行動に関する予想外

アリスの不思議な国では、言葉だけではなく、全てのことが予想をくつがえしながら進んでいく。物事は決して型通りには運ばない。「こうすればこうなる」という自動化された連結が次々に破壊される。
なぜそんなことになるのだろうか?
アリスがドアを開けて、部屋に入る場面を考えてみよう。
一般的には、アリスという主体がいて、彼女が部屋に入りたいと考え、ドアを開け、部屋に入っていくとみなされる。次に、部屋の中でテーブルの上にある飲み物を飲むとすると、同じ主体が飲みたいと考え、コップに手を伸ばし、それをつかみ、口に運び、ジュースを飲むという行為の連続が想定される。
動作主であるアリスがまず存在し、彼女が行動を決定し、実行する。

こうした普通の考え方に対して、アリスの不思議な国では、動作の方が主体よりも先にくる。まず行動があり、その後から、それをした人が想定される。ドアを開けるという行為があり、それから、それをした人が誰かという問題が出てくる。
こうした行動中心の視点を最もよく表現しているのは、チェシャ猫である。
公爵夫人の台所の中で、チェシャ猫は耳から耳まで届きそうな大きな口をあけて、ニヤニヤしている。
アリスが森の中に行くと木の枝の上に突然現れ、また消える。そこでアリスはこう呼びかける。
「ねえ、そんなにパッと消えたり出てきたりしないでもらえないかしら? 頭がくらくらしちゃうわ。」
「わかった」とネコは言いました。そして今度は、尻尾のほうからはじめて、ゆっくりゆっくりと消えていき、しまいにはにやにや笑いだけが残って、しばらく枝の上に浮かんでいました。
「まあ! にやにやしないネコなら、何度も見たことがあるけれど」と、アリスは思いました。「ネコなしに、にやにやだけなんて! こんなへんてこなもの、生まれてはじめた見たわ!」
この謎に満ちたアリスの言葉は、普通では理解することができない。ネコという主体が消えて、その行為であるにやにや笑いだけが残る?
そんなことは想像することさえできない。しかし、ルイス・キャロルはあえてこうしたことを書き留めることで、行為中心の認識を強調した。
行動中心の考え方になると、それまで当たり前に思われてきた行動と行動のつながりがばらばらになる。型通りの因果関係が壊され、一回一回の行為そのものに焦点が当てられる。
そのために、行動と行動とをつなぐ秩序がばらばらになり、そこから面白さがわき出してくる。
それこそが、アリスの世界に他ならない。

アリスを地下世界に導く白いウサギは、チョッキのポケットにしまった時計を取り出しては、「まにあいそうもないぞ!」と言う。
普通は目的があり、それに向かって行動する。しかし、ここでは、遅れそうになっているにもかかわらず、何に遅れるのかはさっぱりわからない。急いでいるという行為だけがあり、その目的がない。

公爵夫人の家のドアをノックして、中に入ろうとするアリスに向かって、従僕は、「たたいたってむだだ」という。アリスはノックすればドアがあき、中に入ることができるという通常の考えに従って行動している。しかし、従僕は、彼がアリスと同じようにドアの外側にいるから、ドアをあけることができないと主張する。
そして、「ドアをたたいて、いくらかでも意味があるのは、ドアが間にあるときだけだ。たとえば、あんたが中にいて、トントンやったんであれば、外へ出してあげることもできた。」と付け加える。
この言葉は、中に入りたいアリスにとってはまったく意味を持たない。最後には、「そもそも、なんで中にはいる必要がある? それがまず第一の問題だ」と、目的自体を問題にする。

このように、冒頭の挿話から、物事の普通の流れはいたるところでせき止められる。森の中で道を尋ねるアリスとチェシャ猫の会話はその典型である。
「ねぇ、お願い、ここからどっちへ行けばいいのか、教えてくれない?」
「そりゃ、どこへ行きたいかってこと次第だね」と、ネコが言いました。
「どこだってかまわないんだけれど」と、アリスは言いました。
「なら、どっちへ行ったっていいじゃないか」と、ネコが言いました。
「だけど、どこかへは行きたいんだもの」と、アリスは説明を加えました。
「ああ、それなら大丈夫だよ」と、ネコは言いました。「どんどん歩いていけば、どこかへはつくさ。」
どこかに行くということは、普通は目的地に向かうことを前提にしている。しかし、アリスはどこに行くかも考えず、どちらに向かったらいいか尋ねる。ここにも本末転倒がある。

このチェシャ猫に関しては、別の形でも行為の優越性が描かれる。女王のクロケー大会の最中に首だけが現れたネコの首を切れと、王さまは命令する。
処刑役の主張は、首が身体にくっついていないかぎり、首をはねることはできない、というものでした。今までにそんなことは一度だってやったためしがないのだから、この歳になってやってみる気はない、というのです。
王さまの主張は、首がある以上、首をはねることはできるはずで、それができないなどとふざけたことを言ってはいかん、というものでした。
ここでも、首をはねるという行為がまずあり、その目的は頭にない。つまり、一つの行為のために別の行為がなされるという、誰もが意識しないままに前提としているつながりが断ち切られ、一つの行為がそれだけで浮き上がっている。
こうした行為優先の世界では、ゲームも予め決まったルールに従って行われるのではない。行為が先にあり、ルールは後からできあがる。

ドードー競争では、鳥や動物たちみんなが好きなときに走り始め、好きなときに走るのをやめる。30分ほどして、みんなの体が乾燥してきたころ、突然ドードー鳥が競技終わりと叫び、ゲームは終わりになる。
その後、みんなが誰の勝ちか尋ねると、ドードー鳥は考えに考えた末、全員の勝ちだと宣言する。つまり、ゲームの勝敗は、ゲームが終わった後に決められることになる。

賞品の分配の規則もまったく決まっていない。そこで、賞品が話題になると、ドードー鳥はいきなりアリスを指差し、アリスのポケットにあったボンボンをみんなに配る。
その時、ネズミが、アリス自身にも賞品が必要だと思いつく。すると、ドードー鳥は、アリスに何か持っていないかと尋ね、アリスの持っていた指ぬきをもらう。それを賞品として再びアリスに与えるためである。
こうして、次々に行為が続けられ、それがルールになっていく。

トランプの女王のクロケー大会にもルールはない。
クロケー場の地面はいたるところでうねや溝だらけでぼこぼこになっている。ボールは生きているハリネズミ。それを打つ槌はフラミンゴ。ボールをくぐらせるアーチは、身体を二つに折り曲げている兵隊たち。
こうした中で、フラミンゴの首をまっすぐにし、頭でハリネズミをたたこうとすると、フラミンゴは首をきゅっとひねってしまう。うまくフラミンゴを操ったかと思うと、今度はボール役のハリネズミが逃げ出す。その上、誰もが順番を待とうとしないで、いっせいにゲームを始めようとする。
こんな状況の中で、アリスはチェシャ猫の顔にこう話しかける。
「ゲームのやり方が全然フェアーじゃないのよ」と、アリスはぐちをこぼしにかかりました。「おまけにみんな、ものすごく言い争うもんだから、自分のしゃべる声さえ聞こえないくらいなの。— これといってルールらしいルールもないみたいだし、もしあったとしてもだれも守ってやしないわ。— それに、何もかもが生きているもんだから、ややこしいったらありゃしない。」
確かにみんなクロケーというゲームに参加しているのだけれど、ルールに従って動いているわけではない。誰も守らない規則は規則ではなく、自由に行動していることになる。
その理由は、すべてのものが生きていることにある。生は、主体のように固定化したものの側にあるのではなく、動きの中にある。
行動優先の観点は、流動的な生の動きを捉え、そこに価値を見いだすことにつながる。
アリス的私
行動の後で主体が想定されるという考え方に基づいていくと、アリスの身体の形が変化することも、単なるエピソードではなく、不思議の国の世界観に従っているということがわかってくる。
公爵夫人の食堂のテーブルにあったケーキを食べたアリスは、首がぐんぐんとのび、悲しさのあまり泣き出してしまう。その時、白ウサギが再び姿を現したので、わらをもつかむ思いで、話しかけてみる。と、ウサギはびっくりし、大急ぎで逃げ出してしまう。

その様子を見て、アリスは自分に向かって、「このあたしはいったい誰か?」と問いかける。
そして、アリスは、知っているかぎりの同い年の子どもたちを思い浮かべ、自分がそのうちの誰かに変わってしまったのではないかと、順番に考えはじめました。
「エイダのはずはないわ。」と、アリスは言いました。「エイダは髪は長くくるくる巻いているけれど、あたしの髪は巻いてないんですもの。メイベルのはずもないわね。あたしはなんでもよく知っているけれど、あの子ったら、まるっきりなーんにも知らないんだもの! そうじゃなくなって、あの子はあの子だし、あたしはあたしなんだからー だから、ええと・・・。ああ、もう、ややこしいったらないわ! そうだ、あたしが知っていることをちゃんと知っているかどうか、試してみよう。ええと、4かける5は12で、4かける6は13で、4かける7は・・・。だめだわ! この調子じゃ、どこまでやっても20までたどりつけそうにないわ! でも、かけ算の九九はそれほど大事じゃないわよね。地理をやってみようっと。ロンドンはパリの首都で、パリはローマの首都で、ローマは・・・。あら、これじゃまるっきり違ってるわ! あたし、きっとメイベルになっちゃったのね!」
普通に考えれば、たとえ自分の体の形が変わったとしても、自己意識はそのままである。しかし、本当に自分の外観が変わったとき、その姿を見て、自分だと認識できるだろうか。むしろ、自分に対する疑いが出てくるのではないか。
アリスはまず髪の毛の形で自分はエイダではないと確認する。次に、算数をしたり、地理をして、行動の中で自分が自分であることを確かめようとする。しかし、そこで間違いばかり犯す女の子を発見し、その子が何も知らないメイベルだと思う。
まさに、私という主体が先にあるのではなく、行動をさかのぼったところで、それが誰かを決めていく作業が行われている。

その後、アリスはアオムシと出会い、「誰だ、おまえは?」と問いかけられる。それに対して、朝から何度も体の大きさが変わってしまったアリスは的確に答えられず、「今ちょっと、よくわからないんです。」と答えるしかない。
「けさ起きたとき誰だったかってことならわかるんですけれど、それから何回か変わっちゃったみたいで。。。。」
このアリスの言葉は、「私」というのもが常に行為の後で何かわかるのであり、行為をしている最中には行為の中にとけ込んでしまっていることを現している。
言うなれば、何かをしているときには無我夢中で、自分がそれをしているという意識はない。
行為が終わった時、それをした自分の存在に気づき、その時に、自分という主体がその行為をしたと思い込む。
もしその時に「私」の外観が変わっていれば、行為の主体が本当に「私」であるのか、疑いを持つことも当然だろう。
このように考えると、同じ外見をしているからこそ、自分を自分だと認識できることになる。アリスのようにすぐに体の大きさや形がかわってしまえば、「とっても変な気がする」のも当然なことだろう。

その場合、他の人の目から見れば、さらにアリスはアリスだとは思われなくなる。
アリスがきのこを食べると、また首がどんどんと伸び、頭が肩から離れて、緑の木々のてっぺんまで届くようになる。アリスの首はヘビのように自由に曲がる。
と、その時、鳩がアリスの首をヘビと思い込み、攻撃をしかけてくる。そこで、アリスは鳩の間違いを正そうとする。
「でも、あたし、ヘビなんかじゃないって、言ってるでしょ!」と、アリスは言いました。「あたしはー あたしはー」
「ふん! じゃあ、何なんだい?」とハトは言いました。「でたらめをひねくりだそうったって、そうはいかないよ!」
「あたしー あたしー、女の子なの」とアリスは言いましたが、今日になってから何度かわったことかと思うと、どうしてもあやふやな声しか出ませんでした。
「よく言うよ!」とハトはばかにしきったように言いました。「女の子なら、ずいぶんたくさん見たことがあるがね、そんな首をしたのなんか、一人だっていやしなかったよ! だめ、だめ! おまえはヘビさ。ちがうと言ったってむだだよ。どうせ今度は、卵なんて食べたことないとでも言いだすんだろう!」
「卵なら、もちろん食べたことあるけど」と、正直者のアリスは言いました。「でも、女の子ってものは、ヘビとおなじくらいたくさん卵を食べるものよ。」
「信じられないね」と、ハトは言いました。「けど、もしそれがほんとなら、女の子ってのも、ヘビの一種だってことになるね。それだけの話さ。」
アリスは果たして女の子なのだろうか、それともヘビなのだろうか。それを決めるのはアリスの自己意識、つまり、自分がアリスだと思っていることではなく、ヘビのように長く伸びた首の形や、卵を食べるかどうかといった行動である。
だからこそ、アリスがいくら自分を女の子だと言い張ったとしても、鳩からするとヘビと変わらない存在だとしか見えない。
もしこうしたことが鳩だけではなく、さらに続くようなことになれば、アリスはますます自分が誰なのかわからなくなるに違いない。
もしこの後すぐにキノコを食べ、元の大きさに戻ることに成功せず、ずっと長い首のままでいたとしたら、アリスは自分のことをヘビだと思うようになったかもしれない。
自分が誰かということに関して、普通は、「私」という主体があり、その主体の持つ自己意識が「私は私である」という気持ちを支えている。
しかし、アリスの不思議な国では、どんな形をしているのか、何をするのかが重要で、そうしたことから主体が誰かが決められる。アリス的な「私」は、行動の中から生まれてくる流動的な存在だといえる。

『不思議の国のアリス』は、普通の物事の流れや考え方を次々にひっくり返し、そこに笑いを生み出していく。「意味」や「目的」や「自分」は、初めからあるのではなく、何かしているうちに生まれてくる。
アリスのユーモア、笑いは、こうした普通のこととのずれから生まれてくる。その笑いが、読者に「普通」を見直す機会を与えてくれる。
実を言えば、小さな子どもは本来アリス的な世界観の中で生きている。だからこそ、大笑いしながら、アリスの世界をそのまま受け入れることができる。
大人の読者にとって、アリスの不思議な冒険は、すでに失ってしまった感覚を取り戻すきっかけになる。普通だと思っていることが思い込みにすぎないのではないか疑う自由を手に入れる。
アリスとともに、大人の中の子どもが動き出すのである。
ペロー、グリム、アンデルセンの童話が、子どもを「楽しませながら教育する」ことを目的にしていたとすると、ルイス・キャロルは、教訓を伝えるのではなく、笑いと共に「普通」とは何かを問いかける、新しいタイプの児童文学を生み出した。
不思議の国のアリスが語りかけるのは、実際の子どもだけではなく、大人の中に潜む子どもでもあり、アリスに導かれ、子ども向けとされる作品が、大人の読者にも向けられる第一歩を踏み出すことになった。