ボードレール 「寡婦たち」 Baudelaire « Les Veuves »  3/3 韻文詩「小さな老婆たち」の散文化?

ボードレールは、もう一人の寡婦について語り始める。
彼女は、「私」が後を付けた寡婦と同じように、公園で催される公共の音楽会に立ち会っている。しかし、今度は音楽自体の力が問題になるのではなく、音楽会を通して二つの社会階級が浮き彫りにされ、その中で彼女のいる位置が考察の対象になる。

(朗読は3分32秒から)

Une autre encore :
Je ne puis jamais m’empêcher de jeter un regard, sinon universellement sympathique, au moins curieux, sur la foule de parias qui se pressent autour de l’enceinte d’un concert public. L’orchestre jette à travers la nuit des chants de fête, de triomphe ou de volupté. Les robes traînent en miroitant ; les regards se croisent ; les oisifs, fatigués de n’avoir rien fait, se dandinent, feignant de déguster indolemment la musique. Ici rien que de riche, d’heureux ; rien qui ne respire et n’inspire l’insouciance et le plaisir de se laisser vivre ; rien, excepté l’aspect de cette tourbe qui s’appuie là-bas sur la barrière extérieure, attrapant gratis, au gré du vent, un lambeau de musique, et regardant l’étincelante fournaise intérieure.

もう一人の寡婦。
私はどうしても視線を投げかけずにはいられない、全てに共感を持つからではなく、好奇心からだが、公共の音楽会が開催される囲いの周りに押しかける、社会から排除された人々の群に。楽隊は夜通し、祭りや勝利、官能の歌を投げかける。ドレスがのろのろと動き、キラキラと輝く。視線が入り交じる。暇人たちは、何もしなかったことに疲れ果て、体を揺すりながら、音楽をぼんやり味わうふりをしている。ここには、金持ちで、幸福なもの以外何もない。無頓着さや生きるに任せる喜びを、吐いたり吸ったりしないものはない。何もない。ただ、社会の底辺に生きる人々が見えるだけだ。彼らは、向こうの方で、公園の外の柵の上に寄りかかり、無料で、風に乗って聞こえる音楽の切れ端を耳で捉え、公園内のキラキラと輝く竈を眺めている。

モネの「チュイユリーの音楽会」に描かれているのは、公園の中で演奏会場の近くにいる人々。
ボードレールがいくらブルジョワを批判する精神の持ち主だとしても、名前の知られた文学者や芸術家は公園の内部にいる社会階級に属していたといっていいだろう。

散文詩の覚書と思われるメモには、「ミュザールの庭園の前にいるメランコリックな寡婦(La grande Veuve mélancolique devant le jardin de Musard)」という記述が残されているので、「寡婦たち」で想定されている演奏会はフィリップ・ミュザールが主導する楽団によるものだと考えられる。

Pavillon des concerts de Musard aux Champs-Elysées

「囲い(l’enceinte)」の中にいる人々は「金持ち(riche)」で、「幸福(heureux)」そうに見え、あくせく働かなくても「安逸に(insouciance)」生きることができる。
女性たちは「ドレス(robes)」を纏い「あちこち歩き(trainer)」、みんながぼんやりと音楽に身を任せ、「体を揺らせている(se dandinent)」。
「楽隊(orchestre)」は、彼らのために、「祭り(fête)」や「勝利(victoire)」、「官能(volupté)」歌を演奏する。

その一方で、入園料を払えず、囲いの外で音楽を聞く人々がいる。
詩人は、彼らを「社会から排除された者の群れ(foule de parias)」、「社会の底辺に生きる人々(tourbe)」と呼び、ブルジョワとははっきりと区別する。

彼らは、「あちら(là-bas)」にいる人々。
公園の「外部の柵(la barrière extérieure)」に寄りかかり、「タダで(gratis)」、「風が気まぐれに(au gré du vent)」運んでくる「音楽の断片(un lambeau de musique)」を聞いている。
彼らには、「内にあるキラキラと輝く竈(l’étincelante fournaise intérieure)」は遠く、決して手の届かない。(竈は、暖を取るために公園内に置かれていたのだろうか? それとも、内と外の対比を際立たせる象徴さろうか?)

この対極的な二つの空間を描く「私」が「視線を投げかける( jeter un regard)」のは、囲いの外の人々。
ただし、それは「全面的に共感している(universellement sympathique)」からではなく、「好奇心から(curieux)」だと最初に断っている。

そのことは、ボードレールが二つの階層を行き来する詩人であり、どちらにも決定的に属すことはなく、常に曖昧な中間地帯に身を置いていたことを示している。

C’est toujours chose intéressante que ce reflet de la joie du riche au fond de l’œil du pauvre. Mais ce jour-là, à travers ce peuple vêtu de blouses et d’indienne, j’aperçus un être dont la noblesse faisait un éclatant contraste avec toute la trivialité environnante.
C’était une femme grande, majestueuse, et si noble dans tout son air, que je n’ai pas souvenir d’avoir vu sa pareille dans les collections des aristocratiques beautés du passé. Un parfum de hautaine vertu émanait de toute sa personne. Son visage, triste et amaigri, était en parfaite accordance avec le grand deuil dont elle était revêtue. Elle aussi, comme la plèbe à laquelle elle s’était mêlée et qu’elle ne voyait pas, elle regardait le monde lumineux avec un œil profond, et elle écoutait en hochant doucement la tête.

いつでも興味深く思えるのは、貧しい人間の目の奥に、金持ちの喜びが映っていることだ。しかし、あの日、作業服やインド更紗の服を着た民衆の中で私が目にしたのは、高貴さが周りの卑俗さと明確な対比をなしている一人の人間だった。
背が高く、堂々とした女性。振る舞い全てにおいて高貴であり、過去の美しい貴婦人たちのコレクションの中でも、彼女のような女性を見た覚えがなかった。高い美徳の香りが、全人格から発していた。顔は、悲しげで痩せていたが、その様子は、彼女の纏っている立派な喪服と完全に一致していた。彼女がその中に混ざりながら、彼女の目に入ることはなかった民衆たちと同じように、彼女も、輝く世界を深い眼差しで凝視していた。穏やかに頭を左右に揺すりながら、音楽に耳を傾けていた。

「貧しい人間の目の奥に、金持ちの喜びが映っている(reflet de la joie du riche au fond de l’œil du pauvre)」。実際、貧しい者達が外から中の空間を覗き込むと、豊かな人間たちの姿が彼らの瞳に映ることがあっただろう。それが社会の一つの在り方であり、現実の一部なのだ。

しかし、詩人はここで二つの世界の連動を問題にするのではなく、「民衆(peuple)」の中に混ざり込んでいる一人の寡婦に注目する。
民衆たちは、労働者階級だと一目でわかる「作業服やインド更紗の服を着ている(vêtu de blouses et d’indienne)」。ボードレールはあえてそれを「卑俗(trivialité)」と呼ぶ。

それに対して、問題の寡婦は「高貴さ(noblesse)」そのものである。
その姿は、「過去の美しい貴婦人たち(les aristocratiques beautés du passé)」にも匹敵する女性がいないほどだという。
彼女の描写は、体つき(大きく grande、堂々としているmajestueuse)や顔(悲しげtristeで、痩せているamaigri)だけではなく、人格(高い美徳の香りparfum de hautaine vertu)にも及ぶ。

その上で、もう一つの要素が加わる。
彼女は「立派な喪服(le grand deuil)」を身に纏っているのだ。ボードレールの世界の中の中で、この喪服の表現は、彼女を寡婦中の寡婦にする。

彼女は「民衆(la plèbe)」の中に「混ざってはいた(elle s’était mêlée)」が、民衆を「見てはいなかった(elle ne voyait pas)」。

彼女が音楽に耳を傾ける様子は、公園内の貴婦人よりも気高いように見える。
公園の中の光で照らされた世界を、「深い眼差しで凝視し(un œil profond)、「ゆったりと頭を左右にふっている(en hochant doucement la tête)」。

この喪服の寡婦から、どのような考察が導き出されるのだろうか?

まず最初に、「私」の独り言が、直接話法で語られる。

Singulière vision ! « À coup sûr, me dis-je, cette pauvreté-là, si pauvreté il y a, ne doit pas admettre l’économie sordide ; un si noble visage m’en répond. Pourquoi donc reste-t-elle volontairement dans un milieu où elle fait une tache si éclatante ? »

奇妙な光景だ!「確かに、」と私は独り言を言った。「あの貧困が、もし貧困があればだが、おぞましい節約を認めるべきではない。あれほど高貴な顔が、そのことをぼくに保証している。でも、なぜ彼女は、自ら進んで、自分がこれほど目立つ染みになる場所にいるのだろうか?」

「一点の染み(une tache)」という言葉が、「奇妙な光景(Singulière vision)」だと感じる理由を説明している。
普通であれば、「染み」は、きれいなところにつく汚れを意味する。それに対して、ここでは、汚れてボロボロの服を着た人々の間にいる高貴な女性を染みと見なす。その逆説が「奇妙さ」を生み出しているのである。

そして、染みは、「調和の欠如(une absence d’harmonie)」を具体的に形にしたものだといえる。それが彼女の存在をますます「悲痛な(navrant)」ものにする。

では、なぜ「自ら進んで(volontairement)」、「これほど目立つ一つの染み(une tache si éclatante)」になったのか?
彼女の堂々とした様子からしたら、彼女は会場の柵の中にいるべき存在。彼女の「高貴な顔(noble)」が、「おぞましい(sordide)」節約などすべきでないことを「保証している(répondre)」と、「私」には思われる。

それなのになぜ?
「貧し(pauvreté)さ」のために、音楽会の入場料を惜しんで「節約(économie)」したのだろうか?

「私」のこの自問は、読者に向けての問いかけでもある。読者はその理由を何だと思うのか?

Mais en passant curieusement auprès d’elle, je crus en deviner la raison. La grande veuve tenait par la main un enfant comme elle vêtu de noir ; si modique que fût le prix d’entrée, ce prix suffisait peut-être pour payer un des besoins du petit être, mieux encore, une superfluité, un jouet.

好奇心にひかれて彼女の横を通りかかった時、私はその理由を見抜いたように思った。背の高い寡婦は、彼女と同じように黒い服を着た子どもの手を引いていた。音楽会の入場料がとても安かったとしても、その値段はたぶん、その小さな存在が生きていくために必要なものの一つ、さらには、 贅沢品やおもちゃ一つの支払に十分な値段だった。

「私」は彼女の近くまで行き、「理由を見抜いた(deviner la raison)」ように「思った(je crus)」。
「思った」ということは、断定ではなく、推論である。

「私」が見つけたと思った理由は、子どもの存在。
彼女は「一人の子ども(un enfant)」を「手を引いていた(tenait par la main)」。
その子は、彼女と同じように「黒い服を着ている(vêtu de noir)」。つまり、彼女と同じように「喪(deuil)」を身に纏っている。

音楽会の「入場料(ce prix)」は、その子が「生きていく上で必要なもの(besoins)」を一つ買うだけの値段、あるいはそれを超えた「贅沢品(superfluité)」や「おもちゃ(jouet)」が買える値段だった。
彼女は、入場料を払うくらいなら、子どものためにお金を使っただろう。たとえ民衆の中で「目立つ染み(une tache si éclatante)」になったとしても、子どもを選択したのだろう。

この推測の後、最後の一節では、もう一つの推測が付け加えられる。

Et elle sera rentrée à pied, méditant et rêvant, seule, toujours seule ; car l’enfant est turbulent, égoïste, sans douceur et sans patience ; et il ne peut même pas, comme le pur animal, comme le chien et le chat, servir de confident aux douleurs solitaires.

彼女は歩いて家に戻ったことだろう。物思いにふけり、夢を見ながら、一人で、常に一人きりで。というのも、子どもは騒がしく、エゴイストで、優しさも忍耐も欠けている。その子は、ただの動物、犬や猫でもなってくれるような、孤独な苦悩の話相手になることさえできないのだ。

この最後の節が推測であることは、「彼女は家に戻っただろう(elle sera rentrée)」の時制が直説法前未来であることによって示されている。

直説法前未来形(avoir, êtreの直説法単純未来+過去分詞)は、「未来の時間帯」のある時点において完了したことを意味する(1)。
それと別の用法として、話者の心的態度(モード)と関係する場合には、「すでに完了したことの推測(hypothèse à propos d’un événement déjà passé )」を意味する(2)。
つまり、前の節の「私は思った(je crus)」と同じ役割を果たす。

二つの推測に関して、前の推測が寡婦の子どもに対する愛を前提にしていたとすると、それに続く推測は皮肉に満ちている。
寡婦は子どものために節約をするにもかかわらず、子どもは母を思いやることがなく、「エゴイスト(égoïste)」であり続ける。
ペットの犬や猫のように無言の話相手となり、心を慰めてくれることもない。

彼女は「最も悲しく、最も悲惨な寡婦( la veuve la plus triste et la plus attristante)」であり、公園の隅でたたずむ社会から排除された者たちの一つの典型であり、「詩人」と「哲学者」の推測に基づいて刻まれた「碑銘( légende)」だと考えることができる。

そして、群衆の中で際立つ染みとしての寡婦の姿は、詩人や画家といった芸術家の姿でもある。

ボードレールは、1861年5月6日に書いた母宛の手紙の中で、「ぼくは孤独で、友だちも、恋人も、犬も猫もいず、ぐちを言う相手がいない。ぼくにあるのは父さんの肖像画だけ。でも、いつも何も言わない(toujours muet)。」と書いている。
その手紙には、父の死後、母に対して大きな愛を感じ幸福だったのに、再婚という「軽率な行為」を彼女がしたと、恨みがましいことも言っている部分がある。
そこで、寡婦と子どもの関係をボードレール母子の関係と結びつけて考えることがある。

しかし、「寡婦たち」の理解のためには、子ども以上に、犬も猫もいない寡婦こそ、ボードレールの心の反映と考えた方がいいだろう。
寡婦は「常に孤独(toujours seule)」であり、「物思いにふけり(méditant)」、「夢見て(rêvant)」いる。「孤独な苦しみ(douleurs solitaires)」を「打ち上げる相手(confident)」もいない。
この姿はボードレールの自画像ではないか。あるいは、芸術家の肖像画。

芸術家は、「喪の時代」と完全に調和した「立派な喪服(grand deueil)」を纏う存在であり、エゴイストな子どもであると同時に、高貴な寡婦でもある。
ブルジョワとは喜びを共有せず、民衆の中では染みとなる。
そして、孤独の中で、遠くから聞こえる音楽に耳を傾ける。それだけが、もう一人の寡婦にとってと同じように、「小さな放蕩(petite débauche)」であり、苦痛に満ちた日々の「慰め(consolation)」となる。

その音楽は、韻文詩「小さな老婆たち」の中で響いていたものだ。

楽隊の演奏の一つを聞いていた。ラッパの音が豊かに響き、
兵士たちが、時に、公園中に響き渡らせる軍楽。
その音楽は、黄金の夕べ、人々が生き返ったように感じる時、
英雄的な気持ちを、街に住む人々の心の中に注ぎ込む。

Pour entendre un de ces // concerts, / riches de cuivre, 
Dont les soldats parfois // inondent nos jardins, 
Et qui, / dans ces soirs d’or // où l’on se sent revivre, 
Versent quelque héroïsme // au cœur des citadins.

音楽は、人の心に「英雄的な気持ちを注ぎ込む(Versent quelque héroïsme)」。

そして、その音楽性は、韻文詩だけではなく、散文詩でも届けられる。
実際、「寡婦たち」の最後の詩句の音節数は、6/6のリズムに基づいて綴られている。

méditant et rêvant (6)
car l’enfant est turbulent (6)
égoïst(e), sans douceur (6) / et sans patience (4)
et il ne peut même pas (6) /, comm(e) le pur animal (6), / comm(e) le chien et le chat (6), / servir de confident (6) // aux douleurs solitaires (6).

このように、「寡婦たち」の最後では、散文が韻文のリズム感を感じさせる。
としたら、寡婦の耳に響いていた音楽が、この散文によって、読者の耳にも届けられるのではないだろうか。

もしその答えがouiであれば、「散文によって詩を創造する」というボードレールの試みは成功したということができる。

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