雌猫アカの世界 神秘主義について その1

アカは街角に住む雌の猫。
1月1日、「明けましておめでとう。」と新年の挨拶をする。すると、アカも「ニャア」と答えてくれる。
彼女も人間と同じように、元日の朝は普段より清々しく感じるのだろうか。

でも、アカにとっては、初日の出も、普段の日の出も特別な違いはないだろうなと、考え直す。
猫にカレンダーはないし、もしかしたら朝も昼も夜もないかもしれない。
あるのは、太陽の光の温かさ、空気の冷たさ、空腹等といった体感。近づいてくる人間や、一緒に街角にいる猫仲間に対する好き嫌いの感情。アカはとりわけ嫉妬深い。他の猫が撫でられていると、ひどく嫉妬し、猫パンチを繰り出す。

そんなアカの世界はどのようなものだろう。

アカの世界

アカにはお正月も普段の日も変わりはない。猫にタイムスケジュールはなく、食べたいときに食べ、寝たいときに寝ている(ように見える)。

ただ、何らかの記憶はあるらしい。それを記憶といっていいのかわからないし、過去の出来事がイメージとして残っているのかどうかもわからない。
しかし、抱き上げられるのが嫌いなところを見ると、過去に何らかの出来事があったのだろう。そのために、抱かれることに対する嫌悪感が出来上がったのではないかと思われる。

未来の予測はあるのだろうか。
喉が渇けば水の入った容器のところに行くし、お腹が減れば、餌の置かれた台の上に迷うことなく飛び上がる。水や食べ物がどこにあるのかは記憶していて、その予測の元に行動しているらしい。

そんな様子を見ていると、アカにも過去や未来はあるのではないかと思われてくる。

しかし、彼女の過去の記憶や未来の予測は、人間が意識する過去や未来とは随分と違っている。
人間にはカレンダーがあり、2020年1月1日の日の出はどうだったとか、2020年の4月1日には何をする予定とか、はっきりとした目印がある。
過去、現在、未来という時間の句切れが意識されている。
朝6時に起き、12時には昼ご飯を食べ、夜は8時に夕ご飯というように、時間によって生活のリズムが刻まれている。

では、アカはどうか。
確かに、日が昇れば目を覚まし、その時にお腹が空いていれば、餌を探す。太陽が沈み、辺りが暗くなり、眠くなれば寝る。でも、それを朝とか夜と意識しているのだろうか。
朝の太陽の光と夕方の光の違いを体感しているとしても、それを朝、夕と区別しているだろうか。
アカは眠い時には昼の明るい時でも、小屋の中で尾っぽを丸めてぐっすりと眠っている。
昼の1時に会うとき、ある時はミャーミャーと寄ってきて、撫でて欲しいとおねだりをする。別の時には、こちらを完全に無視する。
時間で何か決まっているということは何もない。時間という意識がまるでない(ように見える)。

アカには感情らしいものがあるし、好きな人が見えれば、時によりけりだが、ニャーニャー鳴きながら、走り寄ることもある。
撫でられて、喉をゴロゴロ鳴らすこともあれば、抱き上げられて、嫌そうに逃げ出すときもある。
個人(?)としての感情があり、人を見分けてもいる。

何かを考えていると思われるふしもある。こちらの足元に身体をすりつけ、注意を引きつけてから、ちょっと離れたところで背中を見せて座る。まるである戦略を練った上で、自分を撫でさせようとしているかのようだ。
別の時には、ふと立ち止まり、こちらを見上げたりする。そんなときには、つい、アカの奴、何を考えているのだろうかと思ったりもする。

しかし、そうした知覚や感情、思考を自分で意識しているとは思えない。
もっと言えば、自分という意識があるようには見えない。
「アカ」と呼ばれると、「ニャー」と答えることもある。でも、自分を呼ばれているとわかっているのかどうかもわからない。
アカと呼ばれる自分がいて、その自分が好きな人には近づき、嫌いな餌には顔を背けるという意識はないだろう。

自分という個体がこちら側にあり、そこから向こう側を眺めると、いつもやって来るオジサンやオバサンという客体がいる、という構図は成り立たない。
アカはアカであることを意識せず、ただ、「この場の今」を生きている。
外から眺めると、アカとオジサンやオバサンは個々の存在だけれど、アカの内的世界では、そうした分離は感じられないのではないだろうか。

分離が発生するのは、私という自己意識が生まれ、そこを視座にして外の世界を眺めるという構図が生まれる時。
とすれば、アカは、自分と外部世界が分離していない、「自他未分離状態」にあると考えることができる。

「自他未分離状態」における時間を考えてみると、そこには過去/現在/未来の分割はなく、その時その時の今だけがある。
今は、終わるとか、これから先などの区分がなく、今でしかない。そして、その今が生きている限り続いていく。
過去の記憶もなく、未来の予測もなく、ただ今があるだけ。
その今は、見方によれば瞬間だし、別の見方をすれば永遠ということにもなる。
「永遠の現在」と呼ぶこともできるだろう。

自己意識を持たないアカは、今だけを生きている。
五感を働かせて、見、聞き、嗅ぎ、触り、味を識別する。好悪の感情もあり、人間に愛情を求める仕草もする。
それらは確かにアカという個体の雌猫の行動だが、しかし、アカの内的な世界では、ただ生きているというだけのこと。
それがまさに「生きる」ということだろう。

人間の世界

実は、人間もアカと同じ「生」を生きている。
ただし、人間の場合には、自己意識があり、「生の流れ」にカレンダーの区分の影が写っている。
そのために、区分のある世界、時間が一律に流れる世界を「現実」だと信じているのである。

一旦時計の時間を知ってしまうと、現実はその時間によって区切られ、時間とは時計によって定められていると思い込んでしまう。
その区分に枷をはめるのは、言語。
1時、2時、今日、昨日、明日、昨年、来年等々といった言葉が、時間の「生の流れ」に対して、目印となる影を付ける。
そうなると、その言葉が強制力を発揮し、時間は客観的に測ることができるという思いから逃れることができなくなる。

実際には、時間に限らず、全ての事物が言葉によって整理されている。
例えば、この動物は何だろう。

すぐに言い当てることができる人は少ないのではないか。
その理由は、あまり見慣れていず、鹿なのか、ロバなのか、牛なのか、はっきりわからないから。

次の2種類はわかりやすい。

上は鹿、下は牛。
なぜすぐに答えられるのかと言えば、見慣れていて、動物の種類を指す名前を知っているからだ。
一度、鹿は鹿、牛は牛と認識できるようになると、多少違いがあっても、目にしている動物が何か言えるようになる。

この動物は、角があり、体格は牛のように堂々としている。上の鹿とは随分と違っている。しかし、鹿だとすぐにわかる。

このように、一度区別がつくようになると、何の疑いもなしに、鹿と牛は違うもので、その違いは明らかだと思ってしまう。

角のない雌鹿と堂々とした角をはやした雄鹿を、鹿だと思わずに見比べると、ずいぶんと違っている。
しかし、その違いにもかかわらず、同じ鹿という種類の動物だと直感的にわかる。それは、鹿という言葉によって、他の動物の種類、例えば牛とは違うという区別を知っているからだ。

最初の写真の動物がカモシカであると言われ、何度かカモシカを見るようになると、今度は直感的に、カモシカに見えるようになる。ちょうど、牛が牛に見え、鹿が鹿に見えるように。

「生」の世界では、一頭一頭の動物は違っていて、種としてのまとまりは意識されない。
言葉のない世界に生きるアカは、一緒に街角に住むサブを見て猫だと思い、時々通りかかる犬を見て犬だと思うことはないだろう。
いつも撫でてくれるオジサンを男だと思い、アカ、アカと何度も呼ぶオバサンを女だと思うこともないだろう。
ただそこにあるものが現れ、それに対して反応する。それだけだ。

犬や猫、男や女の区別が一度確定すると、現実の区別だと見なされる。
しかし、その区分は、アカの世界に実際に分け目が入れられているのではなく、分け目の「影」が映っているにすぎない。
しかし、人間は、言葉を使うことで、区分の影を実体だと思い込み、それが現実だと信じている。
昨日の次には今日が来て、明日に向かう。犬と猫、牛と鹿は違う。カモシカは、その名前にもかかわらず牛科の動物だと知った後からは、カモシカをウシ科に分類する。
その区別を疑うことは、非理性的な思考に属すると見なされるだろう

その結果、人間がもしアカを見て、アカの世界を想像するとしても、区分のある世界観を投影することになる。
アカは何を考えているのだろうかとか、初日の出を見てアカもすがすがしい気持ちなのだろうか等と考えてみる。
それほど、言語による区分の影のない世界を想像することは難しくなっている。

人間の世界では、時計によって測ることができる時間が流れ、私とあなたの区別は明白で、鹿は牛ではない。

アカの世界の再発見 ー 神秘の世界

神秘主義は、超越的実在(神、絶対者)を、日常的感覚世界を脱した内的直感によって直接的に体験しようとする宗教的、哲学的立場だと定義される。
https://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9

日本語のウィキペディアだと、「絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場」と説明される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9

これらの定義のベースになっているのは、人間の日常世界の現実と、超越的存在との対立。一方は理性で理解可能だが、超越的な実在は理性的な理解を超えている。だからこそ、神秘的だと感じる。

そのように考えた時、日常的な経験を超えた何かを人間が感じることができるとしたら、それは「アカの世界」なのではないだろうか。
その世界は現実では計り知れないために、そこに神秘を感じ、ある時には超越的な世界と考えることもある。

時間の句切れがない世界を、無限の彼方に設定すれば、永遠のイデア界になる。
プラトンは、現実をイデア界の「影」と考えた。
現実から影を取り去ると、アカの世界になる。

そこに人格神を設定すれば、一神教の神を想像することもできる。
多数の神々の住み処を想定すれば、自然を具現化した神々の姿を思い浮かべることになる。
不死の神(々)の世界に時計はない。

物に固有に実体を想定しなければ、一つの物が別の物に変わることは可能。だから、卑金属を金に変える錬金術も容易だ。

「私」と「他」との区別もなくし、主体と客体が一体化する瞑想は、アカの世界から影を取り払うことを目指している。
自他が失われた忘我状態を「無」と考えると、禅の思想につながる。

私たちが現実と見なしている世界観の根底にあるアカの世界。その世界を私たちは、神秘的と感じ、その世界に対する恐れと憧れを抱くことがある。
アカの世界には影による区切りがなく、現実から見れば無秩序かもしれないが、完全な自由でもある。
そこで、アカの世界の再発見は、現実の束縛から解放されることにもつながる。

雌猫アカは、私たちに、そんな世界観を垣間見させてくれる。


アカの世界は、主体と客体が分離していない世界であるといえるが、道元の次のような表現と対応する。

魚は水中を行く。水の境界に辿りつくことなく泳ぎ続ける。
鳥は空を飛ぶ。空の境界に辿りつくことなく飛び続ける。
                         『正法眼蔵』

言語化された区別の影のない世界観では、私と世界の区別もなく、果てがなく、全てが広々と広がっている。

水は澄み、底まで透き通り、
魚はのんびり悠々と泳いでいる。
空は広大で、果てしなく広がり、
鳥は遙か、遙か彼方へ飛んで行く。
                     正覚禅師『坐禅蔵』

人間は、こうした世界観に達した時、最高の幸福を感じることができる。

春には香り高い花、秋には銀色の月、
夏には涼しい風、冬には白い雪。
心がくだらない問題に煩わされなければ、
毎日が、人々の人生において、幸せな時である。
                        無門禅師『無門関』

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