アンデルセン童話の美しさ 2/2

基本構造

価値の逆転は物語の基本構造に内在しているともいえる。
「欠如」で始まる物語は、主人公の「試練」を経て、「充足」で終わる。最初は恵まれない立場にいた主人公は、数々の困難を乗り越え、最後には幸せになる。
アンデルセン童話も、ほとんどの物語がこの構図に則っている。

構造がもっともはっきり見えるのは、「みにくいアヒルの子」「おやゆび姫」「雪の女王」等、ハッピーエンドの物語である。主人公たちは様々な試練をくぐり抜け、それを乗り越えることで、最後は幸せになる。

おやゆび姫は、ヒキガエル、コガネムシや野ネズミ、モグラ等にさらわれ、自分ではどうしようもない状態に置かれる。そして、こうした試練を乗り越えた後、やっと幸せにたどり着く。

同じように、アヒルの子も、自分の家族だけではなく、ニワトリや七面鳥、野がも、猟師、犬、お百姓のおばあさん、ネコ等、色々なものからいじめられ、悲しい思いをする。しかし、その苦しみが大きいだけに、最後の幸せも大きく感じられる。

今まで耐え忍んできたさまざまの悲しみや苦しみを思うにつけ、今の自分の幸せをしみじみと感じました。今こそ、自分の幸福を、そして自分を迎えてくれた、あらゆる素晴らしいもののよさがはっきりとわかりました。大きな白鳥たちは、まわりに寄ってきて、くちばしで羽をなでてくれました。

初めから白鳥の子どもとして育てられていたら分からなかったことが、苦しみを経たからこそ、ありがたく感じられる。それは主人公の精神的な成長の証であり、この童話の意味をはっきりと表している。

「雪の女王」では、主人公は二人に分裂している。
カイの心は凍りつき、雪の女王に連れていかれたままで、物語の最初と最後にしか登場しない。
一方、ゲルダはいなくなってしまったカイを探すため、遠い旅に出る。その旅には数々の試練が待ち受け、ゲルダはそれらを乗り越えていく。そして、雪の女王の宮殿でカイを見つけることができる。
しかし、カイは体をこわばらせてじっとしたままである。

ゲルダは、あつい涙を流して泣きました。その涙がカイの胸の上に落ちました。そして、心臓の中にしみこんでいきました。その涙は氷のかたまりを溶かしたうえ、その中の小さな鏡のかけらを、食い尽くしてしまいました。カイはゲルダを見つめました。ゲルダは賛美歌を歌いました。
バラの花 かおる谷間に/ あおぎまつる 幼子イエス!
 とたんに、カイはわっと泣き出しました。そのひょうしに、鏡のかけらが、目の中から、涙といっしょにころがり出ました。カイは、ゲルダに気がついて、喜びの声を上げました。

こうして、カイの心から、悪魔の鏡のかけらが溶けてなくなり、もとのやさしい心を取り戻す。

しかし、それだけではなく、以前はどうしてもできなかった知恵遊びの組み合わせもできるようになっていた。いろいろな試練をくぐり抜けるのはゲルダだけれど、彼女のおかげでカイも成長を遂げることができる。

「雪の女王」の場合、ゲルダは、昔話の中に出てくる「援助者」という役割を超えて、彼女自身も成長する一人の人格として描かれている。

ところで、主人公たちが試練を経ながら、ハッピーエンドで終わらないように見える物語もある。例えば、「人魚姫」「マッチ売りの少女」等がその例である。
不幸な状態から始まり、様々な苦しみをこうむる。そして、試練の中で、人魚姫もマッチを売る少女も死んでしまう。
こうした悲しく切ない結末をどのように考えたらいいのだろうか。

ペローの「赤ずきんちゃん」では、グリム童話とは違い、少女は狼に食べられたままで終わった。こうした物語は、試練だけで終わり、充足がない。そこで、子どもに注意を促す「警告の物語」であると考えられている。
「赤ずきんちゃん」であれば、知らない大人に声をかけられても、言うことを聞いてはいけないという忠告が、読者に与えられる。

では、アンデルセンの場合にも同じことが言えるのだろうか。

献身的に人間の王子を愛する人魚姫や、家族のために働くマッチ売りの少女は、決して、二人のようになってはいけないという例ではない。つまり警告を目的とする物語ではない。
反対に、二つの物語の最後は、悲しいけれど、美しい。死は魂を天に導く扉であり、読者が流す涙は心を洗ってくれる純粋な涙である。従って、これらの童話は、「美しい死」で終わっているということができる。
その意味で、たとえ死で終わる物語だとしても、それが充足となり、物語の基本構造に基づいていると考えられる。

「美しい死」については、後により詳しく考えていく。

反知識

物語の基本構造は、子どもが成長していく過程と対応している。
欠如とは今の自分に何か足りないと感じる状態であり、ある時には死を迎えるほどの苦しい試練を乗り越えることで、新しい自分に生まれ変わる。

アンデルセン童話でも、この基本構造がはっきりとわかるように語られることが多い。その上で、より具体的なメッセージが織り込まれる。
メッセージの内容は、知識にかかわるのではなく、勇気や思いやり、そして、人や世界を信頼する心の大切さに関係している。

アンデルセンは、知識に対して、かなり懐疑的な態度を示す。より正確に言えば、知識をひけらかすことを批判し、揶揄している。
例えば、みにくいアヒルの子の兄弟たちが初めて大きな葉の下から出、回りを見回したとき、世界はなんて広いんだろうと驚く。それに対して、母親は、子どもたちにこう言う。

「お前たち、これが世界だと思っているのかい? (中略) どうして、どうして。世界というのはね、この庭よりずっと向こう側の、牧師さんの原っぱの中まで広がっているんだよ。お母さんでさえ、まだそこまで行ったことがないんだよ!」

母親にとっての世界も身の回りの原っぱでしかなく、そこまでさえ行ったことがない。個人の知識とはそれほど限られたものだが、全てを知っているように思い込んでいることがある。
ここでアンデルセンは、子どもたちに世界の広さを教える母親の姿を通して、一人の人間が持つ知識の限界と、それに気づかない滑稽さを描き出している。

農家のおばあさんのところで、ネコの夫とニワトリの奥さんと一緒に暮らすことになったアヒルの子は、明るい太陽の下で気持ちよく水に浮かんでいたときのことを思い出す。そして、卵と生むとか、ごろごろとのどをならすとかしてみろと皮肉を言うニワトリの奥さんと、言い争いをする。

 「でも、水の上に浮かんでいるのは、とても気持ちがいいんですよ。水を頭からかぶったり、水の底へもぐったりするのもですよ。」
 「へえ、それはお楽しみね! たしかに、お前さん、気がくるったんだわ。ネコのだんなさんに聞いてごらん — あの人は、私が知っている一番の物知りなんだからね — あなたは、水の上に浮かんだり、水の底へもぐるのがお好きですかって。私は、自分のことは言いたくないわ。— 私たちのご主人の、あのあばあさんに聞いてごらん。あのおばあさんより賢い人は、この世界にいないのよ。あのおばあさんが浮かんだり、水を頭からかぶったりしたくなるとでも思うの。」
 「あなたがたには、ぼくのいうことが、おわかりにならないんです。」
 「ふん、私たちに、お前さんの言うことがわからないって? じゃ、いったい、誰がわかるっていうの? お前さん、よもや、ネコのだんなさんや、おばあさんより、自分のほうが利口だなんて言うんじゃないだろうね、私はとにかくとしてさ。子どものくせに、しゃれたことをおいいでないよ!」

アヒルの子は、太陽の下で水浴びをすることを望み、気持ちよさを口にしているだけである。しかし、そんなことを考えもつかないニワトリは、アヒルの子の考えが馬鹿げていると頭から決めつけ、おばあさんやネコの利口さに言及する。

ここでは、ニワトリが利口さを引き合いに出せば出すほど、読者にとっては笑いの種になる。そして、そのエピソードを通して、知識が本当に大切なことではないというアンデルセンの思いが伝えられる。

「雪の女王」では、アンデルセンの反知識的側面がはっきりと示される。

カイは悪魔の鏡の破片が刺さって以来、子どもらしい素直さをなくしてしまう。絵本は子どもが見るものだと言って見向きもしなくなり、おばあさんがお話しをしてくれるのを聞いても、じゃまをするようになる。
町中の人の滑稽なところをまねして、みんなから、「たしかに、あの子の頭はすばらしい!」と言われるようになる。また、「遊びかたも、いままでとはすっかりちがって、たいそう理知的」になってしまう。そのために、雪の結晶を見ても、理屈しか思いつかない。

 「ゲルダちゃん、このレンズをのぞいてごらん。」
見ると、雪のひとひらが、とても大きくなって、美しい花のように、そうでなければ、六角形の星のように見えました。それはほんとうに美しい見ものでした。
 「ねえ、ずいぶん上手にできているだろう!」と、カイは言いました。「本当の花なんかより、ずっと面白いよ。どれにだって、間違い一つないんだからな! 正確そのものなんだ。」

アンデルセンは、雪を見たら、花や星のように、その美しさを感じてほしいと思っている。
しかし、カイは、結晶の正確さにしか目がいかない。理知の氷が、ものに感動する心を凍り付かせてしまっている。間違いをおかさない頭になったのかもしれない。
しかし、それでは、豊かな心を持つことはできない。

こうした理知の極致が、雪の女王の宮殿にある。
大広間の真ん中には湖があり、無数の氷が見られる。そこでは、どのかけらも全く同じ形をしていて、立派な美術品のようである。
その湖の真ん中に女王が座っている。

女王は、私は理知の鏡の中にすわっている。そして、それこそ、この世に一つしかない、何よりも優れた鏡です、と言っていました。

雪の女王にキスをされ、寒いということさえ気づかないカイは、寒さのためにほとんど黒くなりながら、先の尖った氷の板をならべて一つの言葉を作る遊びをしている。
カイは、心臓がまるで氷のかたまりのようになり、何も感じることなく、「理知の氷あそび」をしているのである。しかも、決してうまく並べることができない。だからどんな状態になっても止めることができない。

ここでも「理知」は「心」と対置され、それだけでは人間を意地悪にし、感受性を殺してしまうものとして描かれている。
知性は、感情と一緒でなければ、害悪を及ぼしかねない。
感受性があって初めて知性も大切になる。従って、ゲルダの涙によって胸の氷が溶かされると、カイはいとも簡単に、今までどうしてもできなかった遊びをやりとげることができるのである。

自然の美

美しいものを感じる心が、アンデルセン童話の中にはあふれている。その心があるからこそ、アンデルセンは、私たちを取り囲むありふれた自然の中に美を見出し、美しく描き出したに違いない。
そうした描写は、読者である子どもたちが自然の美しさを感じるようになるために、大変に重要な部分である。

「おやゆび姫」の結末近く、ツバメが姫を南の国に連れて行ってくれる。空を低空で飛びながら見たと思われる草原は、生命の力にあふれている。

こうして、とうとう、暖かい国にやってきました。そこは、お日さまがここよりも、ずっと明るく輝いていて、空は二倍も高く見えました。掘割りや、いけがきの上には、緑や青の、それは見事なブドウが下がっていました。森にはレモンやオレンジが実り、ミルテやハッカソウがおおっています。田舎道では、可愛らしい子どもたちが、走りまわったり、色あざやかな大きなチョウを追いかけたりしていました。

こうした田舎の風景自体は、北国デンマークでもありふれたことだっただろう。空の高さや植物の様々な色を、夏の太陽の恵みを受けているときには、デンマークでも見ることができた風景かもしれない。
そうした風景をこのように美しく描き出すことが、自然を賛美となる。

実際には見ることができない海の底の風景にもアンデルセンは思いを馳せる。人魚姫たちの住む城もこはくの窓に飾られて美しいが、城の外の描写はさらに細部に及んでいる。

お城の外には大きな庭があって、まっ赤な木や、まっ青な木がはえていました。そして、くきや葉をたえずゆらゆらさせていました。すると、木の実は金のように輝き、花は燃え上がる火のように光りました。底はごくこまかい砂地で、硫黄の炎のように青く光っていました。こうして、庭全体に、不思議な青い微光がただよっていて、海の底にいるというよりは、むしろ上を見ても下を見ても青々とした大空に、高く浮かんでいるような感じでした。風がないでいるときには、お日さまをあおぐこともできました。お日さまは紫色の花のように見え、あたりの光はその花のうてなから、射してくるようでした。

この描写はアンデルセン童話の中でも最も美しいものの一つだろう。
海の底でも、青い光が自然全体をうっすらと照らし、大空にいるかのように思わせる。そこには赤や青の木がはえ、金の実がなっている。
デンマークの短い夏のある日、子どもたちもそうした光景をふと目にしたのかもしれない。

遊びに夢中な子どもたちは、自然に目をやることはないだろう。しかし、アンデルセンの美しい描写を読んだことのある子どもであれば、ふと目にした景色に心を動かされるかもしれない。
自然の美しさを知った子どもたちは、目の前に広がる海を眺め、海底の世界に思いをはせることにもなるだろう。

以上の二つの例で見たように、アンデルセンの自然描写は色彩に富み、絵画的な美しさを持っている。それを読んだ子どもたちは、普段は見慣れて気づかない身近な自然に美を発見し、自然に対する愛をはぐくむだろう。
また、自然を美しいと感じることで、自然に対する信頼を養うことにもなる。

ここでも大切なことは、自然を対象として分析することではなく、美しさに心を動かされることである。

美しい死

最後に、アンデルセンの物語を彩る美という観点から、死で終わる物語の意味をもう一度考えてみよう。

ハッピーエンドで終わらない物語はしばしば悲しく、胸をえぐられる。
「マッチ売りの少女」や「人魚姫」は、その代表的な童話である。そして、どのどちらもが、大変に美しい物語になっている。こうした結末を、「美しい死」と呼ぶことにする。

「マッチ売りの少女」は、大都会の片隅の貧しい少女の物語にもかかわらず、全編が詩のように描かれている。
大晦日の夜、裕福な家の中はきれいな飾りで飾り付けられている。一方、外は雪で、身を切るような寒さがあたりを凍えさせている。そんな中をみずぼらしい服で、裸足で歩く少女。
寒さに震え、わずかな暖を取るために、売り物のマッチをする。その度に、マッチは少女を暖め、おいしそうな食べ物やきれいなクリスマスツリーを見せてくれる。闇にしんしんと降る雪。そして、かすかなマッチの炎。
それだけですでに絵画的な光景が目に浮かんでくる。

物語の文法的に見れば、苦しい試練を乗り越えれば、彼女は充足に達することができる。
しかし、最後にすったマッチの炎の中に見えてきたのは、年老いたおばあさんの姿。少女は、私を連れて行ってくださいとささやき、残っていたマッチを全てすってしまう。

こうして、おばあさんをしっかりと引き留めておこうと思ったのです。マッチはとても明るく輝いて、まわりはま昼よりも、もっと明るくなりました。そして、この時ほど、おばあさんが美しく、大きく見えたことはありませんでした。おばあさんは小さな少女を腕に抱き上げました。こうして、ふたりは光と喜びとにつつまれて、高く高く昇っていきました。そこにはもう、寒いことも、お腹のすくことも、怖いこともありません。— ふたりは神さまのみもとに、召されたのです。

この死は、狼に食べられて終わる試練の途中での死ではない。純粋な子どもの典型ともいえるマッチ売りの少女は、美しい死の中で、試練を通り抜け、充足を得たのだと考えることができる。

人魚姫も貧しい少女と同じ運命をたどり、最後は死を迎えなければならない。
彼女は人間の王子を愛したために、多くの苦難を蒙らなければならない。その末にやっと人間になったとしても、愛は報われない。
しかも、自分の命を救うためには、王子をナイフで刺し、殺さなければならない。最後の選択を迫られた人魚姫は、自らの死を選び、船から身を投げる。

その時、お日さまが海から上りました。その光は、死の冷たさをもっている海のあわの上に、ほんのりと温かく射してきました。人魚姫は少しも死ぬような感じがしませんでした。明るいお日さまをあおぎますと、なか空に、いく百となく、透き通ったた美しいものがただよっていました。それをすかして、向こうに船の白い帆と空の赤い雲が見えます。そのものたちの声は、美しい調べでしたが、魂の歌なので、人間の耳には聞こえませんでした。ちょうど人間の目が、その姿を見ることができないように。つばさがなくても、みんなの軽い体は、空中に浮かんでいることができました。人魚姫は、自分の体がみんなと同じなのに気がつきました。そして、それは、あわの中からぬけ出して、しだいに上へ上へと昇っていきました。

姫は、朝日の光の中で泡になって消えていく。
ここにもやはり「美しい死」が描かれている。王子と結ばれるというハッピーエンドが地上的な幸福だとすると、自己犠牲の中で死を選んだ人魚姫の魂は、天上へと向かい、至福の時に入る。

こうした死について、実は、人間になりたいという人魚姫の願いをかなえたのだと、魔女は説明する。
人魚は300年生きられるが、人間の一生はもっとずっと短い。そのかわり、人魚は不死の魂を持っていないので、一度死んだら二度と命を持つことはできない。しかし、人間は違っているというのである。

人間には、いつまでも生きている、つまり、肉体が土になった後でも、生きている魂というものがあるのです。その魂はすんで大気の中を、キラキラ光っているお星さまのところまで昇っていくんです。私たちが海の上まで浮かんでいって、人間の国を見るように、人間の魂は、私たちの決して見ることのできない、未知の美しい世界へ昇っていくのです。

この言葉は、人魚姫は最後には人間の魂を持ち、肉体を離れて天上に昇っていったということを暗示している。
姫は魔女に向かって、「永遠の魂をさずかるためには、何も手だてはないのでしょうか?」と問いかけているが、その問いも、無私の愛を貫き通した試練こそが、魂を手に入れる手だてであることを示している。

「美しい死」を迎えることができるのは、美しい魂の持ち主であり、その死は決して不幸な終わりではなく、最も大きな幸福の入り口である。
そのためにこそ、アンデルセンは死を美しく描いたのだろう。


アンデルセン童話は、人間や自然に対する信頼、人間や自然の美しさを、読者である子どもに教えてくれる。
創作されてから150年以上たった今でも古びることなく、子どもたちを楽しませながら教育してくれる。そのために、児童文学の中でも最も優れた童話としても地位を保ち続けている。

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