アリスの不思議な世界 1/2

世界の児童文学の中で、最もユーモアに満ち楽しい物語は何かと問われたら、多くの人が「アリス」と答えるに違いない。

その中には、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』は読まず、ウォルト・ディズニーの「ふしぎの国のアリス」(1951年)を見ただけという人もいるだろう。
アニメも見ていなくて、アリスという名前をどこかで聞いたことがあるだけかもしれない。それでもアリスという名前はよく知られて、人気がある。

それだけではなく、ルイス・キャロル、本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832-1898)の作品は数多くの専門家に取り上げられ、数えきれないほどの研究が行われている。
文学だけではなく、哲学、論理学等の素材として使われたりもする。児童文学という枠組みだけでは収まらない内容を含んでいるのである。

ここでは、『不思議の国のアリス』を取り上げ、児童文学という枠組みの中でその作品がどのような独自性を持ち、そのジャンルにどのような新しさをもたらしたのか、考えてみることにする。

即興のお話

『不思議の国のアリス』(1865)は、フォックスフォード大学の数学教師だったルイス・キャロルが、学寮長の娘たちとボート遊びをしている最中、彼女たちを楽しませるために即興ででっちあげたお話を原型にしているといわれている。

ルイス・キャロルは後に、「物語がどう展開するかなどちっとも考えないまま、とにかく主人公の女の子を、まずウサギの穴の中に落としてみたのです。」と語っている。
また、娘たちの一人アリス・リデルも、その話があまりに面白かったので書き残してくれるよう頼んだと、回想している。
当事者たちのこうした思い出話は、『不思議の国のアリス』が脈絡なく即興的に続けられた話だという印象を裏付ける証言だといえる。

その印象は、作品の冒頭に置かれた詩が描き出す、お話の語られる場面と対応している。
そこにはボートの漕ぎ手と、お話をねだる三人の少女たちがいる。
しかも、2番目の娘(ここでは名指されてないが、リデル家の2番目の娘はアリス)は、「へんてこなのにしてちょうだいね。」とせがむ。
そして、話が始まると、聞き手たちはいつしか夢中になり、主人公の後を追いかけて行く。

その子が行くのは おかしな国で
鳥やけものとも 仲良くおしゃべりができる
何もかもが目新しくて ひどくへんてこ
そのくせ 信じないではいられなくなる
とちゅう何度か 空想の泉がかれて
物語の糸が続かなくなり
そのへんでかんべんしてもらおうと
「続きは また今度ね」と言ってみたけれど
元気な娘たちは 聞く耳持たず
「今が今度よ!」と 声をそろえる
こうして生まれたのが、この物語
奇天烈な出来事の ひとつひとつが
ゆっくりと育ってできた 不思議の世界

この詩の中では、物語に関して、2つの点が強調されている。
一つは、アリスが行くのは「動物が話をする不思議な世界」だということ。
もう一つは、物語の糸が途切れ、「一貫性がない」ということ。

それ以外に、ルイス的な視点も2つこっそりと導入されている。
一つは、変なことばかり起こるけれど、しかし「信じないではいられない世界」。
もう一つは、娘たちの「いまが今度よ」という、「矛盾しているけれど、魅力的な言葉」。

このように見ていくと、この詩の中ですでに、アリス的世界の全体像がはっきりと示されていることがわかる。

反伝統的児童文学 — 反教訓

アリスの物語が即興的に作られたからといって、その構造が伝統的な「物語の構造」に反しているわけではない。
最初に姉の横で退屈しているアリスは、ウサギの穴に落ち、地下の世界で様々な出来事に遭遇する。そして最後に、また地上へと戻ってくる。
この観点から見れば、『不思議の国のアリス』も「欠如—試練—再生」という三段階の構造に基づいている。

実際、ルイス・キャロルがアリス・リデルにプレゼントした手作りの本の題名は『地下の国のアリス』であり、冥界下りの物語であることを暗示している。
地獄に下った主人公、例えば、ギリシア神話のオルフェウスでも、日本神話のイザナギでも、最後は地上に戻ってくる。

伝統的な児童文学観によれば、こうした構造は「子どもの成長過程」と対応している。
古い自分が一度死に、新しい自分に生まれ変わることで、子どもは成長する。その中で中心を占めるのは試練の場面であり、様々な試練を経て主人公は成長を遂げ、大人になっていく。
児童文学には、こうした過程を読者の子どもたちに擬似体験させる効果が期待されていたし、現在でもそれは変わらない。

ところが、『不思議の国のアリス』だと、試練であるはずの様々な出来事が、試練として機能しているようには見えない。
涙の池、ドードー競争、ウサギの家で攻撃を受けること、アオムシとの対話、チェシャ猫の謎かけ、はちゃめちゃなお茶会、クロケー大会、タルト泥棒の裁判等。本来の昔話であれば、これらの試練が比較的簡単なものから難しいものへと段階的に組み立てられ、それらを乗り越えることで主人公はハッピーエンドへと近づいていく。

しかし、アリスの不思議な世界の中では、それらのエピソードは、簡単な試練から難しい試練へと段階的に発展していかない。
物語の最初に置かれた詩が歌っているように、それらは奇妙な出来事であり、苦労して乗り越える試練として提示されてはいない。無意味な挿話が思いつくままに語られているようにしか見えない。
そうした観点から見ると、『不思議の国のアリス』は伝統的な物語の構造に則りながら、その内実を破壊していると考えられる。

そのことをより端的に現しているのが、「教訓」に対する態度である。
ペローは教訓こそ昔話の最も大切な要素だと言い、そこに伝統的な児童文学の価値を見いだした。
それに対して、ルイス・キャロスは「反教訓」の立場に立ち、そのことをはっきりと示す行動をアリスに取らせる。

地下の世界に落ちたアリスは細長い部屋の中に入り、テーブルの上に現われた小さなビンの中身を飲み干す。と、みるみる体が小さくなってしまう。
この時に、教訓をからかうような表現が出てくる。
小さなビンには、紙の札がついていて、「ワタシヲノンデ」と書かれている。これは主人公に対する誘惑であり、その誘惑という試練に打ち勝たなければならない。

「ワタシヲノンデ」とすすめてくれるのはけっこうですが、アリスのように賢い子は、すぐに誘いに乗ったりはしないものです。「だめだめ、まずちゃんと見るの」とアリスは自分に言い聞かせました。「『毒』って書いてないか、よく確かめなくっちゃ」。なぜならアリスは、そういうことについての短くて面白いお話を、いくつも読んだことがあったからです。そうしたお話に出てくる子どもたちは、簡単な教えをちゃんと覚えていなかったばっかりに、やけどをしたり、けものやその他のいやなものたちに食べられてしまったりするのです。その教えとは、たとえば、まっ赤に焼けている火かき棒を長い時間にぎっていたらやけどをするとか、ナイフで指をぐさっと切ったら、ふつうは血が出るとかいったものです。そのなわけでアリスは、『毒』と書いてあるびんのものをたくさん飲んだら、そのうち気持ちが悪くなるということを、けっして忘れなかったのです。
 しかしそのびんには、『毒』とは書いてなかったので、アリスは思いきって味見をし、とてもおいしいとわかったので(・・・)、たちまちきれいに飲みほしてしまいました。

赤ずきんちゃんは、お母さんの言いつけを聞かなかったばかりに狼に食べられしまう。そうした物語を前提にして、アリスは、まず、「ワタシヲノンデ」という誘いには乗らないと言い、教訓を守る姿勢を示す。
しかし、その後で、燃える火かき棒に触ると火傷をする、ナイフで指を切ると血が出る等といったことが教訓の例として持ち出し、教訓の無意味が明らかにされ、教訓自体がからかいの対象になる。
そして、最後になると、アリスは、「ワタシヲノンデ」という誘惑にさからうことなくビンの中身を飲み、体を縮じめることに成功する。
このエピソードを通して、アリスは、反教訓の姿勢をはっきりと示しているのである。

試練の組み立てという点だけではなく、教訓という面からみても、『不思議の国のアリス』は、アンデルセンまでに積み上げられてきた伝統的な児童文学の概念を刷新する、新しいタイプの児童文学であるといえる。

普通でない出来事と笑い

アリスの物語は、小さな子どもたちが大喜びしそうなおかしな出来事満載で、普通の常識では通用しないことばかりが起こり続ける。ナンセンス、つまり意味のない、無意味な出来事の連続である。

ウサギの穴から落ちたアリスの入り込んだ世界で動物たちが人間の言葉を話すことは、昔話の中では当たり前のことなので、驚くべきことではない。
アリスの体が大きくなったり、小さくなったりするのも、不思議な世界ではそれほど珍しいことではない。
その証拠に、アリスはこうしたことにあまり驚きを示さない。

では、不思議の国の中での不思議なことは何だろうか? 

『不思議の国のアリス』においての不思議さ、そしてそれに伴う笑いは、「こうなればこうなる」という普通の連鎖が断ち切られたときに生じる。
普通というのは出来事そのものよりも、出来事と出来事のつながりの普通さであり、普段は誰もがそのつながりを無意識のうちに予測し、それに基づいて話したり、行動している。
アリスの世界では、その連鎖が常に立ち切られる。

アリスの体が小さくなった後、テーブルの上にあるカギがとれなくなってしまう。そこで、テーブルの下で見つけたケーキを一口食べて、体を大きくしようとする。そのケーキには、「ワタシヲタベテ」と干しぶどうのつぶで書かれている。

アリスはほんの一口だけ食べると、伸びているのか縮んでいるのかをたしかめようと、頭の上に手をやって、「どっちかしら? どっちかしら?」と心配そうにつぶやきました。でも、大きさはちっともかわらないようだったので、アリスは驚いてしまいました。ケーキを食べても身体の大きさがかわらないというのは、ごく普通のことですが、アリスは普通ではないことしか起こらないのが普通だと思うようになっていたので、普通のことしか起こらないなんて、当たり前すぎて面白くもなんともないという気がしたのです。

普通でないことばかり起こると、それが普通だと思えようになる。その考え方は、普通と感じることが何かを見事に説明している。
何かを食べることと身体の大きさの変化が因果関係を常に持つようになれば、それはそれで普通のことになる。普通とはこの因果関係の頻度に他ならない。
そして、あることが規則的で恒常的になると、どんなことでも面白くはなくなる。面白さは、二つの出来事の関係の意外さに由来する。

この後、アリスはケーキの残りを平らげ、彼女の身体は大きくなる。ここで単に大きくなるだけであれば予想通りであり、面白さは生まれない。
そこでルイス・キャロルは、背を伸ばすだけでなく、アリスの首を望遠鏡のように長くすることで、予想外の要素を付け加える。
さらに、長くなった首から足を見下ろすという光景を思い描き、アリスに「さよなら、あたしの足さん」と言わせたりする。

「ああ、かわいそうな足さんたち! これからは、いったい誰があんたたちに、靴や靴下をはかせるのかしら? あたしにはとても無理だわ! こんなに遠いところに来てしまっては、とてもあんたたちの世話までは手がまわらないもの。だから、自分のことは自分でできるようにがんばってくれなくちゃ。」

普通でないことが普通になってしまえば、そこに次の普通でないことを付け加え、常に笑いを生み出す。
アリスの面白さの秘密は、こうした予想外の連鎖によるところが大きい。

言葉に関する予想外

『不思議の国のアリス』の中では、なぞなぞやだじゃれ等多くの言葉遊びが行われる。

言葉は、音や文字で現される「表現」と、それが意味する「内容」の組み合わせでできている。そして、その二つの部分が一つになり、現実世界と関係する。


言葉遊びは、固定化したこうした連結をずらすことから生まれる。

こうしたずれは、アリスがずっと独り言を言っていることと関係している。
独り言は頭の中で考えているだけで、実際の行動とつながるわけではない。どんなことでも言うことができるし、何を言っても現実では意味を持たない。

こうしたことは、アリスがウサギの穴に落ちて行く最初の挿話の中で、読者に示される。猫のダイナのお昼ごはんのことを考えながら、アリスは独り言を言う。

「お茶の時間にダイナのお皿にミルクを入れるのを、みんなが忘れないといいけど。ああ、ダイナ! お前もいっしょだといいのにねぇ! 空中にはネズミはいないでしょうけれど、コウモリなら捕まえられるかもしれないわ。ほら、コウモリって、ネズミにそっくりだもの。だけど、ネコはコウモリを食べるかしら。アリスはちょっと眠くなってきて、半分うとうとしながら、「ネコ、コウモリ、食べるかしら? ネコ、コウモリは食べるかしら? 」と、ひとりごとを言いつづけました。繰り返しているうちに、ときどき「ネコをコウモリは食べるかしら?」と言ってしまったりもしましたが、どっちみち答えは出せないのですから、どっちがどっちになっても、たいした違いはありませんでした。

猫がコウモリを食べるのと、コウモリが猫を食べるのは、言葉そのものの意味としては正反対である。しかし、アリスはたいした違いを感じない。なぜなら、どちらにしても、現実には起こらないから。
普通であれば、言葉そのものの意味は現実の世界でも意味を持つ。しかし、アリスの不思議な国では、そうした普通のつながりが断ち切られている。

三月ウサギと帽子屋、ヤマネが参加するめちゃくちゃなお茶会でかわされる会話でも、同様の例が数多く見られる。「食べるものはなんでも見える。ー 見えるものはなんでも食べる。」
「もらえばなんでも気に入る。— 気に入ればなんでももらう。」
「眠るときには息をしている。— 息をするときには眠っている」。
最後の例を口にしたヤマネに対して、帽子屋は、「お前の場合は同じなんだよ。」と言い放つ。
ヤマネはいつも眠ってばかりいるのだから、主語と動詞を逆にし、言葉の意味が逆になったとしても、それこそ意味がないという考えに基づいた発言である。

現実に働きかけない言葉は、意味を持ったとしても、たいした違いはない。そうなると、どんなことにでも適当に意味を見いだしていいことになる。

女王のクロケー大会に呼び出された公爵夫人は、一人で何か考えているアリスに向かって、そのことの教訓が何か問いかける。そして、教訓なんかないというアリスに向い、どんなことにでも教訓はあると言い、次から次へと教訓を発明していく。

例えば、クロケーのゲームが前よりもうまくいっているというアリスに、その教訓は、「おお、愛よ愛、愛がなければ、この世界はまわってゆかぬ。」だと言う。
それに対して、アリスは、「だれもが自分のすることだけに気をつけていれば、世界はずっと早くまわる。」という言葉をどこかで聞いたことがあるという。
この矛盾する二つの言葉を前にして、公爵夫人は、「どっちにしたって、言っている意味にはたいしたかわりはない」と考える。
ここでは教訓を持ち出し、それを出来事の意味と考えているが、たとえ正反対の教訓だろうと、単なる言葉の意味にとどまるかぎり、実際には意味がない。
アリスの世界のナンセンス(無意味)は、そうした考えに基づいている。

タルト泥棒の裁判が行われる最後の挿話になると、言葉の表現と意味の関係において、表現の優位が提示される。
実は、公爵夫人は、「意味がかんじん、意味さえあれば音は勝手についてくる」という教訓を作り出していた。
これはごく普通に考えられた意味と音の関係である。私たちは「いいたいこと」(意味)があるから、それに対応した言葉(表現)を話したり、書いたりしていると考えている。
ルイス・キャロルはこの当たり前のつながりを逆転する。

タルト泥棒の件に関して何か知っているかという王さまの問いに対して、アリスは何も知らないと答える。

 「これは聞き捨てならん」と、王さまは陪審員たちのほうをむいて言いました。陪審員たちがそれを石板に書き付けようとしたとき、白ウサギが口をはさんで、「もちろん、陛下がおっしゃられたのは、聞き捨てておけということでございましょうな」と言いました。その言葉はとても丁重でしたが、白ウサギはそう言いながら王さまにむかって顔をしかめ、眉をひそめてみせました。
 「もちろん、聞き捨てておけという意味で申したのじゃ」と、王さまはあわてて言いましたが、そのあとも、どっちの言葉が響きがいいかを確かめたいのか、小声で「聞き捨てならんー聞き捨てておけー 聞き捨てておけー 聞き捨てならん」とひとりごとを言いつづけていました。

この王の言葉からは、意味が正反対であることなどはどちらでもよく、音の響きが大切であるという姿勢がうかがわれる。アリスの不思議な世界では、言葉の表現が意味よりも大切だと考えられているのである。

裁判がさらに進むと、宛名のない手紙に書かれた詩が朗読される。
その詩に関して、アリスは、「そんなものに意味なんかひとっかけらもない」と言い放つ。
それに対して、王さまは、「もしそれに何の意味もなければ、おおいに手間がはぶけてけっこうじゃないか」と答える。
言葉の意味は、聞いている人あるいは読んでいる人が勝手に作り出すことができるのである。

そのことを最も端的に表す挿話が、ドードー競争の挿話の中に出てくる。
どうして犬や猫が嫌いなのか説明するネズミの話を聞きながら、アリスはネズミの尻尾に気を取られて、ぼんやりしてしまう。そこで、ネズミの話を語る文は、ネズミの尻尾のようにくねくねとうねった絵のような形で書かれることになる。つまり、聞いているアリスの頭の中の状態で、ネズミの言葉の形さえ変化する。

子どもは意味のことなど考えず、音としての楽しさだけで歌を作ったり、変な音を出してふざけ合ったりする。ルイス・キャロルもそうした子どもたちの遊びにならって、言葉の音の楽しみを追求する。
私たち読者も、それに伴って現れてくる意味の意外さに大喜びしながら、我を忘れて物語を追いかける。ちょうどアリスが白いウサギを追いかけたように。

—— 続く ——

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