モリエール 人間嫌い Molière Le Misantrope 自分に正直に生きる?

Nicolas Mignard, Molière

17世紀を代表する劇作家の中で、コルネイユとラシーヌは古代ギリシアやローマの英雄たちを登場人物にした悲劇を中心に創作活動を続けた。
他方、モリエールの芝居は、彼と同じ時代の人々を舞台上に登場させた。

その理由は、モリエールの活動が田舎回りの劇団から始まり、そこでは滑稽な笑劇が人気を博したことから来ているかもしれない。
その過程で、彼の興味は、ルイ14世を頂点とした宮廷社会の中で、個人と社会の葛藤から生じる様々な問題に向いたのだと考えられる。

「人間嫌い(Misantrope)」が取り上げるのは、21世紀の私たちの視点から見ると、偽善と正直さの葛藤のように思われる。簡単に言えば、人と上手くやっていくためには多少の噓もしかたがないか、それとも、正直であることが大切なのか。

主人公のアルセストを特徴付けるのは、正直さのように感じられる。
人々は心を偽り、その場だけでいい顔をして、後ろに回れば悪口を言い放題。アルセストはそうした「偽善(hypocrisie)」を攻撃し、心に抱いた思いは全てそのまま口にし、行動する。
ところが、彼の愛する女性セリメーヌは、偽善そのもの。どんな男にもいい顔をし、誰からも好かれようとする。
彼等二人の間には、中庸を地でいくフィラント。彼は人の気持ちを害さず、「人に気に入られる(plaire)」振る舞いを忘れない。

では、17世紀にも同じ視点でこの劇が捉えられたのだろうか。

アルセストたちが生きる17世紀後半は、デカルトに代表される「理性(raison)」が重んじられ、個人の「情念(passion)」に引きずられることは悪とされた。
社会生活を巧みに生き抜くために求められるのは、中庸であり、社会の基準に個人を合わせる振る舞いが、「礼儀正しさ(bienséance)」の規範。

その基準となるのは「外見(apparence)」。
心の中で何を思い、どのような情念を抱いていようとも、表面ではその場の状況に合った服を着、身分に相応しい行動をすることが不可欠だった。
そのように振る舞うことが、この時代に最も重視された「人に気に入られること(plaire)」の秘訣だった。

「中庸」の反対には、「過激」がある。
モリエールが芝居のテーマとするのは、多くの場合、過激さであり、過度の情念を体現する人間を笑いの対象とした。
知識をひけらかす女性、貴族の振る舞いを真似る町民、ニセ信者、偏執狂、等々。

こうした時代背景を頭に置いた上で、「人間嫌い」を実際に読んでみよう。

そうであること(être)vs そのように見えること(paraître)

アルセストは、友人だと思っていたフィラントが、ほとんど面識のない人と出会い、友人のような振りをしながら接する姿を見て、フィラントにこんな言葉を投げかける。

Moi, votre ami ? Rayez cela de vos papiers.
J’ai fait jusques ici profession de l’être ;
Mais, après ce qu’en vous je viens de voir paraître,
Je vous déclare net que je ne le suis plus,
Et ne veux nulle place en des cœurs corrompus.

僕が君の友だち? そんなこと、ノートから削除しておいてくれ。
僕は、これまでずっと、友だちであることを信条にしてきた。
でも、君の中に今しがた現れたことを見た後では、
はっきりと言うが、ぼくはもう友だちじゃないし、
そんな堕落した心の中にどんな場所を持つことも望まない。

このアルセストの言葉の中には、二つのあり方が対立している。
一つは、「であること(être)」。もう一つは、「そのように見えること(paraître)」。

アルセストには、常に「であること」が大切であり、友だちに見せかけることは許しがたい。彼は、êtreとparaîtreをはっきりと区別し、「のように見えること」は受け入れない。
彼の正直さとは、いつでも、どこでも、誰に対しても、「であること(être)」のままでいることだ。

それに対して、フィラントは、その場その場に応じて、それらしく見せ、「そのように見えること(paraître)」を受け入れる。
「外見の文化(culture de l’apparence)」の中では、それが相応しい行動様式だった。
さらに言えば、ルイ14世を頂点とする宮廷社会では、フィラントの振る舞いが「自然な(naturel)」行動だと思われたかもしれない。なぜなら、その社会の中では、中庸が美徳であり、社会の基準に個人を合わせ、人に不快感を抱かせないことが、礼儀正しさと見なされていたからである。

しかし、アルセストの目から見ると、フィラントの友情が本当にそうなのか、そう見せているだけなのか、わからない。従って、フィラントのことを信じられないし、友だちでいる(être)ことはできない、ということになる。

自己矛盾するアルセスト

Abraham Bosse

物語が展開し、アルセストは、愛するセリメーヌが、他の男にもいい顔をしていることを知る。そして、その証拠として、彼女が詩人オロントに宛てて書いた手紙を読むことになる。
そして、セリメーヌを問い詰める。

アルセストから説明を求められたセリメーヌは最初うち、何とか言い訳を考える。しかし、途中から、逆に、アルセストが彼女を信頼しないこと、無神経さなどを非難し始め、別れたければ別れればいいと開き直る。

しかし、アルセストは別れを決心できず、何とか彼女を説得しようと試みる。

Alceste, à part.
Ciel ! rien de plus cruel peut-il être inventé,
Et jamais cœur fut-il de la sorte traité !
Quoi ! d’un juste courroux je suis ému contre elle,
C’est moi qui me viens plaindre, et c’est moi qu’on querelle !
On pousse ma douleur et mes soupçons à bout,
On me laisse tout croire, on fait gloire de tout ;
Et cependant mon cœur est encore assez lâche
Pour ne pouvoir briser la chaîne qui l’attache,
Et pour ne pas s’armer d’un généreux mépris
Contre l’ingrat objet dont il est trop épris !

アルセスト(独白)

おお天よ! これ以上に残酷なことが考えられるだろうか。
かつて、心がこんな風に扱われたことがあっただろうか!
何だって! 正当な怒りで、ぼくの心は動揺している、彼女に対して。
ぼくが文句を言いに来ているのに、ぼくが非難されている!
苦痛と疑いが、行き着くところまで押しやられている。
ぼくは全てを信じるようにされ、彼女は全てを誇っている。
こんな時でも、ぼくの心はまだとても臆病で、
心を繋いでいる鎖を壊せない。
堂々と軽蔑の鎧をまとえない、
心が夢中になっている不実な対象に対して!

朗読は、5分20秒から

アルセストは、自分が文句を言うためにセリメーヌのところに来たのに、いつの間にかセリメーヌに責められるようになっているのに気づく。

アルセストは自分の「怒り(courroux)」を「正当なもの(juste)」だと思っている。
しかし、セリメーヌは全ての事柄に関して言い訳をやめ、「誇りさえする(on fait gloire de tout)」。そのことで、彼が彼女の「全ての言い分を信じる( laisse tout croire)」ように持って行く。
そのため、アルセストの「苦痛(ma douleur)」や「疑惑(mes soupçons)」は和らぐどころか、どんどん強まっていく。

ちなみに、愛に関する言葉では、しばしば主語が「彼女(elle)」ではなく、「人(on)」になっている。その理由は、ある解説によると、アルセストの心の動きがあまりに大きいために、彼女を前にして彼女のことを考える時、人としか言えないからだという。

なぜそんな「残酷な(cruel)」扱いを受けているのか?
アルセストには、自分なりの自己分析ができている。
彼女のことを愛しているため、別れると言われてしまうと、心が臆病になってしまう。そのために、心を繋いでいる「鎖を断ち切る(briser la chaîne)」こともできないし、彼女が「誠実ではない(ingrat)」と分かっていても、「軽蔑(méprit)」し、無視することができない。

アルセストが求めているのは、セリメーヌが彼を愛する振り(paraître)をするのではなく、愛すること。しかし、彼女は彼の求めることから最も遠い存在。
では、なぜ、最も軽蔑すべき女性を愛するのか?
理性的に考えれば、その愛は説明できない。とすれば、それは反理性的であり、17世紀の言葉で言えば、「情念(passion)」に他ならない。

アルセストは情念を理性で制御できず、嫉妬心にかられ、セリメーヌに次のように話しかける。その言葉は、まるで悲劇の主人公のように仰々しい。

(à Célimène)
Ah ! que vous savez bien ici contre moi-même,
Perfide, vous servir de ma faiblesse extrême,
Et ménager pour vous l’excès prodigieux
De ce fatal amour né de vos traîtres yeux !
Défendez-vous au moins d’un crime qui m’accable,
Et cessez d’affecter d’être envers moi coupable.
Rendez-moi, s’il se peut, ce billet innocent ;
À vous prêter les mains ma tendresse consent.
Efforcez-vous ici de paraître fidèle,
Et je m’efforcerai, moi, de vous croire telle.

(セリメーヌに向かって)
ああ! あなたは、ここで、私自身に対して、
不実な人よ、私の極端な弱さを利用することがおできになります。
あなたのために、この愛の驚くべき過剰を巧みに扱うこともおできになります。
この致命的な愛は、人を裏切るあなたの眼差しから生まれたのです!
少なくとも、私を苦しめる罪を犯さないようになさってください。
私に向かって、罪を犯しているような振りをするのは止めて下さい。
お願いですから、その罪のない手紙を返してください。
私は、優しい気持ちで、あなたのお手伝いをいたします。
ここでは、誠実である振りをしてください。
私も、あなたがそうであると信じるように努めます。

セリメーヌを失いたくないアルセストは、自分が弱い立場にいることを認め、最後には、彼女が「誠実(fidlèe)」である「振り(paraître)」をすれば、それを信じる振りをするとさえ言う。
このアルセストの言葉は、「である(être)」という信念が情念によって曲げられたことを示しており、『人間嫌い』の本質に関わる最も重要な場面だといえる。

そこに行きつくまでに、彼は次のような論理を組み立てる。
私はとても弱い立場にいる。「不実(perfide)」で、「裏切り者(traître)」のあなたに対する愛は「運命的(fatal)」であり、逃れることができない。
その愛は、理性から外れ、「過剰(excès)」であり、それに比例して、私の弱さも「極端(extrême)」なほど。
セリメーヌには、その弱さを利用してほしい。私としては、「手紙(billet)」は「罪のないもの(innocent)」だと思う。だから、別れるなどという「罪(crime)」を犯さず、今まで通り「誠実な振り(paraître fidèle)」をしていてくれればいい。
私は「優しい気持ち(tendresse)」で、そうすることに「手を貸す(prêter les mains)」、つまり手助けするつもりがある。

こうしたセリフには、ラシーヌの悲劇を思わせる単語が用いられ、アルセストがあたかも悲劇の主人公であるといった印象さえ生み出すほどである。
そして、そのために、彼の滑稽さが明確に浮かび上がってくる。
17世紀の宮廷社会とパリの社会において、最も重要なのが中庸さだったとすると、アルセストの過激さ、極端さは、「よき習慣(bons usages)」の対極にある。
そうした中で、彼の滑稽さは、セリメーヌに「振り(paraître)」をしてくれと頼むところに集約されている。

この部分の効果を上げるために、「人間嫌い」は一行12音節の韻文(アレクサンドラン)で書かれているのではないかと思えるほどである。

Célimène
Allez, vous êtes fou dans vos transports jaloux,
Et ne méritez pas l’amour qu’on a pour vous.
Je voudrais bien savoir qui pourrait me contraindre
À descendre pour vous aux bassesses de feindre ;
Et pourquoi, si mon cœur penchait d’autre côté,
Je ne le dirais pas avec sincérité !

セリメーヌ
まあまあ、あなたは、嫉妬の激情にかられて、気がおかしくなっています。
ですから、あなたに対して私が抱いている愛に値しません。
教えてください、誰が私に強制できるというのでしょう、
あなたのために、振りをするという下らないことをするところまで下っていくことを。
なぜ、もし私の心が別の方に傾いているとしたら、
そう誠実に言わないのでしょう!

ここでは、セリメーヌが、「振り(feindre)」をすることは、「下らない行為(bassesse)」だと言い、「誠実さ(sicérité)」を主張する。
そして、「嫉妬心(jaloux)」から「激情(transports)」し、信念を曲げるアルセストは、気がおかしくなったとしか思われず、彼女の愛に「値しない(ne pas mériter)」のだと言う。

これほど、アルセストの「である(être)」の信念を揶揄する言葉はない。そして、彼女はさらに言葉を続ける。

Quoi ! de mes sentiments l’obligeante assurance
Contre tous vos soupçons ne prend pas ma défense ?
Auprès d’un tel garant sont-ils de quelque poids ?
N’est-ce pas m’outrager que d’écouter leur voix ?
Et puisque notre cœur fait un effort extrême
Lorsqu’il peut se résoudre à confesser qu’il aime ;
Puisque l’honneur du sexe, ennemi de nos feux,
S’oppose fortement à de pareils aveux,
L’amant qui voit pour lui franchir un tel obstacle
Doit-il impunément douter de cet oracle ?
Et n’est-il pas coupable, en ne s’assurant pas
À ce qu’on ne dit point qu’après de grands combats ?
Allez, de tels soupçons méritent ma colère ;
Et vous ne valez pas que l’on vous considère.
Je suis sotte, et veux mal à ma simplicité
De conserver encor pour vous quelque bonté ;
Je devrais autre part attacher mon estime,
Et vous faire un sujet de plainte légitime.

なんですって! 私の感情は気持ちがいいほど確かです。それが、
あなたの疑い全てに対して、私を弁護してくれるのではないでしょうか?
こうした保証人が近くにいれば、疑いに何らかの重みがあるといえるでしょうか?
疑いの声に耳を傾けるのは、私を侮辱することではないでしょうか?
私たちの心は、極限まで努力します、
愛を告白する決心がつく時には。
愛の炎の敵である女性の名誉は、
そうした告白に強く反対します。
ですから、恋する男性が、自分のために障害物が乗り越えられるのを見てなお、
その神託に疑いを抱くようなことをしたら、罪が無いなどということがあるでしょうか?
そうした人は罪がないのでしょうか? 安心できないような人です、
大きな戦さの後でしか人が口にしないことを耳にしてさえも。
そうです、それらの疑惑は、私の怒りに値します。
あなたは、尊敬されるに値しません。
私は愚かです。自分の単純さに怒りを感じます。
まだあなたに対して、なにがしかの善意を持っているのですから。
尊敬の気持ちを、別の方に結び付けるべきなのでしょう。
あなたに対しては、根拠のある苦情を申し上げるべきなのでしょう。

セリメーヌにとって、女性が愛の告白をするときには大きな勇気が必要であり、名誉を犯すことにもなりかねない。
だからこそ、告白に疑いを持たれたら、侮辱されたことになる。疑いには怒りを感じるし、疑うような男は尊敬に値しない。

それなのにと、セリメーヌは思う。まだアルセストに「善意(bonté)」を抱いている自分は、「バカ(sotte)」で、自分の「単純さに怒りを感じる(je veux mal à ma simplicité)」、と。

しかし、実際には、セリメーヌは多くの男にいい顔をして、アルセストの疑いを招いたとしてもしかたがない行動をしてきた。従って、彼女の言葉は、現実と付き合わせれば、口実でしかない。
そこで、アルセストは、反論を試みる。

Alceste
Ah ! traîtresse ! mon faible est étrange pour vous ;
Vous me trompez, sans doute, avec des mots si doux ;
Mais il n’importe, il faut suivre ma destinée ;
À votre foi mon âme est tout abandonnée ;
Je veux voir jusqu’au bout quel sera votre cœur,
Et si de me trahir il aura la noirceur.

Célimène
Non, vous ne m’aimez point comme il faut que l’on aime.

アルセスト
ああ! 裏切り者! あたなにとって、私の弱さは奇妙なものなのでしょう。
あなたは私を騙しています、疑いありません、甘い言葉でです。
でも、そのことは大切ではありません。私は運命に従わなければなりません。
私の魂は、あなたへの信仰に、完全に身を委ねてしまっています。
あなたの心が最後まで進んだ時に、どのようなものなのかを見たいです。
その心が私を裏切る腹黒さをもっているのかどうか、見たいのです。

セリメーヌ
いいえ。あなたは私を愛していません、そうしなければならないようには。

セリメーヌがアルセストの「弱さ(faiblesse)」を「奇妙なもの(étrange)」だと見なすのには訳がある。
彼女は常に愛しているように見せ、多くの男達を自分の回りに引き寄せてきたので、愛する人を失う恐れも知らないし、恐れに由来する弱さも知らない。だから、アルセストの弱さが理解できないのである。

アルセストの方では、善意を持っている等という彼女の言葉を信じ、甘い言葉をかけられたと思い込もうとしている。しかし、実際には、騙されているとわかっている。

そうした矛盾した状況の中で、とにかく彼女への愛を「信仰(foi)」だと思い込み、「魂を委ね(mon âme est tout abandonnée)」、「運命(ma destinée)」に従わなければならないと、自分の愛が宿命のものであると言い張る。
このように、一人の女性に対する愛を神に対する信仰と同一視し、二人の愛が運命だなどと、過激な言葉を連ねていることがわかる。

セリメーヌは、こうした過激なアルセストの愛が、作法と違っていると指摘する。
彼女の言う愛の作法とは、「人が愛さなければならないように(comme il faut que l’on aime)」というもの。
外見の社会の中で流通する愛は、理性によって中庸を保ち、情念に引きずられて過激にならないことが求められた。

しかし、全てにおいて自分の心のままであろうとするアルセストは、理性的な愛とは反対の方向へ進み続けていく。

Alceste
Ah ! rien n’est comparable à mon amour extrême ;
Et dans l’ardeur qu’il a de se montrer à tous,
Il va jusqu’à former des souhaits contre vous.
Oui, je voudrais qu’aucun ne vous trouvât aimable,
Que vous fussiez réduite en un sort misérable ;
Que le ciel en naissant ne vous eût donné rien ;
Que vous n’eussiez ni rang, ni naissance, ni bien ;
Afin que de mon cœur l’éclatant sacrifice
Vous pût d’un pareil sort réparer l’injustice ;
Et que j’eusse la joie et la gloire en ce jour
De vous voir tenir tout des mains de mon amour.

Célimène
C’est me vouloir du bien d’une étrange manière !
Me préserve le ciel que vous ayez matière…

アルセスト
ああ、何も、私の極端な愛に比べられるものはありません。
愛が誰にでも見せる形で示す熱情の中で、
あなたの意志に反する望みを抱くところまで進みます。
そこで、私が望むのは、誰一人あなたを愛らしいと思わないこと。
あなたが惨めな運命に導かれること。
あなたが誕生した時、天があなたに何も与えなかったこと。
地位も、生まれも、財産もないこと。
そうすれば、私の心の輝かしい犠牲が、
あなたの運命の不公正を修復することができたことでしょう。
そして、私は、今、喜びと栄光をもったことでしょう、
あなたが全てを持つのは、私の愛の手からだということを目の当たりにして。

セリメーヌ
奇妙な仕方で、私に善を望んで下さること!
あなたがそんなことをするのを、天が妨げてくださいますように・・・。

セリメーヌの考える愛に対して、アルセストは最も対極の言葉で彼の愛を形容する。それが、「極端な(extrême)」愛という表現。
彼は、それが、「あなたの気持ちに反する望み(souhaits contre vous)」だということまで理解している。

それにもかかわらず、嫉妬に駆られ、彼女が生まれも、身分も、財産も、美貌も持たず、最低の状況になってほしいと望む。というのも、そうなれば、彼女を愛するのは彼一人になり、彼女は全てを彼の愛の手から受け取るだろうというのである。

こうしたエゴイスティックな願いに対して、セリメーヌは直接拒絶することはしない。
その願いが、「奇妙な(étrange)」仕方で、彼女のために「善(bien)」を望むことだと、曖昧な言葉で応える。
そして、彼女の方でも神を持ち出し、そうした願いが実現する(que vous ayez matière)ことがないようにと願う。

ここでもセリメーヌは、直接アルセストを拒絶し、愛していないと告げるのではなく、あくまでも愛を保っているような振る舞いをしながら、身をかわそうとする。彼女は最初から最後まで、「のように見える」側の人間なのである。

こうした二人の会話から明白になるのは、アルセストの過激さ。その姿は、外見の文化の中では大変に奇妙なものであり、最も重視される「気に入られる(plaire)」行動の対極にあるものだった。
17世紀後半の観客の目には、アルセストは、当時の理想的人間像である「礼儀正しい紳士(honnête homme)」からは最も遠いところにいる人間だと見なされた。従って、彼は最終的には社会から離脱し、隠遁生活に入らざるをえなくなる。

他方で、セリメーヌも、八方美人ぶりがあまりにも行きすぎていたために、全ての恋人達を失ってしまう。アルセストだけは彼女を愛し続けるという奇妙さを示すが、しかし彼を受け入れることはしない。
このように、彼女にとっても、過剰は不幸をもたらす結果になる。

「人間嫌い」は多くの場合、自分の内心の声に正直な行動を取るか、回りに合わせて自分を偽るかという視点で取り上げられる。
しかし、それは17世紀の視点ではなく、18世紀後半以降の視点であると考えた方がいい。
ジャン・ジャック・ルソーは、『演劇に関するダランベール氏への手紙』(1758年)の中で、アルセストの体現するものこそが美徳であり、アルセストを嘲笑することによって美徳を嘲笑したと、モリエールを強く非難した。
ルソーにとっては、肉体が透明になり、内心がそのまま相手に伝わることが「自然」状態であり、それが理想だった。
人間が文明化されるに従い、透明度が失われ、堕落する。社会の中で、内心を偽り、振りをするようになった。

そうした考え方は、17世紀のものではない。
17世紀においては、環境に「適合すること(convenance)」が「自然さ(naturel)」であり、「気に入られる(plaire)」ための最も基本的な行動だった。
他方、「過激さ(excès)」は「情念(passion)」を生み出す、排除すべき要素と見なされた。

こうした時代による考え方の違いを知った上で「人間嫌い」を読むと、21世紀を生きる私たちには気づかない視点が発見でき、ますます面白い作品に思えてくる。

最後の激情の様子を、古いビデオを見、これまで読んだ部分を耳で確認してみよう。(1時間14分25秒くらいから。)

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