アイデンティティの捉え方がもたらす社会問題

精神分析学者エリサベート・ルディスコが、 2021年3月10日のQuotidienに招かれ、 アイデンティティについて話している内容は、フランスの社会問題を考える上で大変に興味深い。
1)精神分析は役に立つのか。立つとしたら何の役に立つのか。
2)現代のアイデンティティの捉え方がもたらす社会の問題

Elisabeth Roudinesco interroge les dérives identitaires
Elisabeth Roudinesco est historienne et psychanalyste. Autrice de grands livres de référence sur Jacques Lacan et Sigmund Freud, figure de la gauche française, engagée dans la lutte contre le colonialisme, l’antisémitisme et l’homophobie, elle publie cette année « Soi-même comme un roi ». Un essai sur les dérives identitaires de nos sociétés. 

1)個人的な会話の意義

精神分析は役に立つのか。もし役に立つとしたら、何の役に立つのか。
この問いに対して、エリサベート・ルディスコは、精神分析は不可欠ではないが、役に立つことはあると答えている。
精神分析とは、分析家と患者の間の言葉のやり取りに基づいている。
患者は、分析家との対話を通して、自分自身と距離を取り、自分を知り、自分をコントロールすることができるようになることを目指す。
両者の対話は、二人以外には知られない状況で行われる。
ルディスコの表現を借りると、「誰かとこっそり話しをする(parler avec quelqu’un en secret)」ことが、分析の核になる。

このことは、私たちの日常生活において、自分をコントロールするために必要なことを示している。
誰かと話をすると同時に、「こっそりと、秘密に(en secret)」話すこと。
それは、対話者の間だけで内容が保たれるという意味であり、それだからこそ、安心して他者に自分を明かすことができる状況が成立する。

精神分析というと、全てを性的な空想に結び付け、性が無意識の抑圧の原因であり、性の解放が精神的な問題の解決につながるような思い込みがあったりする。
しかし、本質が、自己を知り、自己をコントロールすることにあるとすると、その技術は、私たちの日常生活の中でも必要なことである。

要するに、分析家とではなくても、時に「誰かとこっそり話しをする(parler avec quelqu’un en secret)」ことで、自分を知る機会を持つこと。それが、人と話をすることの意義なのだと、エリサベート・ルディスコの言葉から理解することができる。

SNSの時代には、この機会が失われている。
言葉を投げかける相手は、非人称で不特定多数の、実体のない存在。目的は言葉が拡散することであり、秘密はない。
しかも、同意されることが前提。言葉は他者に向けられたものではなく、自己の中で回転するだけ。
そのために、自己を知り、自己をコントロールする機会にはならない。

2)限定的な自己同定(assignation identitaire)

フランスでは今、国粋主義的な考えを口にする人々が数を増している。白人優越主義を主張し、コロナ禍の中でアジア人に対する差別的な行為が行われることもある。
そうした傾向の原因を、エリサベート・ルディスコは、「限定的な自己同定(assignation identitaire)」という概念を使い分析している。

白人至上主義者たちは、自分たちを「白人」という枠組みに限定し、その枠組みだけに固執する。
一人の人間には様々な属性があり、複数の属性に所属しているにもかかわらず、「白人」に固執することで、他の肌の色の人間たちと自分たちを断絶する。
フランスでは、イスラム教徒の数が増え、移民の受け入れも進んでいるため、白人がアラブ、アフリカ系のイスラム教徒に取って代わられるという危機感を煽る傾向さえある。

こうした状況の結果、抑圧される側のイスラム教たちの中にも、「イスラム教徒」という枠組みだけに自己同定する動きが強まる。その結果、キリスト教徒の白人とアラブ・アフリカ系イスラム教という対立が人為的に作られ、絶対的な断絶が出来上がる。
彼らは一つの枠組みに固執するために、対立の枠組みから逃れられないどころか、対立を益々過激なものにしてしまっているのである。

エリサベート・ルディスコによれば、「人種」は存在しないという研究がある。
全ての人間は人類であり、犬や鳥とは違う種類。肌の色の違いは、人間を別の種類=人種として区別するものではない。白も黒も黄も、人間を異なる種に分類する要素ではない。
このように考えると、「白人」という枠組み自体に意味がないことになる。

もう一つの社会の現象は、トランス・ジャンル(性の超越)。
性同一性症候群と呼ばれるもので、肉体的には男性あるいは女性でありながら、精神的にはその逆だと感じている人々がいる。
そうした中で、手術や薬品によって別の性の肉体や生理になることもあり、あるいは第3の性として、男性でも女性でもない状態を主張する傾向も生まれている。

その現象に対し、エリサベート・ルディスコは二つの指摘する。
1)子供のうちに手術などを受けさせない方がいい。
子供の間は性同一性が不安定な時期があり、大人になってから、再び最初の性に戻りたいと思う可能性もあるというのがその理由。
2)第3の性はない。
性別は男性か女性のどちらかであり、そのどちらかを行き来することは自由。しかし、それ以外の性は存在しない。

実際、女性が男性に、男性が女性に転換することはあるが、どちらでもない性は存在しない。これまでの問題は、性転換や、男性的な女性や女性的な男性に対する差別や偏見だった。
日本では、あえてその偏見を逆手にとりマスコミで活動する少数の人間もいるが、しかし現実社会において、様々な問題は続いている。
大切なことは、男性や女性という性別に過度に同一化するのではなく、どちらに属してもいいし、変更する自由も認めることだろう。
「限定的な自己同定(assignation identitaire)」という概念が、ここでも鍵になる。

文学において、この問題は「違和感」という言葉で表現されてきた。
ボードレールは、散文詩「異邦人」の中で、社会の中で当たり前とされる感情に違和感を感じ、空を流れる雲に呼びかけた。
https://bohemegalante.com/2020/10/18/baudelaire-letranger-nuages-la-bas/

アルベール・カミュの「異邦人」の主人公ムルソーも、同様の違和感を感じている。
https://bohemegalante.com/2020/10/13/albert-camus-etranger-incipit/

村上春樹の小説の主人公たちも、周囲との違和感を感じ、しばしば引っ越しを繰り返す。
自分からする引っ越しは、自分のいる場所になじめず、別の場所を求める印である。

異邦人たちは、「限定的な自己同定(assignation identitaire)」をせず、複数のアイデンティティの間を自由に動く。そのことは、他者に対しても、特定のアイデンティティを押しつけず、そこに閉じ込めないことにつながる。

エリサベート・ルディスコのインタヴューは、従来の性的な強迫観念につきまとわれたような精神分析の話を離れ、現代社会の問題や、文学で扱われてきた問題について考えさせてくれる。