カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger 冒頭の一節(Incipit) 変な奴の違和感

時々、ちょっとおかしいと感じる人に出会うことがある。逆に、自分が他の人と少し違っているのではないかと感じ、居心地が悪くなる時があったりする。
そうした違和感は、あまり意識化されていない回りの雰囲気を漠然と感じ取り、そこから多少ズレていると朧気に感じる時に生まれてくる。
つまり、個人がおかしいというよりも、目に見えない規範との違いが、居心地の悪さ、違和感を生み出すのだといえる。

アルベール・カミュは、1942年に出版された『異邦人(L’Étranger)』の中で、そうした違和感をテーマとして取り上げた。

ムルソーは、母親の死、恋人への想い、殺人等に対して、「当たり前」とは違う反応をする「変な奴」。
普通であれば、ある状況に置かれればこうするだろうという行動を取らない。そのために、他の人たちは、彼の行動の理由も、彼自体も理解できない。
しかも、いくら「なぜ?」と問いかけても、ムルソーの答えはピンとこない。

フランス文学の世界では、17世紀の劇作家モリエールが、『人間嫌い、あるいは恋する憂鬱症の男(Le Misantrope ou l’Atrabilaire amoureux)』の中で、社会の規範に従わない人物を主人公にした。

19世紀になると、シャルル・ボードレールが、散文詩「異邦人(L’Étranger)」の中で、親にも友人にも愛着がなく、彼方に浮かぶ雲だけを求める謎めいた男の姿を描いた。

アルセストの場合には、宮廷社会の規範、つまり、人と合わせ、人の気にいられる振る舞いが礼儀正しさだということを、はっきりと意識していた。
その規範に従わないアルセストは、黒い胆汁(bile noire)を持つ憂鬱気質の人間(Atrabilaire)として、社会から離れざるをえなくなる。

ボードレールの謎の男の場合には、親兄弟や友人等を愛することは暗黙の了解であり、意識化される以前の規範だといえる。一般的には、「人間なら誰でも持っている感情」と言われるものであり、「当たり前」とされる感情が問題だった。

Alexandre Gabrell, Illustration de L’Étranger

カミュの『異邦人』では、ボードレールの「異邦人」と同じように、前提となる規範は、あまり意識化されず、当たり前すぎて口にされない。
しかも、ムルソーはその規範を意識しているのかどうか明確には示さない。そのために、人々は、彼の行動の理由を理解しようとすればするほど苛立ってしまう。
小説の第2部の裁判の場面や司祭との会話は、理解の努力が不理解を深める典型的な例だといえる。

『異邦人』の第一部は、「私(je)」の日記という形式で語られている。
その文体は、サルトルが「白いエクリチュール(écriture blanche)」と読んだように、感情が表に出ず、語られている内容とのギャップが大きく、変な感じ、違和感を生み出す効果を発揮する。
そのことは、小説の最初の一節(incipit)を読むだけで、はっきりと感じることができる。

 Aujourd’hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas. J’ai reçu un télégramme de l’asile: «Mère décédée. Enterrement demain. Sentiments distingués.» Cela ne veut rien dire. C’était peut-être hier.

 今日、母さんが死んだ。たぶん昨日かもしれない。でもよくわからない。施設から電報を受け取った。「母上死去。明日埋葬。敬具。」こんなのに何の意味もない。たぶん昨日のことだった。

カミュ自身による朗読を聞いておこう。

最初に、母親のことが、ma mèreではなく、mamanと書かれている。しかも、ma mamanではなく、たんにmaman。
mèreという言葉を使えば公式になり、mamanの持つ親密さは感じされない。
また、日記的な文なので、あえて、ma maman(ぼくの母)とmaをつける必要もない。
maman という表現だけで、母親に対する親密さと、彼女の死を自分だけに向かって書いていることがわかる。

mamanという言葉がフランス人に対して持つ親密さは、ルアンヌが歌うMamanという曲を通して感じることができるだろう。

それだけ親しみを感じている母の死に際して、普通であれば、心をゆさぶされ、涙を流し、文章も感情的になるはず。
しかし、「ぼく(je)」の文は淡泊で、字句をそのまま引用している電報の文章と同じくらいに素っ気ない。
彼は、母の死と葬儀の日取りを伝える電報の伝言は「何も意味しない(Cela ne veut rien dire)」と書く。彼の文も、ほとんど同じ印象を与える。

また、彼の感情にも、同じ疑いを持ちたくなる。
母の死が、今日のことなのか、昨日のことなのか「わからない(je ne sais pas)」し、どちらでもいいと思わせるほど無関心に感じられる。

この最初の一節から、母親の死に関する社会的な無言の規範と、その規範からズレている「ぼく」という二つの極が見えてくる。
また、肉親の死に対する反応に関する私たち読者の「期待の地平」と、日記の文体とのズレが、カミュによって仕組まれていることも理解できるだろう。

そうしたズレ、違和感を、カミュは「不条理(absurde)」と表現した。

L’absurde naît de cette confrontation entre l’appel humain et le silence déraisonnable du monde. (Le Mythe de Sisyphe)

不条理は、人間の呼びかけと、世界の非理性的な沈黙が、向かい合うことから生まれる。(『シーシュポスの神話』)

『異邦人』の中では、目に見えず、言葉にもされないが、無意識的に人が従っている規範が一方にあり、その向かいには、「なぜ?」という理由もなく、ただ感じるままに生きる「ぼく」がいる。

 L’asile de vieillards est à Marengo, à quatre-vingts kilomètres d’Alger. Je prendrai l’autobus à deux heures et j’arriverai dans l’après-midi. Ainsi, je pourrai veiller et je rentrerai demain soir. J’ai demandé deux jours de congé à mon patron et il ne pouvait pas me les refuser avec une excuse pareille. Mais il n’avait pas l’air content. Je lui ai même dit : « Ce n’est pas de ma faute. » II n’a pas répondu. J’ai pensé alors que je n’aurais pas dû lui dire cela. En somme, je n’avais pas à m’excuser. C’était plutôt à lui de me présenter ses condoléances. Mais il le fera sans doute après-demain, quand il me verra en deuil. Pour le moment, c’est un peu comme si maman n’était pas morte. Après l’enterrement, au contraire, ce sera une affaire classée et tout aura revêtu une allure plus officielle.

 老人施設はマランゴにある。アルジェから80キロ。2時にバスに乗れば、午後には着くだろう。そうすれば、お通夜をして、明日の夕方には戻ってこれる。職場の上司には2日間、休ませてくれるように頼んだ。理由が理由だから、彼は拒否できなかった。でも、満足していないようだった。だから、こう言ってやった。「ぼくのせいじゃありませんから。」彼は返事をしなかった。その時に思ったのは、そんなこと言わない方がよかったということ。でも、弁解はしなかった。むしろ、あの人の方が、ぼくにお悔やみを言うべきだったんだ。たぶん明後日、ぼくが喪の服を着ているのを見れば、そうするだろう。今のところ、母さんが死んでいないみたいな感じだ。埋葬の後になれば、逆に、こうしたことが収まる所に収まり、全てのことが、今とは違い、もっとそれっぽくなるはずだ。

電報を受け取った後、「ぼく」は職場の上司に、2日の休みを申し出た。その際、上司は休みを認めてくれたが、しかし、いい顔をせず、お悔やみも言わなかった。

この挿話からは、「ぼく」も社会的な規範を知っていて、肉親の死に際してはお悔やみを言うのが普通だし、職場でも休むことが許されるのが当たり前だと考えていることがわかる。

ただし、まだ実際に死に立ち会っていないため、実感が湧かずにいるのだろうが、それ以上に、感情が籠もっていないようにも感じられる。
バスに乗り、アルジェから80キロ先のマランゴまで行き、翌日の夕方には戻ってくる。淡々とそうした予定を書く。
その文は、葬儀への出席を、義務的で事務的なものだと感じさせる。

「私」は、人の死に際して、一般的な規範は理解しているようである。その一方で、母の死にともなう生の感情は、一般とはずれているように感じられる。

 J’ai pris l’autobus à deux heures. II faisait très chaud. J’ai mangé au restaurant, chez Céleste, comme d’habitude. Ils avaient tous beaucoup de peine pour moi et Céleste m’a dit: « On n’a qu’une mère ». Quand je suis parti, ils m’ont accompagné à la porte. J’étais un peu étourdi parce qu’il a fallu que je monte chez Emmanuel pour lui emprunter une cravate noire et un brassard. Il a perdu son oncle, il y a quelques mois. 

 ぼくは2時にバスに乗った。ひどく暑かった。いつもみたいに、レストラン「セレストの家」で食事をした。そこにいるみんながぼくにとても同情してくれ、セレストはこう言った。「たった一人のお母さんだからね。」店を出る時には、みんなが出口の扉までついてきた。ぼくは、少しうっかりしていた。エマニュエルのところに行き、黒いネクタイと腕章を借りないといけなかったんだった。彼は数ヶ月前に、伯父さんを亡くしていた。

バスに乗ったことと、レストランで食事をしたことは、時間が前後している。「ぼく」は、レストランで食事をし、エマニュエルのところでネクタイなどを借り、その後バスに乗ったはず。
ここでは、語る順番を逆転することで、日記を書いている「ぼく」が、思いついたことを思いついた順番で書いていることを示している。
整然とした時間の流れに沿った語りよりも、思いがバラバラに突然浮かび上がってくる方が、人間の意識にとっては普通の状態であり、日記の記述としてナチュラルな感じがする。

行きつけのレストランでは、知り合いたちがお悔やみの気持ちを表し、「ぼく」が店を出る時には、ドアまで付いてくる。
女主人セレストの「たった一人のお母さんですからね。」という言葉も含め、全ては型通りに進行する。

他方で、「ぼく」は、葬儀の時につけるべき黒いネクタイと腕章を「うっかり(étourdi)」して、忘れていた。
こうした姿は、死に動揺した結果とも取れるが、葬儀に対する投げやりな気持ちの表れとも取れる。

とにかく、「ぼく」の行動はどこかピリッとせず、あるべき姿と思われるものからズレている。

 J’ai couru pour ne pas manquer le départ. Cette hâte, cette course, c’est à cause de tout cela sans doute, ajouté aux cahots, à l’odeur d’essence, à la réverbération de la route et du ciel, que je me suis assoupi. J’ai dormi pendant presque tout le trajet. Et quand je me suis réveillé, j’étais tassé contre un militaire qui m’a souri et qui m’a demandé si je venais de loin. J’ai dit « oui » pour n’avoir plus à parler.

  出発に遅れないように、ぼくは走った。こんなに急いだこと、こんなに走ったこと、それに、バスの揺れ、ガソリンの臭い、道や空の光の反射が重なったおかげで、うとうとしてしまった。ほとんど全ての行程の間、眠っていた。目が覚めた時、一人の軍人に寄りかかっていた。その軍人はぼくに笑いかけ、遠くから来たのかと尋ねた。で、ぼくは「そう」と応えた。それ以上は話さなくていいようにだ。

レストランを出て、バスに乗っている間、「ぼく」の思いを捉えるのは、感覚に関することだけ。
先ほどは、バスの中はひどく暑かったことを思い出したが、ここでは、バスの揺れ、ガソリンの臭い、目に入ってくる光などの感覚について言及される。

しかし、ここでも、母親の死に対する思いや、それにともなう悲しみの感情に関する言及はない。普通、母の葬儀に向かうバスの中であれば、色々な思い出が浮かび上がってもいいはずで、日本的な表現を使えば、「それが人情というもの」だろう。
「ぼく」の記述には、そうした情が感じられない。

情の欠如は、バスで隣り合わせた軍人に対する態度にも表れている。
たまたま体が「折り重なった(tassé)」ので、相手はニッコリし、どこから?と言葉を掛ける。それに対して、「ぼく」の反応は愛想がなく、とにかく話を切りたくて、「そう。」とだけしか応えない。

「ぼく」は、その場の状況に合わせるということがなく、自分の感覚にだけ意識が向き、母の死に対してでさえ普通の人の抱くような思いを抱かない。
『異邦人』の冒頭の一節は、そうした主人公の姿を浮かび上がらせている。

Alexandre Gabrell, Plage de mers

カミュは、変人あるいは異邦人を中心に据えることで、無言の規範、社会的な約束事、こうあるべきだと思われている無意識的な圧力の存在を顕在化させる。
そうすることによって、周囲と違う存在自体が「変」であり、「異」なのではなく、普段は意識されない常識や習慣とのズレが、「異」や「変」の原因であることが示される。
視点を変えれば、変がノーマルに変わり、ノーマルが変に見える。

カミュは、『反抗的人間』の中で、次のように書いている。

L’homme révolté dit à la fois non et oui : il refuse, mais ne renonce pas; il rejette l’intolérable, mais affirme son droit.

反抗的人間は、ノンとウイを同時に言う。彼は拒絶するが、放棄はしない。我慢できないものは捨てるが、権利ははっきりと示す。

もし周囲との違いを自覚し、周囲に合わせる道を選択すれば、日和見主義に見える。
周囲の価値観を壊し、自分の価値観を認めさせようとすれば、革命的になる。
『異邦人』のムルソーは、そのどちらの道も取らず、妥協もしなければ、破壊も試みない。最後まで、彼は彼自身でいる。
カミュの考える反抗的人間とは、ムルソーのような存在なのかもしれない。

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