ボードレール「窓」 Baudelaire « Les Fenêtres » 生の生成

「窓(les Fenêtres)」は、1863年12月10日に「小散文詩(Petits Poèmes en prose)」という総題の下で発表された散文詩の一つであり、ボードレールの創作活動の中でかなり後期に位置する。
それだけに、ロマン主義から出発した彼の芸術観に基づきながら、19世紀後半以降の新しい世界観をはっきりと意識し、明確に表現しうる段階に来ていたことを証す作品になっている。

ロマン主義からモデルニテと呼ばれる新しい芸術観への変遷を最も端的に表現すれば、プラトニスム的二元論から、感性的現実と理念的理想の区分を想定しない一元論への大転換ということになる。
芸術は現実の理想化された再現であることをやめ、創造された作品自体が第一義的な価値を持つと考えられる時代になる。

Les Fenêtres

Celui qui regarde du dehors à travers une fenêtre ouverte, ne voit jamais autant de choses que celui qui regarde une fenêtre fermée. Il n’est pas d’objet plus profond, plus mystérieux, plus fécond, plus ténébreux, plus éblouissant qu’une fenêtre éclairée d’une chandelle. Ce qu’on peut voir au soleil est toujours moins intéressant que ce qui se passe derrière une vitre. Dans ce trou noir ou lumineux vit la vie, rêve la vie, souffre la vie.



開いた窓を通して、外から見る者は、閉じられた窓を見る者ほど多くのものを、決して見ることがない。何よりも深淵で、神秘的、豊穣で、暗く、眩しいもの、それは燭台に照らされた窓だ。太陽の下で見ることができるものは、常に、窓ガラスの後ろで起こっていることほど興味深くはない。暗かろうが、明るかろうが、その穴の中では、生が生きづき、生が夢み、生が苦しんでいる。

まず最初にパラドクスが提示される。
二つの窓が取り上げられ、開いた窓から見るよりも、閉じられた窓を見る方が、より多くのものが見えるというのである。

この対比で注意しなければならないのは、窓についての記述。何気なく読むと見落としてしまう仕掛けが仕組まれている。

「一つの窓は開いている(une fenêtre ouverte)」のだが、「外から(du dehors)」、その窓を通してみる。つまり、見る人は外にいて、家の中を見ることになる。

ちなみに、いくつかの日本語訳では、「外を見る」となっている。しかし、それであればフランス語は regerder dehors のはずで、du dehors とはならない。
その違いによって、外から部屋を見るのと、部屋から外を見るという、正反対の解釈になる。

もう一つの「窓は閉じている( fenêtre fermée)」。そして、人は「その窓見る(regarde une fenêtre)」。
ここでは、二つの疑問が生じる。
1)見ている人は、窓の外にいるのか、部屋の中にいるのか?
2)閉じた窓を見ている人が見るものとは何か?

ボードレールはその問いにすぐに答えを与えず、閉じた窓に、もう一つ別の種類の仕掛けを施す。
それが、「燭台(une chandelle)」の光。

ロウソクの光が作り出す映像がどれほど魅力的なものかは、例えば、ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの絵画を見れば、一目で納得がいく。

閉ざされた窓のガラスを燭台の光が照らす。そして、その魅力が、5つの形容詞の列挙によって一気に示される。
「深淵(profond)」、「神秘的(mystérieux)」、「豊穣(fécond)」、「暗く(ténébreux)」、「眩い(éblouissant )」。

次に、見る対象。
「太陽の下(au soleil )」で見えるものよりも、「窓ガラスの後ろ(derrière une vitre)」で起こることの方が興味深い、という一文が付け加えられる。

ここでも、それぞれに二つの視点が可能になる。
「太陽の下」とは、家の外という「場所」の意味するとも考えられるし、太陽の光に照らされているという「色彩」論に関する指示とも考えられる。

「窓ガラスの後ろ」とは、窓のどちら側のことだろう?
見る者が部屋の中にいる場合には、窓の外。
見る者が外にいる場合には窓の中、つまり部屋の中を指す。
どちらにしても場所の指定であることに変わりはないので、もし家の外とすれば、太陽の下と同じになってしまう。従って、見る者の視点を外部に置き、窓の後ろは家の中と見なすのが自然だろう。

他方、色彩の指定はないが、直前に、燭台で照らされた窓の指摘があるので、太陽との対比を考えると、燭台の光で照らされた窓ガラスを通して見る室内が想定される。

19世紀には、色に関して、それぞれ固有の色があるのではなく、色は光によって変化するという考え方が論じられるようになった。
同じものを見るとしても、太陽の光と燭台の炎の違いによって、違ってみえる。
ボードレールは、そうした同時代の色彩論も頭に置いているに違いない。

次に続く、「その穴(ce trou )」とは「窓」のこと。
「暗いこともあれば、明るいこともある(noir ou lumineux )」というのは、前に出てきた「暗い(ténébreux)」と「眩しい(éblouissant)」と対応している。

その穴=窓を通して見えるもは、« vit la vie » 。
この表現では、[ vi ]という音によっても、「生が生きる」という意味論的な反復によっても、「生(vie)」が強調されている。

その上で、vieがさらに2度繰り返され、人間の生の営みが、「生きること(vivre)」の他に、「夢見ること(rêver)」、そして、「苦しむこと(souffrir)」であることが示される。

こうした「生」は、太陽の下ではなく、「燭台に照らされた窓」を通すからこそ見えてくる。
だからこそ、「閉ざされた窓」を見る方が多くのものが見え、「窓の後ろ」で起こることの方が興味深いのだといえる。

以上のような一般論が、「人(on)」を主語にした文を通して述べられる。そして次に、「私(je)」を主語にした個人的な経験を語る文が続く。

Par delà des vagues de toits, j’aperçois une femme mûre, ridée déjà, pauvre, toujours penchée sur quelque chose, et qui ne sort jamais. Avec son visage, avec son vêtement, avec son geste, avec presque rien, j’ai refait l’histoire de cette femme, ou plutôt sa légende, et quelquefois je me la raconte à moi-même en pleurant.
Si c’eût été un pauvre vieux homme, j’aurais refait la sienne tout aussi aisément.
Et je me couche, fier d’avoir vécu et souffert dans d’autres que moi-même. 

屋根の波を越えて、私は一人の女性を目にする。少し歳をとり、すでに皺がより、貧しく、いつでも何かの上に身を屈め、決して外に出ない。彼女の顔を使い、服を使い、身振りを使い、ほとんど何でもないものを使い、私はその女性の物語を作り直した。いやむしろ彼女の伝説といってもいい。時には、その伝説を自分自身に語り、涙を流すこともある。
もしそれが哀れな年老いた男だとしても、彼の伝説を、全く同じようにやすやすと作り直しただろう。
そして、私は床につく、私自身とは別の人間たちの中で生き、苦しんだことに誇りを持って。

「屋根の波( vagues de toits)」というのは、パリの建物の屋根が波のように続く様子を思い浮かべると、実感が湧く。
密集した建物には窓が連なり、隣人の部屋の中の様子が見えることもにあっただろうし、今もある。

ジェラール・ド・ネルヴァルは、「散歩と思い出」(1854-1855)の冒頭で、その様子をこんな風に書いている。

(前略)(二番目に追い立てにあったアパルトマンでは、)今ではもうパリの中心部で見ることのないものを見ることができた。——— 2,3本の木がちょっとした空間を覆っている眺め。そのおかげで深呼吸することもできるし、暗い窓の格子以外のものを見て、心を休めることもできる。その窓辺には、本当にたまにだけれど、愛らしい女性の姿が現れたりもする。———
私は隣人の私生活は尊重する。女性が身を横たえる体の線を望遠鏡でのぞいたり、家庭生活の細々したことや深刻な出来事によくある動きを、肉眼でこっそり見たりするような人間ではない。
https://bohemegalante.com/2021/09/03/nerval-promenades-et-souvenirs-1/

こんな風に、隣人の部屋の中が見えることが普通にあり、ボードレールも、時には他人の家の中で起こっていることをこっそりと見ることがあったのだろう。

「私」が目にするのは、「ある程度年を取り(mûre)」、「皺がよった(ridée)」一人の「貧しい(pauvre)」女性。長い間の過酷な労働で体がまっすぐに立たず、常に「身を屈め(penchée)」、「外に出ることもない( ne sort jamais)」。
彼女のこれまで生きてきた過程がすでに一つの物語だといえる。 

「私」はそんな彼女を見て、彼女の人生の「物語(histoire)」を空想した。「作り直した( j’ai refait)」というのは、彼女の顔や服などを通して想像したということ。
そして、その空想が作り上げたのは、「物語(histoire)」という以上に、「légende(伝説)」だったと「私」には思われる。

伝説は、一般的には、事実に基づきながら、ある典型を伝えるために語り継がれる物語を意味する。ここで、ある人間の生きる状況を端的に表現する碑銘となるような物語を意味すると考えることができる。
例えば、韻文詩「小さな老婆たち(Les Petites Vieilles)」や散文詩「寡婦たち(Les Veuves)」などを思い描くといいだろう。
実際、「寡婦たち」には、「経験に富んだ目が素早く読み取る無数の銘(légendes)」といった表現が記されている。
https://bohemegalante.com/2022/03/26/baudelaire-les-veuves-1/

「私」は思い描いた伝説を時々思い起こし、「涙を流す(en pleurant)」。
「私」はここでは、読者の位置にいる。読者として感動し、涙を流す。
伝説の主が男性であっても同じだとした後、その理由が明かされる。

窓を通して見える他者の生を頭の中で作り直すことは、「私自身とは別の人間たち(d’autres que moi-même)」の生を「生きた(avoir vécu)」ことであり、「苦しんだ(souffert)」ことなのだ。
あるいは、「夢見た(rêver)」と言っていいかもしれない。
窓という穴の中で、「命が生きづき、命が夢み、命が苦しんでいる」ように。

ここで、「人(on)」を主語にして語られた一般論と、「私(je)」を主語にした経験談が、一つに重なる。
窓を通して見えてくる他者の生を作り直すことは、他者の伝説を「私」が生きること。そして、それは「人」が燭台に照らされた窓を見、そこを通して透けて見えてくる部屋の中を見ることでもある。
とすると、燭台の光とは、「私」の生の光、あるいはその光の反映になる。
従って、私が作り直す他者の伝説とは、私自身の物語でもあり、他者と私が一体化した生の動きが描かれる。

二元論的な世界観では、窓の向こうの世界はすでに存在し、色のついたガラスを通してみることで、別の見え方をすると考えられるだろう。
別の言い方をすれば、客観的な世界が存在し、私はその世界を主観的に見る。色眼鏡をかけて見ると、世界は違った色に見える。

しかし、「窓」のボードレールは別の世界観に立っている。
老婆や老人は現実に存在するかもしれない。しかし、「私」の作り直す「伝説」こそ、「生が生き、夢み、苦しむ」世界であり、そこで私は彼らの生を生き、彼らと一体化している。
「伝説」の世界は現実のコピーではなく、それ自体で生を宿し、自立している。そして、その伝説世界の方が、「深淵で、神秘的、豊穣で、暗く、眩い」。

こうした一元論は、ヨーロッパの世界観を支えてきたプラトニスムを大転換するものであり、19世紀後半の革命的思考といってもよかった。
そこで、ボードレールは、最後に読者を登場させ、「私」に向けて質問をさせる。

Peut-être me direz-vous : « Es-tu sûr que cette légende soit la vraie ? » Qu’importe ce que peut être la réalité placée hors de moi, si elle m’a aidé à vivre, à sentir que je suis et ce que je suis ?

たぶんあなたは私に言うでしょう、「その伝説は真実なのですか?」と。私の外に置かれた現実がどのようなものでありえたとしても、どうでもいい。もし、伝説の助けによって、私が生きることができ、私が存在すると感じ、私が何であるのかを感じることができたのであれば。

「真実(la vraie)」と「現実(la réalité)」は違う。しかし、一般的に、その伝説が真実かと問われれば、伝説の語る出来事が現実にあったのかどうか、その現実性を問うことになる。

では、現実が真実なのか?

プラトニスムであれば、真実はイデア界にあり、現実はイデア界のコピーにすぎないと主張する。
しかし、1860年代のボードレールは、こうした二元論的世界観から去ろうとしていた。
そのために、彼は真実性の問いに次のように答える。
「私の外に置かれた現実(la réalité placée hors de moi)」は「どうでもいい(qu’importe)」、と。

逆に言えば、大切なのは、「私の中に置かれた現実」なのだ。
それは、燭台に照らされたガラス窓の後ろに見える世界であり、見えた人や物を使って私が作り直す世界でもある。
私と他者が一体化した世界であり、そこに「生」が生成する。

だからこそ、私が作り直した彼女の伝説が、私の「生きる(vivre)」のを助け、「私が存在する(je suis)」と感じ、「私が何であるのか(ce que je suis)」を感じる助けとなる。

そのように考えると、「伝説」は現実であり、真実だといえる。


端的に言えば、新しい芸術観においては、作品世界は現実とは関係なく、もう一つの現実として存在する。
現実をイデアのコピーと見なすのでもなく、作品を現実の再現と考えるのでもなく、作品は作品として自立している。

散文詩「窓」は、そうした作品の在り方を、「燭台に照らされた閉じた窓」という碑銘に刻印する。
その窓を通して見える他者の生は、すでに「私」の生が一体化して作り直されたもう一つの生であり、現実とフィクションの区別を超えている。

19世紀の後半以降、そうした世界観、芸術観が徐々に確立し、20世紀の前衛的な芸術につながっていった。
例えば、ルネ・マグリットの作品。

これらの絵画を見て、現実の再現かどうかを問うことなど無意味であることがわかるだろう。
それら1枚1枚がボードレール的な窓であり、ここから私たち一人一人が読み取る伝説が、私たちが存在し、私たちがどのような存在なのか、感じさせてくれる。

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