中原中也 骨 “自分が自分を見る” 可笑しさ 

中原中也の詩の中ではとても珍しいのだが、「骨」は、悲しみも苦しみも感じさせず、ユーモラスで、朗らかな感じが全体を包んでいる。
死んだ自分が自分の骨を見ているという内容とは相容れない屈託のなさがある。
しばしば中也の道化的な言葉の裏には憂鬱や悲しみがあるが、この詩には暗い影がさしていない。

もし、自己の存在感のなさから来る不安とか、中也の表情が見えず彼の衰弱を露呈しているとか、中也の孤独感、苦々しい自嘲といったものと読み取るとしたら、それは、読者の持つ中也像や内心の感情を、この詩に投影しているのかもしれない。

自分の骨を見る自分という構図から、骨を取り除くと、臨死体験的なことではなく、単に自分を見る自分になる。自分を反省するとか、自己分析するというのであれば、誰もが経験があるだろう。
とりわけ、若い時には、自分とは誰か、どのような存在なのか、考えることがある。

自己分析をすれば、暗くなる。
それは当たり前のことだ。自分の中をのぞき込むのは、ロダンの「考える人」。
メランコリーに取り憑かれた、憂鬱な人間の典型的なポーズに他ならない。

別の言い方をすると、主体としての「私」が、客体としての「私」を見ることになる。
それが「自分を知る」ためには不可欠な行為と考えられることも多い。

中也は、「骨」を通して、そのような「自分が自分を見る」行為を滑稽に描き、最後にそれとは違う認識の形を提示する。だからこそ、この詩には暗い陰がなく、むしろ、少しばかり皮肉なユーモアが感じられる。

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雌猫アカの世界 神秘主義について その1

アカは街角に住む雌の猫。
1月1日、「明けましておめでとう。」と新年の挨拶をする。すると、アカも「ニャア」と答えてくれる。
彼女も人間と同じように、元日の朝は普段より清々しく感じるのだろうか。

でも、アカにとっては、初日の出も、普段の日の出も特別な違いはないだろうなと、考え直す。
猫にカレンダーはないし、もしかしたら朝も昼も夜もないかもしれない。
あるのは、太陽の光の温かさ、空気の冷たさ、空腹等といった体感。近づいてくる人間や、一緒に街角にいる猫仲間に対する好き嫌いの感情。アカはとりわけ嫉妬深い。他の猫が撫でられていると、ひどく嫉妬し、猫パンチを繰り出す。

そんなアカの世界はどのようなものだろう。

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ヴェルレーヌ 「巷に雨の降るごとく」 Verlaine « Il pleure dans mon cœur », Ariettes oubliées III 日本的感性?

Camille Pissaro, Avenue de l’Opéra, effet de pluie

ヴェルレーヌの「巷に雨の降るごとく」は、掘口大學の名訳もあり、日本で最もよく知られたフランス詩の一つである。

掘口大學の訳も素晴らしい。

巷に雨の降るごとく
わが心にも涙降る。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?

ヴェルレーヌの詩には、物憂さ、言葉にできない悲しみがあり、微妙な心の動きが、ささやくようにそっと伝えられる。
こうした感性は、日本的な感性と共通しているのではないだろうか。

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ヴェルレーヌ 「忘れられたアリエッタ その1」  Verlaine « Ariettes oubliées I » 日本的感性とヴェルレーヌの詩心

「忘れられたアリエッタ その1」は、ヴェルレーヌの詩の精髄がそのままの形で詩になっている。この詩を理解することで、「ヴェルレーヌ的」とは何か、そしてなぜ彼の詩が日本でこれほど愛されているのか、理解することができる。

「忘れられたアリエッタ」と題された9つの小さな詩は、『言葉なきロマンス(Romances sans paroles)』に収録され、1874年に出版された。

1874年は、第一回印象派展が開催され、モネの「印象・日の出」から、印象派という名称が生まれた年。
印象派の画家たちからの直接的な影響はないとしても、同時代的な表現法の類似が、ヴェルレーヌの詩との間に見出されることは確かである。

ヴェルレーヌの生涯でいえば、ランボーとのイギリスでの生活が破綻し、ブリュッセルのホテルで彼の手を銃で撃ち、監獄に入れられていた時期。
その頃の詩作はランボーとの相互的な影響作用で、音楽性がもっとも強く打ち出されていた。「何よりも先に音楽を」と歌った「詩法」が書かれたのも、1874年。
https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/

「詩法」の中で、詩句を音楽的にするためには奇数の音節数が大切だとしている。「忘れられたアリエッタ その1」は、全て7音節の詩句からなり、奇数音節が実践されている。

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