成する。
仏の法があれば、この世の法もある。煩悩もあれば、悟りもある。仏もいれば、迷いの世界を生きる人間もいる。また山姥もいる。
柳は緑で、花は赤い。そうした対立全てが、空(くう)である。

こうして、禅的な絶対的同一の世界観が、美しい舞とともに観客に伝えられる。

百万山姥(ひゃくま・やまんば)は、都で舞う間、山姥の実体のことなど考えもしなかった。それが山中で本物の山姥と出会うことで、真実在の存在を体験し、現実の背後にある目に見えない力を知る。
「山姥」は、そうした現実と実在の出会いを見事に描いている。


Youtubeには、能の関して基礎的な知識を持つ映像もいくつかアップされている。

次のビデオは、わずか10分足らずで能の基礎を知ることができる。

次のビデオは、基本的な知識から始まり、能の基本的な種類を知ることができる。(40分)

無の美学 能と幽玄の美」への2件のフィードバック

  1. dalichoko のアバター dalichoko 2019-09-02 / 17:13

    とても勉強になりました。いつか近々座禅にも挑戦したいと念じています。
    (=^・^=)

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