ジェラール・ド・ネルヴァル 「散歩と思い出」 散文のポエジー Gérard de Nerval Promenades et Souvenirs 1/8

「散歩と思い出」は、ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)が生前に残した最後の作品の一つであり、詩人でもあった作家の美学がもっとも端的に表現されている。

パリやモンマルトルは、1850年あたりから都市開発の波に洗われ、古い街並みが新しい姿へと変貌を遂げつつあった。
それまで目に見えていた過去の姿が徐々に消え去り、目に見えないものへと変わっていく。
そうした中で40歳を少し超えたネルヴァルは、ジャン・ジャック・ルソーの言葉を思い出し、人生の半ばを超え、現在の時間を生きながら、過去が甦ってくるように感じる始める。

そうした意識を持った時、ネルヴァルは、今を描くことが過去の探求にもつながり、過ぎ去った過去という目に見えないものを追い求めることでメランコリックな憧れを心の中に醸成するというシステムを、彼の美学の中心に据えた。

絵入りの雑誌「イリュストラシオン」に1852年に発表した「十月の夜」は、パリの場末やパリ郊外の町を通して、同時代の現実をリアルに描くという口実の下で、目に見えない「夜」を出現させる試みだった。
https://bohemegalante.com/tag/10月の夜/

同じ「イリュストラシオン」誌に掲載した「散歩と思い出」になると、過去の探索はネルヴァル自身の幼年時代にまで及び、「思い出」を核にしたポエジーの創造が目指されている。

「散歩と思い出」は三回の連載として発表された。
初回は1854年12月30日。1章から3章。
2回目は1855年1月6日。4章から6章。
その後、1月26日の未明にネルヴァルの遺体がバリの場末で発見され、センセーショナルな話題として取り上げられた。
3回目の掲載は2月6日。7章と8章。
はたして8章で終わることがネルヴァルの意図だったのかどうかは不明であり、未完だったのかもしれない。

モンマルトルの丘から始まるフランス語の散文は、さらさらと流れる小川のようであり、ユーモアに溢れ、美しい描写の部分もあり、言葉による美を生み出そうとしたジェラール・ド・ネルヴァルの最後の作品に相応しい出来栄えをしている。


ジェラール・ド・ネルヴァル

散歩と思い出

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1.モンマルトルの丘

 パリで住む所を見つけるのは本当に難しい。——— そのことをこれほど思い知らされたのは2ヶ月前から。ドイツから戻り、郊外の町で少し暮らした後、以前よりも安心な住まいを探した。前の住まいの一つはルーブル広場、もう一つはマーユ通りにあった。——— たった6年前のことだ。——— 最初のところからは20フランの保証金で追い出された。ただ、どうしてか忘れたのだけれど、パリの市役所に20フランを取りに行かなかった。二番目のところでは、今ではもうパリの中心部で見ることのないものを見ることができた。——— 2,3本の木がちょっとした空間をおおっている眺め。そのおかげで深呼吸することもできるし、暗い窓の格子以外のものを見て、心を休めることもできる。その窓辺には、本当にたまにだけれど、愛らしい女性の姿が現れたりする。———

Daguerre, vue de la butte Montmartre

 私は隣人の私生活は尊重する。女性が身を横たえる体の線を望遠鏡でのぞいたり、家庭生活の細々したことや深刻な出来事によくある動きを肉眼でこっそり見たりするような人間ではない。——— それよりも開けた見晴らしの方が好みにあっている。フェヌロンの言うような、「目の楽しみのために最適」で、朝日でも夕日でも楽しむことができるが、とりわけ朝日を楽しめるような見晴らし。夕日が嫌なのではない。私の家以外の場所でなら、どこでも夕日を見ることができることはわかっている。しかし、朝日に関しては別の話だ。太陽が壁の上に模様を描くのを見たり、たとえ単なるイエスズメであっても、鳥のさえずりを外で聞いたりするのが好きだ。・・・ 作曲家のグレトリは、ヴァイオリンの一番高い音を聞くために1ルイ金貨(20フラン相当)を提供したが、私はツグミに20フラン出すだろう。——— その20フラン、パリ市はまだ私に借りている。

 私は長いことモンマルトルに住んでいた。そこでは、とてもきれいな空気や様々な景色を楽しむことができる。素晴らしい見晴らしを目にすることもある。「いい行いをした後は、朝日が昇るのを見るのを好む。」実際、パリの方向に見える朝日はとても美しい。もう少し込み入った趣味を持っている場合には、夕日の真っ赤な色合いを好む。切れ切れの雲が空に浮かび、巨大な墓地の上に、戦闘の場面やタボール山のキリストの場面を描き出す。その墓地は、凱旋門と、アルジャントゥーユからポントワーズへと伸びる青味がかった丘の間に位置している。——— 新しく出来た家々が絶えず進出してくる。ちょうど大洪水の海のようだ。古代の山腹を浸し、キュビエが後に復元した形の定まらない怪物が潜んでいた隠れ家まで、徐々に到達してきたあの海だ。——— 一方では「皇帝通り」から攻撃され、もう一方では、急な上り坂を掘り崩し、パリ側の斜面の高さを低く見えるようにする役場地区から攻撃され、古いマルスの山(モンマルトル)は、時を経ずして、「風車の丘」と同じ運命をたどることになるだろう。その丘は、前の世紀には、今よりも堂々とした姿を見せていた。——— 

Renoir, Jardin de la rue Cortot

しかし、まだいくつかの小さな丘は残っていて、ゆったりとした緑の生け垣に囲まれている。その生け垣を、メギの紫色の花と深紅の実が彩っている。風車や酒場、東屋とか、田園風の気持ちの良い場所がある。静かな小道の横には、藁葺きの小さな家や納屋や草の茂った庭。緑の草地の所々は断崖で区切られ、泉が粘土質の土からしみ出し、草におおわれた小さな島をあちこちに作っている。そこを山羊たちが動きまわり、岩から垂れたアカンサスの草を食べている。誇らしげな眼差しで、山道に慣れた足をした少女たちが、山羊たちの番をしている。ブドウ畑さえある。モンマルトル産の有名なブドウは、ローマ人の時代からアルジャントゥーユやシュレーヌとずっと競い合ってきたものだったが、その最後の畑だ。この慎ましい丘は、毎年、貧弱な株の一列を失っていく。石切場に落下するのだ。——— 10年前、私は3000フランでここを買うことでできた。・・・ 今だと30.000フラン要求される。パリ近郊で最も美しい眺望の場所なのだ。

Van Gogh, La Colline de Montmartre 1886

 ブルイヤール城の大きな木々によって保護されたこの小さな空間の中で、私が最も魅了されるのは、まずなんと言っても、ブドウ畑の名残。それはサン・ドニの思い出と結びついている。サン・ドニは、哲学者の視点からは、第二のバッカスで、三つの体を持っていた。一つの体はモンマルトルに、二つ目はラティスボンヌに、三つ目はコリントに埋葬された。——— 次に惹かれるのは、水飲み場の近辺。夕方になると、馬や犬を水浴びさせ、あたりが活気付く。古代趣味で作られた泉にも惹かれる。洗濯をする女達が、お喋りをしたり、歌ったりして、『若きウェルテルの悩み』の最初の章のよう。もし女神ダイアナに捧げられた浮き浅彫りや、半ば浮き上がって彫られた二人の水の精のようなものが置かれていたら、泉の上に垂れかかる古い菩提樹で影になったところは、素晴らしい隠れ家になるだろう。影のできる時間帯なら静かになっているはずで、ローマ郊外の田園地帯をスケッチするのに相応しい、幾つかの地点を思わせたりするかもしれない。上の方ではブルイヤール通りが描き出され、クネクネと曲がり、雄牛通りへと下っていく。その向こうはゴシェのレストランの庭。東屋や街灯、彩色された像がある。——— サン・ドニの平野は、サン・クーアンとモンモランシーの小丘に囲まれ、素晴らしい形をし、太陽や雲が刻々と形を変え、影を落としている。右側には一列に並んだ家々があるが、壁がキシキシ音をたてるために、大部分は閉まっている。そのおかげで、この地区は比較的静けさが保たれている。というのも、そこを通りかかる馬や牛、そして、洗濯をする女達でさえ、賢者の瞑想を乱さないし、その瞑想に加わることさえあるからだ。——— 市民としての生活、日々の利害関係や人間関係だけが、活動の一番の中心地からできるかぎり離れていようという考えを、賢者に与えるのだ。

 左側にはとても大きな土地があり、崩れ落ちた石切場の跡をおおっている。役場がその土地を仕事熱心な人々に払い下げたので、ずいぶんと様子が変わってしまった。彼らは木を植え、畑を作った。今は、ジャガイモやテンサイが緑の葉を出している。少し前までは、ピンと立ったアスパラガスが、赤い水玉模様で飾られた緑色のふさふさした葉を広げていたものだった。

Victor-Marie Roussin Boeufs dans les marais pontins environs de Rome

 道を下り、左に曲がる。そこにはまだ緑の丘が二つ三つあり、一本の道が通っている。その道は、もっと向こうに行くと、深い窪みの部分を通っている。そのうち、丘と墓地の間にある皇帝通りにつながるだろう。あちらには、小さな集落がある。とても田舎っぽく、3年前からは、乾燥人糞を作る工場の不健康な仕事は止めていた。——— 今しているのは、ステアリン・ロウソク工場の廃棄物を加工する仕事。——— ローマ賞に落選したどれだけ多くの芸術家たちがここにやって来て、ローマ近郊の田園や沼地を研究したことだろう! 実際、沼も一つあり、アヒルとかガチョウのひな、雌鶏で賑わっている。

vieux Montmartre 1820

 労働者たちの肩の上に一風変わったボロ切れがかかっているのを見ることも、まれではない。丘があちこちで裂けていて、そのために昔の石切場の上に積み上げられた土の山が目立つ。しかし、なんと言ってもこの上なく美しいのは、太陽に照らされた小高い丘の眺め。赤黄色の地面には石膏や粘土で葉脈のような筋がつき、岩はむき出し、木立は生い茂り、谷底では細い道や小さな道がクネクネとうねっている。この小さな谷間に点在している大部分の家や土地は、今でも昔の地主が所有している。彼らには計算済みだったのだ。パリの住人にとって新しい家を建てるのが難しいことも、モンマルトル地区の家々が、ある時期になれば、サン・ドニの平地に侵入する傾向があることも。水門が激流を留めるのだが、水門が開くときになれば土地の値段は高くなる。——— だからこそ、私はますます後悔してしまう。10年前、モンマルトルの最後のブドウ畑に3000フラン出すのを躊躇ったことを。

 でも、もうそれを考えてはいけない。私は決して家持ちにはなれない。しかしながら、家賃を支払う3ヶ月毎の8日あるいは15日に、(これは少なくてもパリの近くの場合)、何度、私はヴォトゥール氏のリフレインを歌ったことだろう。

   家賃を払う術がない時には、
   自分の家を持たなきゃならぬ!

あのブドウ畑を買ってさえいたら、私はそこに瀟洒な家を建てていた!・・・ポンペイ趣味の小さなヴィラ。「インプリヴィウム(屋根で覆われた窪んだ部分)」と「セラ(壁に囲まれた部屋)」があり、悲劇詩人の家のような感じの家。可哀想なラヴィロンは、ローマを取り囲む壁の上で命を落としたが、私に家の設計図を送ってくれたことがあった。——— 本当のことを言うと、モンマルトルの丘に地主はいない。合法的に、個人の建物を建てることはできない。そこの土地には沢山の窪みがあり、それぞれの仕切りの中にはマンモスやマストドンが詰まっている。役場は所有権を認めるが、その権利は100年で無効になる。・・・ トルコ人たちのように、野営をしているのだ。最も進歩的な理論をもってしても、そんな一時的な権利に異議を申し立てるのは難しいだろう。相続を長期間確立することはできないのだ。(注1)


(原注1)
所有者の中で、こうしたことを否定する人もいるが、別の人々は肯定していた。ここにも、ユーグ・カペーの下で領地を世襲制にするという横領があり、それに似た不正な取得があったのではないだろうか!

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