
フランソワ・ラブレーは16世紀前半を代表する作家というよりも、フランス文学全体を通して最も重要な作家の一人。
残念ながら、16世紀のフランス語は現代のフランス語とかなり違っていて、容易に読むことができない。従って、ラブレーのフランス語のテクストをそのまま読み、解読してしていくことは難しい。
ここでは、ラブレーの教育論と理想世界について、核になる言葉を取り上げて、概要を見ていくことにする。
ポイントになるのは、二つの言葉。
« science sans conscience n’est que ruine de l’âme. »
« Fais ce que voudras.»
教育論

『パンタグルエル物語』第8章は、父ガルガンチュアが息子パンタグルエルに宛てた手紙で構成され、その内容は16世紀ユマニスムの教育論。
その教育論の本質は、以下の言葉に詰まっている。
Selon le sage Salomon,
sapience n’entre point en âme malivole,
science sans conscience n’est que ruine de l’âme.
賢者サロモンの言うところによれば、
叡智(sapience)は悪意ある(malivole)魂には入らない。
良心の欠けた(sans conscience)学問(science)は、魂の廃墟にすぎない。
例えば、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチにもし悪意があり、良心に欠けていたら、まったく意味のない存在でしかないと見なされる。
学び、叡智(sapience=sagesse)を身につけることは、魂(âme)を養うこと。そうした考えが、ユマニスムの根本だった。
ラブレーの物語は散文だが、この格言めいた言葉は、[ s ]を多用し、詩の技法におけるアリテラシオン(子音反復)のように、リズミカルで覚えやすい表現になっている。
[S)の音を意識しながら、SapienCe…, ScienCe Sans conSienCeと言ってみると、その効果がはっきりと感じられる。
(Selon le Sage Salomonでも、3つSが繰り返されている。)
もう一つの詩学のテクニックは、似た音でありながら、意味の違う言葉を同時に使用すること(paronomase)。
そのことで、学問(science)と良心(conscience)の関係を際立たせている。
では、魂を養うためにはどうすればいいのか?

『ガルガンチュア物語』の「著者の前書き」には、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの例が提示されている。
ソクラテスの外観は非常に醜いが、中身は世界で最高の叡智が詰まっている。
従って、外観にとらわれず、中身をしっかりと吟味することが大切である。
ラブレーは、外観と内実の関係を、犬と骨髄を例に取り説明する。
あなた方は、髄の入った骨を見つけた犬を見たことがあるだろうか。プラトンが『国家』第2巻の中で書いているように、この世で犬ほど哲学的な動物はいない。もしこうした犬を見たことがあるならば、どれほど敬虔に骨を探るか、どれほど注意深く守るか、どれほど熱心にくわえるか、どれほど慎重に噛みつくか、どれほど愛情を込めてかみ砕くか、どれほど一生懸命に啜るのか、気づいたことがあるに違いない。誰がそんなことをさせるのか? 何かを探る(étude)そうした振る舞いに、期待しているのは何か? どのような富(bien)があると思っているのだろうか? そこにあるのは、ほんの僅かな骨髄にすぎない。(中略)この髄は、完璧なまでに精錬された自然の糧なのだ。
骨は堅く、何も中身はないように見える。
しかし、その中心は、ほんの僅かかもしれないが、素晴らしく美味しい髄がある。
犬は、それを知るからこそ時間をかけて骨をかじり、髄を味わう。
ラブレーは、読者が、この犬のように彼の作品を読んで欲しいと願う。
『ガルガンチュア物語』や『パンタグルエル物語』は、糞尿の話が出てきたり、滑稽な挿話が続く。
そうした表面の内部には、ルネサンス自体のユマニスム(人間主義)のエッセンスが詰まっている。それが、骨の髄に他ならない。
従って、読者は、滑稽で、時にはグロテスクな挿話を楽しんで終わるのではなく、外観の下に知恵を読み取ることが大切になる。
骨の髄を前にした犬の姿を学び、彼の作品で実践すること。そうすれば、魂の廃墟(ruine de l’âme)にはならない。
それがラブレーの考える教育だといっていいだろう。
理想の世界 テレームの僧院

ラブレーは、『ガルガンチュア物語』の最後で、「テレームの僧院」という理想世界を描いている。
その僧院の標語は、ラブレーの考えるユートピアがどのようなものは、はっきりと示している。
Fais ce que voudras.
汝の欲するところをなせ。
注:ラブレーの時代のフランス語では、ラテン語と同じように、動詞の前に代名詞を置くことが必要ではなかった。活用によって、主語になる人称が限定されるからである。従って、voudrasの前に代名詞 tu が置かれていない。
この標語が示すところは、ラブレーにとって、ユートピアとは100%の自由が行われうる場所。
現実社会では、誰もがしたいことをしたら、衝突が起こり、悪が世界を覆うことになりかねないと、多くの人が考えるだろう。
としたら、ラブレーは、どのようにして理想像に到達することが可能だと考えるのか?
その答えは、教育。
人文主義(ユマニスト)的な教育では、知識の伝達は、それだけでは終わらず、人格の形成が最終の目的だと考える。
science sans conscience n’est que ruine de l’âme.
良心の欠けた学問は、魂の廃墟にすぎない。
もう一歩踏み込んで考えると、ラブレーの人間観が浮かび上がってくる。
(1)人間は本来、善良な存在。
あるいは、正しい教育によって、人間は善と徳を身につけることができる。
(2)束縛
現実生活の中では、人間は束縛や服従に縛られていて、そのためにかえって禁じられたことをしてしまう。
禁止されると、それを破ってしまうのは、人間の性ともいえる。
パンドラ、青髯、鶴の恩返し、浦島太郎など、多くの神話や昔話が、そのことを証明している。
(3)人間は変わる。
ルネサンス的人間観は、人間が変化しうることに、人間の偉大さを見る。
肉体と同時に精神を鍛えることで、(ダ・ヴィンチのような)普遍的な知識を獲得し、魂を養う知恵(sapience)を得ることができる。
教育によって、人間は、悪を犯す存在から善へ向かう存在へと変化することができる。
知恵を得た人々は、悪を犯すことがなく、100%の自由を行使することが出来る。
その理想に達した人々が集うのが、テレームの僧院。
現実世界を考えれば、悪がはびこり、自由を100%行使できることはない。
自由を行使できるのは、理想世界(ユートピア)にすぎない。
現実と理想の対比を、ラブレーは『パンタグルエル物語』の中で、次のように表現する。
Cette vie est transitoire, mais la parole de Dieu demeure éternellement.
この世は移り去る。しかし、神の言葉は永遠に続く。


この言葉は、ラブレーが、キリスト教的世界観と同時に、古代ギリシアのプラトン的世界観に基づいていることを示している。
現実世界を儚く束の間(transitoire)だと捉え、現実を超えたイデア界を永遠(éternel)だと見なす。そして、その理想世界こそが実在だと考えるのが、プラトン哲学の根本的な思考。
他方で、永遠を、神(Dieu)の国であると考えるのは、キリスト教。
引用した表現は、二つの思考の融合であることがわかる。
ところで、『ガルガンチュア物語』でユートピアとして描かれる「テレーム」の語源は、ギリシア語の θέλημα (望み)。
その言葉は、新約聖書では「神の意志」を意味する。

イタリア・ルネサンスを代表する挿絵入りの美しい書籍『ポリフィルス狂恋夢(Songe de Poliphile)』にも、同じ語源の名前を持つニンフが登場する。
テレミー(Thélémie=意志)。
彼女は、主人公のポリフィルスを導く役割を担っている。
こうしたことは、ラブレーの思想が、キリスト教世界と古代ギリシア・ローマの思想とを融合させるネオ・プラトニスムに基づいていることを示している。
このように考えると、テレームの僧院はイデア界にある実現不可能なユートピアであり、« Fais ce que voudras.»は、虚しい標語に思われるかもしれない。
実際、人間はイデアに到達できず、悪のはびこる儚い現実を生きなければならない。

しかし、プラトニスムにおいて本質となるのは、束の間の世界と永遠のイデア界の絶対的な分割を前提にした上で、人間が時間の流れる現実を離れ、永遠の理想世界へと向かう、その動きに他ならない。
プラトン哲学では、その動きはエロース(愛)。
人文主義的な思想では、愛に代わり、教育の力を論じた、とは言えないだろうか。
人間は、過ぎ去る時間を生きながら、良心に基づいて多くの知識(science avec conscience)を学ぶことで、人間の世界を超えた永遠の世界(ユートピア=テレームの僧院)に入る資格を得ることができる。
そうした人間であれば、« Fais ce que voudras.»が標語である世界で、平和で幸福な生を送ることができる。
理想主義的すぎると思われるかもしれないが、こうした教育に基づく理想世界のあり方は、調和に満ちたルネサンス芸術の世界観と共通している。
そこで、ユマニスト的な教育によって育てられた人間の姿は、ルネサンス時代の絵画や建築から推測することができるだろう。
テレームの僧院の描写は、ルネサンス建築の様式と対応すると言われている。

左右対称で、完璧なプロポーションを持ち、調和の取れた美は、ルネサンスを代表する建築物であるシャンボール城を思わせる。

絵画で言えば、ラフェルの「アテネの学堂」。

人間の姿で表すとすれば、ウィトルウィウス的人体図。
共和制ローマ期の建築家ウィトルウィウスの『建築論』第3巻には、神殿建築は人体と同様に調和したものであるべきという記述がある。
その説に基づき、レオナルド・ダ・ビンチは、「ウィトルウィウス的人体図」を描いた。

人文主義的な教育が目指したのは、建築や絵画と通底する調和の取れた美を体現する人間だと考えられる。
そうした人間が住む場所は、同じ精神を別の形で表現するテレームの僧院。
ラブレーは、骨の髄を味わい、叡智を身につけた人間を教育によって育てることが可能であると考え、テレームの僧院を彼等の住まいとして構想したのではないだろうか。
「フランソワ・ラブレー François Rabelais 『パンタグルエル物語』と『ガルガンチュア物語』教育論と理想世界」への1件のフィードバック