死と再生の神話 神秘主義について その2

神秘主義は、現実と超越的実在世界(「雌猫アカの世界」あるいは「生」そのもの)との特別な接触に由来するといってもいいだろう。
https://bohemegalante.com/2020/01/21/monde-selon-la-chatte-aka-mysticisme/

その体験が神話として語られる場合がある。
1)死と再生の神話。
2)陶酔とオルギアの神話。
この二系列の神話は、現実法則(時間の不可逆性、主体と客体の分離)を超越した出来事を、物語として言語化したものだといえる。
古代宗教の中には、それらの物語に基づいた儀礼を定式化したものもある。

Nicolò dell’Abbate L’Enlèvement de Proserpine

1)死と再生
現実世界では、時間は時計によって計られ、決して後戻りはしないと見なされる。
それに対して、「アカの時間」あるいは、生そのものである今においては、時間を時間として感じることはない。それは瞬間でもあり、永遠でもある。

死と再生のつながりは、時間は決して戻らないという現実法則を超越する。
その意味で、時計の針の影が投影されていない生の時間(今=永遠)を思わせる。

死と再生の神話

死と再生に基づく神話の中には、再生が一度限りの出来事であるものと、定期的に繰り返されるものという、二つの系列がある。
さらに、一度限りの再生を物語る中にも、女神が男性神を甦らせるものと、地獄から自らの力で地上に戻るものという、2つの流れがある。

まず、再生が一度限りの例を見ていこう。

古代エジプトの女神イシス

女神イシスの夫は、エジプト王オシリス。
オシリスは、弟のセトによって殺害され、木棺に詰められ、ナイル川に流されてしまう。
その棺はある土地に流れ着き、そこに生えている木と一緒に、宮殿の柱として使われる。
長い探求の後、イシスは夫を探し出し、柱をエジプトに持ち帰ることができる。しかし、セトに発見され、オシリスの身体である柱はばらばらにされ、エジプト中にばらまかれてしまう。
イシスは再び夫の身体を探し、魚に食べられた男根以外は見つけ出すことができる。
しかし、全ての部位を再現できないため、オシリスは地上ではなく、冥界の王として甦ることになる。
その後、セトは、イシスの息子ホルスも殺してしまう。しかし、彼女はトト神の助けを借り、ホルスの再生に成功する。そして、最終的に、ホルスが王位を継承する。

この神話の中で、女神イシスは、夫オシリスを冥界の王として再生させ、息子ホルスを現世の王として再生させることに成功する。

古代エジプトには、来世における永遠の生命を望む信仰があった。
死とは不死の霊魂が肉体を離れることであり、その霊魂は死後においても再び身体を必要した。肉体をミイラとして残すのは、そのためだった。
女神イシスは、こうした来世信仰を司る女神だと考えられる。

オルフェウスの地獄下り

Rubens, Orphée et Euridice

地獄下りをするオルフェウスは、自分の力で死から甦る例。

オルフェウスの妻エウリュディケは、婚礼の日に、毒蛇に足を噛まれて死んでしまう。
妻を深く愛するオルフェウスは、彼女を取り戻すため冥界に下り、冥界の王ハデスと王妃ペルセポネーを竪琴の音楽で魅了する。そして、エウリュディケを地上に連れ戻す許可を得る。
その時の条件は、地上に出るまで決して振り返らないこと。
しかし、最後の瞬間になり、オルフェウスは後ろを振り返ってしまう。そのために、エウリュディケは地獄へと送り返され、永遠に失われる。

地上に戻ったオルフェウスは、ディオニューソスに従って酔い狂う女達に襲われ、身体を引き裂かれて、川に投げ込まれてしまう。その後、彼の竪琴は、アポロンによって天空に運ばれ、琴座となったと言われている。
https://bohemegalante.com/2019/04/14/orphee-izanaki/

オルフェウスは生きたまま地獄に下ったとされるが、地獄下りは死と同じ意味を持ち、地上への帰還は再生に他ならない。

マリアとキリスト

キリスト教には、女神イシスと共通する部分も、地獄下りや復活の物語もある。

息子ホルスを膝の上に抱くイシスの姿は、幼子イエスを抱く聖母マリアを思わせる。
こう言ってよければ、二人の幼子は、王として世界に君臨する。

イエスは十字架にかけられた3日後に復活する。それは、地獄下りと地上への帰還とも考えられる。

Andrea di Bonaiuto, Descent of Christ to Limbo

このように、キリスト教の信仰においても、死と復活の奇跡が重要な役割を占めている。

次に、死と再生が規則的に反復する例を見ていこう。

ペルセポネー(プロセルピーナ)の略奪

ゼウスとデメテールの娘であるコレーは、冥界の王ハデスによって地獄に連れ去られる。そして、妃にさせられ、ペルセポネーと呼ばれるようになる。
娘を案じた大地母神デメテールは、彼女を求めて至るところを訪ね歩く。その間、大地が荒廃してしまう。
デメテールは、コレーが冥界にいることをつきとめ、地上を豊穣にするという条件で、ペルセポネーを地上に戻すことを、ゼウスに認めさせる。
しかし、ペルセポネーは、冥界でザクロの実を食べてしまっていたため、冥界の住民にならないといけないという規則に従う必要があった。
そこで、最終的な決着として、一年の三分の一は冥界に留まり、三分の二は地上に戻るということにする。

この取り決めのために、ペルセポネーが地上にいる間は、植物が豊かに実り、冥界にいる時には地上は不毛になる。
それが季節が循環する始まりと言われている。

古代ギリシアを代表するエレウシスの秘儀は、デメテールとペルセポネーを中心としたこの神話を、信仰の中心に据えている。
エレウシスの秘儀が目指すのは、「人の世の移り変わりは木の葉と同じ」(『イリアス』)という人生のはかなさを前にして、死からの再生を体験することで、永遠を望むことだった。

エレウシスの秘儀の骨子は、穀物神の復活・蘇生の若々しい生命力を人間の身につけ、循環する生命の永遠性に参与し、死後の魂の幸福を享受しようとする宗教的儀礼だった。
大地の豊穣と、生命の誕生と再生という神秘的領域との交感をもたらしてくれる象徴性によって、エレウシスの秘儀は全ギリシアの人々を誘ったと考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/エレウシスの秘儀

太陽神話

全ての宗教は、根源的には、太陽に対する信仰であるとみなす考え方があった。太陽が発する光や熱の恩恵を受けることで、人間は生きることができる。もし太陽が昇らなければ、世界は暗黒に沈み、全てが死に包み込まれる。

朝は日が昇り、夜になると日が沈む。それは太陽の誕生と死である。
もし翌日、日が昇らなければ、どうなってしまうのだろうか。
夜沈んだ太陽が、翌朝再び昇るという保証はどこにもない。
としたら、夕日に祈り、日の出を祝福することは、自然な信仰だといえる。

現実のレベルでは、太陽の運行はごく当たり前のこととして受け取られる。それは通常の自然現象にすぎない。

しかし、太陽を神聖な存在と見なすとき、日の出と日の入りは太陽の誕生と死そのものであり、その反復は常に喜びと不安を伴うものになる。

このように見てくると、死と復活の反復は、自然現象を神格化しているということがわかってくる。もっと言えば、自然を神と見る。

その際、目に見える自然そのものを対象にする場合がある。
木も花も草も冬には枯れて、翌春再び咲く。動物も冬には姿を消すが、春になると再び姿を現す。
そのサイクルは、死と再生の規則的な循環であり、一度死んだら二度と戻らないという現実原則を超越した動きと捉えることができる。

太陽に関しても、夜になると死を迎え、世界は闇に包まれるが、翌朝は再び姿を現し、人間に恩恵を与えてくれる。
その太陽を物理的に見ることも可能だが、太陽を含んだ天空の運行を司る原理を捉えようとする時には、そこに目に見えない超自然な力が働いているようにも感じられる。
自然は知覚によって捉えられると同時に、人知を越えた存在であるとも感じられる。
従って、ペルセポネーの神話のように、植物的な現象を対象にすることもあれば、太陽神話のように、超自然な力を対象にすることもある。

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