
1863年に「落選者展」に展示されたマネの「草上の昼食」は、服を着た二人の男性の横にヌードの女性がリアルに描かれ、スキャンダルを巻き起こした絵画として知られている。
それまでのヌードは、女神やニンフといった人間を超えた存在として描かれ、美の典型を象徴するものとして認められてきた。
それに対して、マネのヌードは、普通の公園の中、理想化されない姿で女性の裸体が描かれている。その主題の選択が、ヨーロッパ絵画の伝統に反することは確かである。
しかし、主題の選択とは全く違う次元で、「草上の昼食」は新しい世界観、芸術観が誕生しつつあった証となる作品もある。
それまでの芸術では、例えば宗教画であれば、聖書などに物語が記され、その物語を描くものだった。つまり、絵画の意味はすでに存在し、それを再現して描くことが目的とされていた。
シャルル・ボードレールが、「古代の生活は多くを表象した(La vie ancienne représentait beaucoup.)」というのは、そのことを指している。
「表象réprésenter」とは「re(再び)- présent(現在)」にするという意味であり、「再び」という言葉が、すでに存在したものの再現であることを示している。
それに対して、モネの絵画は、「再び」ではなく、「今・ここの表現」であり、その意味で、「現前性(présence)」の絵画と呼ぶことができる。
「草上の昼食」は、ティツィアーノの「田園の奏楽」からインスピレーションを得たと言われる。
実際、ヌードの女性と服を着た男性の取り合わせは、「田園の奏楽」と同じである。

「田園の奏楽」はルーブル美術館に展示され、誰の目に触れても問題がない古典作品として認められていた。
現代の私たちにとって、「田園の奏楽」はよくて「草上の昼食」はダメという理由はよくわからない。女性のヌードが描かれていることに違いはないのだから。

現代の絵画の解説を読むと、マネのヌードはリアルで現実の女性を感じさせるが、古典主義絵画のヌードは女神でありリアルさがないと、しばしば書かれている。
しかし、実際のところ、リアルさの違いがそんなに感じられるだろうか? 少なくとも、私たちには二つのヌードの違いはほとんど感じられなくなっている。
そのことは、19世紀半ばに起こった世界観、芸術観の大転換を知覚できない状態に私たちがいることを示している。
「草上の昼食」の衝撃を感知しないことは、私たちが「草上の昼食」以降の世界観に基づき、それが当たり前になってしまっている証拠なのだ。
逆に、古典主義的な世界観は異質なものであり、指摘されなければ意識できない。新しい世界観が確立した後からは、古い世界観がそれ以前に存在していたことが意識から消えてしまう。
では、古い世界観とはどのようなものなのか?
「田園の奏楽」は、基本的には、詩の寓意(アレゴリー)だと見なされた。古代ギリシアの伝統において、フルートは叙事詩の女神カリオペの持ち物であり、二人の女性は女神を表象する。
彼女たちは現実に存在するのではなく、服を着た二人の楽士の想像の中の存在だと見なされる。
後ろに描かれた羊飼いと羊は田園詩を暗示し、理想の世界アルカディアのアレゴリーであるとも見なされる。
このように、絵画は、神話や伝説などすでに理念として絵画以前に存在する世界を、絵画の中に「再び存在させる(représenter)」役割を担っていた。
それが絵画の伝統的な描き方であり、見方だった。
1861年、ドラクロワが完成した、パリのサンシュルピス教会の壁画「神殿から追放されるヘリオドロス」を見てみよう。

素晴らしい躍動感があり、物語性が感じられる。
主題は旧約聖書外典「第二マカベア書」に由来し、シリア王セレウコス4世によって、エルサレムの神殿に押し入り財宝を略奪するように命じられたヘリオドロスが、天から降りてきた騎士に打ち倒される場面を描いている。
その物語の存在が絵画の前提になっているのであり、見るものはドラクロワの壁画から、すでに存在している物語へと遡行する。
同様に、天上から差し込む光は、目の前で展開する場面の外に、光源となる空間が存在していることを示している。
そのことは、同じ場面を描いたラファエルの「神殿から追放されるヘリオドロス」でも同様である。

一言で言えば、古典主義的な世界観では、「ここ」にあるものが、「ここにないもの」を常に指し示す役割を担っていた。
そうした世界観に従うとき、「草上の昼食」は何を表象していると言えるのだろうか?
答えは、「何もない」。
画布の上に描かれていることが全てなのだ。
手前に置かれた果実はただの果実でしかない。ヌードの女性も女神の再現ではなく、ただの女性。
その一方で、下着の女性の奥に伝統的な遠近法の消失点が置かれていることからもわかるように、構図全体が古典的なものになっている。



それだけに、目の前に見える光景以外に、何を描こうとしているのかわからないということになる。
19世紀後半の鑑賞者にとって、当たり前に読み取れるはずの物語が見当たらなかったのだ。
リアルさの衝撃は、そこから来た。
逆に、私たちがその衝撃を受けないのは、「草上の昼食」的な世界観をすでに身につけているからである。
私たちは絵画を見て、自分の感受性に応じて色彩や形体の美を感知する。
サン・シュルピス教会で「神殿から追放されるヘリオドロス」を前にして、聖書外典の物語を知らなくても、美しさに感激することができる。
「草上の昼食」は、そうした世界観の起源にある作品だといえる。

画布の上に存在しないものを再現するのではなく、画布の上の「今・ここ」に全てがある。
ヌードの女性の眼差しが、絵画を見る者に語り掛けるのは、そのことに他ならない。
彼女は「私を見て。」と。「私はこの画布の上にいて、今、ここであなたと体面している。」
絵画はこうして、すでに存在する物語や今ここに存在しない外部を表象するのではなく、見る者の前で展開する色彩と形体そのものとして捉えられるようになる。
「再現(représenter)」から「再び(re)」が取り除かれ、「今(présent)」を捉える絵画、それが「現前性(présence)」の絵画であり、「草上の昼食」はその開始を告げているのだ。
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