鎖国と文化の成熟 日本文化の黄金期:平安時代と江戸時代

日本が最も華やかな文化を成熟させたのは、平安時代と江戸時代だといってもいい。

その2つの時代、外国に対して国が閉ざされ、それまで吸収してきた異国の文化が国内で醸成され、日本独自の素晴らしい芸術作品が生み出された。
例えば、平安時代であれば「源氏物語」。江戸時代であれば数々の浮世絵。

自己の内に籠もることは、決して否定的な側面だけではない。
外部から取り入れるものは、しばしば表面的な受容だけされ、次に新しいもが来るとすぐに忘れさられてしまいがちになる。
しばらくの間外部からの刺激を閉ざすことで、それまで吸収してきたものをじっくりと受け取り、自分なりの表現に変形することが可能になる。
鎖国はそうした熟成期間を生み出す機会でもある。

日本の文化の歴史を、地面を掘り返す考古学ように、巨視的に振り返ってみよう。

仏教文化の到来と受容:白鳳・奈良時代

すでに弥生時代、紀元前2,3世紀から、大陸からの文化の影響が見られる。その後も漢委奴国王印や卑弥呼を思い出すとわかるように、大陸からの文化の移入が確認される。

文化的に最も大きな要素は、538年と言われる仏教伝来。日本における仏教文化は6世紀から始まり、その影響は21世紀の現代にまで続いている。
仏教文化は、遣隋使や遣唐使などの制度を通し、白鳳、奈良、平安時代前期を通して、盛んにもたらされた。

日本最初の史書である『古事記』や『日本書紀』も大陸の史書から借用している部分が多くあり、『万葉集』で使われた文字「万葉仮名」も輸入品である漢字を用いて書かれている。

日本は本来無文字文化の国であり、文字自体が輸入品である。
そして、漢字から平仮名と片仮名を作り出した。ここに日本文化の最大の特色が表れている。外国からの渡来品を和様化したものが日本の特産品になる。

しかも、漢字も並行して使われ続け、私たちはそれを外来品とは感じない。
さらに面白いことに、これだけ日本の風土に根ざしているにもかかわらず、漢字は常に漢から来た文字であることが示され続け、平仮名とは区別される。
柄谷行人は、受け入れながら、しかも常に他者であることを示し続けるところに、日本的心性の特色があるという。

仏教伝来から、鎖国ともいえる遣唐使廃止(894年)までの約350年の間に、日本は大陸的な律令国家となり、大陸の仏教建築に倣い、法隆寺、薬師寺、東大寺などが建立された。
また、最澄や空海など優れた僧侶によって天台宗や真言宗などの宗派も作られた。
この間、たっぷりと大陸文化を受け入れたことは、様々な文化遺産を思い起こせばすぐに理解できる。

第一の鎖国期間:平安時代中期から後期

長い吸収期間の後で、熟成の期間が来る。
遣唐使廃止によって、大陸との関係が断たれ、それまでのような交流は途絶える。そして、その状態は、公式には、平清盛が宋との貿易を計る12世紀の後半まで続く。
その約300年近くの間、平安時代の王朝文化が開花する。その優美な文化は、前の時代に移入された文化を熟成させ、大陸的なものを日本的に変形した結果だといえる。

和様式化のわかりやすい例は、大和絵。
大陸の険しく厳格な印象を与える絵画から、穏やかで柔らかなタッチの絵画が描かれるようになった。

建築的な美の典型は、平等院鳳凰堂。
浄土を死後に求めるのではなく、地上に浄土を出現させる思考は、大陸の仏教ではなく、現世的な日本的仏教の表現と考えることができる。

文藝では、『源氏物語』だけではなく、『古今和歌集』『枕草子』などが生み出され、日本文化の一つの柱を形成する。
仏教伝来以来移入されてきた文物が熟成し、美的な表現を備え、私たちが日本的と感じる感受性が、この鎖国の時期に一つ完成を迎えたといえる。

12世紀に後半になると、宋との貿易が公に認められ、それ以降、鎌倉、室町、安土桃山時代まで、再び輸入時代に入る。
そこでは、平安時代に確立した和様式に対して、大陸的な様式が打ち寄せ、それまでにはない特色を日本文化にもたらした。

禅文化の流入 鎌倉・室町時代

新しい文化の始まりを告げるのが、1199年に再建された東大寺南大門と言ってもいいだろう。
その建築様式は、大仏様(よう)あるいは天竺様(よう)と呼ばれ、中国江南地方の建築様式に則っている。つまり、南大門は日本の建築様式ではなく、大陸の建築様式の再現であり、鎌倉時代初期に大陸からの文化が再び日本に押し寄せてくる先駆けなのだ。

この時代に輸入された最大の要素は、禅宗。
栄西の臨済宗、道元の曹洞宗等の導入、円覚寺舎利殿に代表される建築物、余白を活かした山水画等、多方面への影響が見られる。
さらに、禅的な思想の反映は、鴨長明『方丈記』や兼好法師『徒然草』にも見られ、世阿弥が完成した能や千利休で知られる茶道も、禅と切り離して考えることはできない。

信長や秀吉が天下を統一しようとした安土桃山時代、絵画の分野では、漢画と大和絵の融合が試みられ、平安文化と禅文化が一つになろうとする動きが見られた。

その2系列の文化遺産が融合し結晶化したのは、江戸時代の鎖国政策のおかげだといえる。

第二の鎖国期間:江戸時代

江戸幕府は1616年には欧船の来航を平戸、長崎に制限し、1641年には鎖国が完成する。
その鎖国政策は、象徴的な出来事を取り上げれば、1853年のペリー来航によって開国を迫られるまで、約200年の間続くことになる。

江戸時代には士農工商という身分制度が制定され、階級による社会の分断が行われたが、その中で、とりわけ町人文化が発展を遂げた。

そこでの社会道徳は、朱子学に基づき、多くの藩では儒学を奨励し、日本的な道徳感が形作られた。
その一方で、古事記を取り上げ、日本の伝統を回復しようとする国学も誕生する。

文藝では、井原西鶴、近松門左衛門、十返舎一九等、名前の知られた作家たちの読み物だけではなく、浮世草子が人気を博した。
演芸でも、歌舞伎や義太夫など、庶民の人情を描いた劇が上演される。
俳諧連歌の世界では、松尾芭蕉が現れ、芸術性の高い俳句の世界を作り出した。

絵画では、将軍家に直属する狩野家の伝統的な絵画と並行して、俵屋宗達、尾形光琳たちが独創的な絵画の世界を展開した。
それに劣らず興味深いのは、江戸の町人を中心にした市民文化の表現である浮世絵が誕生し、開花した。

この鎖国の時期、日本は完全に外国文化の流入を止めたわけではなく、蘭学や洋画などヨーロッパからの文化の影響を受けて発展した分野もあったし、中国大陸の文化は常に日本人の理想のモデルであり続けた。
その意味では完全に国が閉じていたとは言えない。しかし、鎖国政策が異文化の流入を抑え、これ以前に蓄積してきた文化遺産を熟成させる期間として重要な役割を果たしたことは確かである。

江戸時代の文化的な豊かさは、平安時代に匹敵する。その二つの時代は、日本文化の黄金時代に他ならない。

欧米文化の流入:明治時代以降

明治初期の文明開化と呼ばれる時代から、日本の文化的な理想はヨーロッパやアメリカに移行した。

日本人は着物を捨てて洋服を着るようになり、生活様式も洋風なものが主流になった。
一時は伝統文化を蔑む傾向も強くなり、舶来品がもてはやされたこともあった。

しかし、外見は洋風になったとしても、どこかちぐはくな部分が残っている。
そのために、反動として、国家主義的な言動が見られることもある。

その当否は別にして、明治維新から現在まで、まだ150年あまりしか経っていないことを思い出すと、欧米文化受容の歴史の浅さに納得がいく。

大陸からの文化の流入は弥生時代から数えれば2000年以上続き、仏教伝来からでも1500年あまり。その間に、二度の鎖国期間があり、異文化を熟成する期間も通算500年ほどあった。
漢字は日本文化の根幹を形成しているが、しかし、「漢」という字で異国由来であることを示し続けている。「和」のテイストと「漢」のテイストは、今でもかなりはっきりと感じる。

こうした大陸文化受容の歴史と比較すると、欧米文化が大量に流入した期間は10分の1にも満たない。
自我が他者から独立し、「私」という個人が他者・物に働きかけることで創造が行われる。そして、他動的な能動性が肯定的に評価されるのが、欧米の価値観。
日本の価値観では、他動的であるよりも、あるがままの姿で自然に事物が成立することが好ましいと感じられる。
その二つの価値観をどのように融合させるのかはそれほど簡単な問題ではないし、日本的な受容を見出すためにはまだまだ時間がかかるだろう。

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