村上春樹 『風の歌を聴け』 2/2 あらゆるものが通り過ぎてしまう世界を生きる 

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』では、大学生の「僕」が故郷の町に帰省した1970年8月8日から26日までの出来事が断片的に語られ、これといった物語はない。

中心になるのは、ジェイズ・バーで一緒にビールを飲む「鼠」というあだ名で呼ばれる友人との会話、「左手の指が4本しかない女の子」との出会いと別れ、そして、その間に湧き上がってくる様々な思い出。
それらの間に明確な繋がりはなく、一環した物語が存在しないために、普通に考えられている小説とは違った印象を与える。

村上春樹は、最初の作品を書くにあたり、小説とはどのようなものであるのか考えたに違いない。
「僕」が思い出を書き記すだけではなく、「鼠」も小説を書く。デレク・ハートフィールドという架空の小説家がでっち上げられ、大学時代に偶然知り合ったという作家の言葉を小説の冒頭に置くなど、書くこと自体に焦点を当てた箇所も数多く見られる。
( 村上春樹 『風の歌を聴け』 1/2 小説家になること 参照)

そして、「私小説」的な内容の小説に関して「鼠」が呟く、「俺はご免だね、そんな小説は。反吐が出る。」と言う言葉は、村上春樹が日本の伝統的な小説に飽き足らず、なんらかの新しい風を吹き込もうと望んでいたのではないかと推測させる。

ただし、その革新は伝統に対する真正面からの挑戦ではなく、いかにも村上春樹らしく、皮肉なユーモアを持った語り口で行われる。
そのことは、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンがないこと、それから人が一人も死なないことだ。」というコメントを読むとよくわかる。
というのも、「僕」の小説、つまり『風の歌を聴け』には、数多くの死について言及され、セックス・シーンがしばしば出てくるからだ。
こうした自己批判の仕方からは、村上春樹的世界のしなやかさが感じられる。

そして、そのしなやかさは、「文章」を通して読者にストレートに伝わってくる。以下の解説では、『風の歌を聴け』から引用した村上春樹の「文章」をしっかりと味わってほしい。

「意味」のない世界

「僕」の基本的な認識は、夏休みの思い出の最後に置かれた次の言葉に要約される。

あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。(38:小説全体で40から構成される断章の番号)

全てのものは過ぎ去り、失われてしまう。誰もそれをどうすることもできず、束の間の生を生きるしかない。

そんな世界の中で、「僕」は数多くの死に立ち会い、時には女の子と寝る。

死について言えば、「僕」が文章について多くを学んだという小説家デレク・ハートフィールドは、エンパイア・ステイトビルから飛び降りて死ぬし、アメリカ大統領J.-F. ケネディーの死も何度か話題になる。

もっと身近な人々の死についても語られる。

 僕には全部で三人の叔父がいたが、一人は上海の郊外で死んだ。終戦の二日後に自分の埋めた地雷を踏んだのだ。(中略)
 祖母が死んだ夜、僕がまず最初にしたことは、腕を伸ばして彼女の瞼をそっと閉じてやることだった。(1)

こうした数多くの死に関して、それ以上の展開はない。こう言ってよければ、ジェイズ・バーで「僕」が「鼠」に向かって言う、「でも結局はみんな死ぬ。」という言葉の証拠としての役割しか果たさない。

「僕」と関係する女の子たちになると、死あるいは喪失がセックスと重ね合わせて語られる。

 僕は21歳で、少なくとも今のところは死ぬつもりはない。僕はこれまでに三人の女の子と寝た。(19)

こんな風にして、女の子たちの思い出は、「寝る」という言葉と対になって語られる。三人ともすでに「僕」から失われているのだが、三番目の子は死と直結している。

 三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると、誰もその林には近づかない。(19)

「僕」はその子が14歳だった時の、「彼女の21年の人生の中で一番美しい瞬間」(26)の写真を持っていた。しかし、「僕」が29歳になった今、「死んだ仏文科の女の子の写真は引越しに紛れて失くしてしまった。」(39)

こうして全てが失われていく。としたら、そんな世界に、何か意味のあるものがあるのだろうか?
「僕」の答えは否定的だ。

「僕」は、帰省中にジェーズ・バーで出会った「左手の指が4本しかない女の子」の部屋で、レコードを聴きながら、東京での大学生活について質問され、生物学の勉強や学生運動の話をする。

たいして面白い話ではない。猫を使った実験の話や(もちろん殺したりはしない、と僕は噓をついた。主に心理面での実験なんだ、と。しかし本当のところ僕は2ヶ月の間に36匹もの大小の猫を殺した。)デモやストライキの話だ。そして僕は機動隊員に叩き折られた前歯の跡を見せた。
「復讐したい?」
「まさか。」と僕は言った。
「何故? 私があなただったら、そのオマワリをみつけだして金槌で歯を何本か叩き折ってやるわ。」
「僕は僕だし、それにもうみんな終わったことさ。だいいち機動隊員なんてみんな同じような顔をしてるからとてもみつけだせないよ。」
「じゃ、意味なんてないじゃない?」
「意味?」
「歯まで折られた意味よ。」
「ないさ。」と僕は言った。
彼女はつまらなそうに唸ってからビーフ・シチューを一口食べた。(22)

たとえ自分の歯を折られたとしても、それはもう過ぎ去ったこと。復讐しようなどしても、意味はない。

意味があるのかと尋ねた「左手の指が4本しかない女の子」も、後になり、「僕」よりも切実にこの世界の意味のなさを表現する。

「何故人は死ぬの?」
「進化しているからさ。個体は進化のエネルギーに耐えることができないから世代交代する。もちろん、これは一つの説にすぎないけどね。」
(中略)
「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんて覚えていないわね。」
「だろうね。」と僕は言った。

「誰も私の存在なんて覚えていない。」そんな質問をするのは、自分が今していることに意味があるのかとか、自分が生きていることに意味があるのかと、自問する時だろう。

読者である私たちだれもが、その問いを、忙しい日常生活の中で忘れているか、考えないようにしているのだが、ふとした瞬間に思い出すことがある。
(例えば、これを書いている私自身、こんなブログを書いて、何か意味があるのかと自問することがある・・・。)

その一方で、一般的に、「小説」の中の世界では、全てのことに意味があり、何かが出てくれば別の何かにつながり、作家は全てを考えた上で緻密な構成を行うのだという既成概念がある。
そのために読者たちは、自分の感受性に応じて、どんなことにでも意味を見つけたがり、そこからなんらかの物語を紡ぎ出そうとする。

「僕」はそうした傾向を理解した上で、「意味探し」をユーモラスに揶揄するエピソードを語っている。
テーマは「レーゾン・デートゥル(存在する理由、あるいは存在する意義)」。
それは、大学のテニス・コートの脇で首を吊って死んだ「三番目に寝た女の子」と関係していて、とても深刻な話題のように思われる。

 僕が3番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。
            ☆
 僕は以前、人間の存在理由(レーゾン・デートゥル)をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある。結局小説は完成しなかったのだけれど、その間じゅう僕は人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖にとりつけかれることになった。全ての事物を数値に置き換えずにはいられないという癖である。約8ヶ月間、僕はその衝動に追いまわされた。僕は電車に乗るとまず最初に乗客の数をかぞえ、階段の数を全てかぞえ、暇さえあれば脈を測った。当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。
 その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることで他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、ぼくの吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。
             ☆
 そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。(23)

ここに出てくる数字に何の意味もない。そんな数字に「誰ひとりとして興味など持ちはしない」のが、当たり前のことなのだ。
6921と6922違いは、6922と6923の違いと同じであり、彼女の死が伝えられた6922に特別の意味はない。
そうした無意味な数字を人間の存在理由(レーゾン・デートゥル)というテーマに結びつけているところに、「僕」の意図が現れている。

全てのものが通り過ぎていき、自分の存在理由などはなく、死んだ後は忘れられてしまう。誰もがそんな気持ちをどこかに持ちながら、日々を生きている。

伝達と噓

誰もが、生きることに意味などないかもしれないと思いながら、しかし、それでも、他人に何かを伝えようとする。
「僕」も、「全てを数値に置き換えることで他人に何かを伝えられるかもしれない」と思ったからこそ、数字を記録したのだった。
伝達しても空しい。そう思ったとしても、人間はやはり伝達しようとする。

子ども時代の「僕」はひどく無口で、精神科の医者に通っていた。その医者は、子どもにわかるような寓話的な例え話をするのだが、その中に伝達に関するものがあった。

 文明とは伝達である、と彼(医者)は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は「お腹がすいています。」と一言しゃべればいい。僕は君にクッキーをあげる。食べていいよ。(僕はクッキーをひとつつまんだ。)君が何も言わないとクッキーは無い。(医者は意地悪そうにクッキーの皿をテーブルの下に隠した。)ゼロだ。わかるね? 君はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチャー・ゲームだ。やってごらん。
 僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃ消化不良だ。
 消化不良・・・・。(7)

伝達の手段は言葉であっても、身振りであってもかまわない。とにかく、相手に何かを表現しなければ、自分の意志を伝えることはできない。
問題は、自分の思ったことが正しく相手に伝わるかどうか。しばしば誤解や不理解が生じる。お腹が空いたというゼスチャーをしても、相手はその身振りを消化不良と理解するかもしれない。

しかし、たとえ意図が正しく伝わらないとしても、表現することで何かが伝わる。
子ども時代の医者のエピソードの終わりに、「医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達することがなくなった時、文明は終わる。パチン・・・OFF。」と付け加えられる。
それは、表現し伝達することを、子ども時代の「僕」が学んだことを示している。

伝達された内容が正しく理解されるかどうかという問題だけではなく、伝達する側の姿勢も問題になる。

ラジオから流れてくるディスク・ジョッキーのエピソードは、ONとOFFの使い分けのあることを暴いている。

[ON]
 やあ、みんな今晩は、元気かい? 僕は最高に御機嫌に元気だよ。みんなにも半分わけてやりたいくらいだ。(中略)

[OFF]
・・・ふう・・・・・なんて暑さだい、まったく・・・
・・・ねえ、クーラーもっときかないの? ・・・地獄だよ、ここは・・・おい、よしてくれよ、俺はね、汗っかきなんだ・・・(中略)

[ON]
楽しいね、これが音楽だ。(中略)

[OFF]
・・・ねえ、野球どなってる? ・・・ 他の局で中継やってんだろう? ・・・・

放送中のスタジオの中で、マイクがオンのときにはリスナー向けの言葉をしゃべり、音楽がかかりマイクがオフだと、全く別の言葉を話す。
リスナーは、ラジオから流れてくるディスク・ジョッキーの言葉をそのまま信じ、彼が最高に元気だと思うかもしれない。その一方で、スタジオにいるスタッフは、彼が暑さにうんざりしているし、音楽より野球の途中経過に気を取られていることを知っている。

伝達された内容が正しく理解されない可能性があるだけではなく、言葉が話す人間の本心かどうかもわからない。
ディスク・ジョッキーの例でいえば、一般的にはOFFが本音であり、ONが建前と考えられるかもしれない。どちらも彼の本心だと見なすこともできる。とにかく、言葉を向ける相手によって、語られる内容が違っていることは確かである。

自分で噓だと自覚して、噓をつくこともある。
すでに見てきた「僕」の学生生活の話でも、「もちろん殺したりはしない、と僕は噓をついた。」と噓を自覚している。

「左手の指が4本しかない女の子」も、堕胎手術を受けるのに、旅行に行くという噓をつく。その後で、再会した時、彼女の様子が少し違っている。

 彼女が門から出てきたのは5時を少し過ぎる頃だった。彼女はラコステのピンクのポロシャツと白い綿のミニ・スカートをはき、髪を後ろで束ねて眼鏡をかけていた。一週間ばかりの間に彼女は三歳くらいは老けこんでいた。髪型と眼鏡のせいかもしれない。(中略)
 「旅行は楽しかった?」僕はそう訊ねてみた。
 「旅行になんて行かなかったの。あなたに噓をついていたのよ。」
 「何故噓なんてついた?」
 「後で話すわ。」(33)

彼女は確かに噓をついた。では、「僕」はその噓を本当に信じていたのだろうか? 
彼女の姿を一週間ぶりに見て、「三歳くらいは老けこんでいた」と感じた時、本当にそれが「髪型と眼鏡のせい」だと思ったのだろうか?
相手の噓に対して、様々な理解の仕方が可能なのだ。

語り手としての「僕」は、噓について次のように語っている。

 僕は時折噓をつく。
 最後に噓をついたのは去年のことだ。
 噓をつくのはひどく嫌なことだ。噓と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく噓をつき、しょっちゅう黙りこんでしまう。
 しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値などなくなってしまうかもしれない。(34)

噓だと意識して噓をつくことは、確かに、気持ちのいいことではない。しかし、本当のことを常に言うことが正しいのかといえば、そうとばかりは言えない。
もし本当のことしか言えないとなったら、何も言わずに黙り込むしかなくなってしまうかもしれない。「僕」によれば、黙ることも罪だ。

また、真実しか言わないと、息苦しくなってしまうかもしれない。

「鼠」が女の子のことで悩んでいて、「僕」に相談しようとして止めたことがある。そして、話すのを止めたのは、「世の中にはどうしようもないことがある」からだと言い、虫歯を例にしてこんな風に説明する。

 「例えば虫歯さ。ある日突然痛み出す。誰が慰めてくれたって痛みが止まるわけじゃない。そうするとね、自分自身に対してひどく腹が立ち始める。そしてその次に自分に対して腹を立てない奴らに対して無性に腹が立ち始めるんだ。わかるかい?」
 「少しはね。」と僕は言った。「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いのもいる。タフなももいりゃ弱いのもいる。金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持っているやつはいつか失くすんじゃないかとビクついているし、何も持っていないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配している。みんな同じさ。だから早くそれに気付いた人間がほんの少しでも強くなろうって努力すべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」
 「ひとつ質問していいか?」
 僕は肯いた。
 「あんたは本当にそう信じてる?」
 「ああ。」
 鼠はしばらく黙りこんで、ビール・グラスをじっと眺めていた。
 「噓だと言ってくれないか?」
 鼠は真剣にそう言った。(31)

条件はみんな同じなんだから、それに早く気づいた人間が強くなろうとするか、強い振りをするだけでいいという「僕」の言葉は、確かにその通りであり、真実をついているといえる。
そう言われれば、納得するしかないし、そうしたことは初めからわかっているのかもしれない。
しかし、そうした真実を突きつけられ続けたら、息苦しくなってしまう。
だから、「鼠」は最後に、「噓だと言ってくれないか?」と言うことになる。
ある時には、真実よりも噓の方がいいこともあるのだ。

噓をつきながらでも、何かを表現し、伝達する方が、沈黙よりも罪が軽いかもしれない。噓があることで真実が価値を保つのであれば、なおさらだ。

「鼠」は、フランスの映画監督の言葉として、「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する。」(16)と口にしたことがある。

噓か真実かが伝達の価値を決めるのではなく、伝達そのものが他人との繋がりを支える。医者が言うように、「もし何かを表現できないなら、それは存在しないとも同じだ。」
存在することに意味があるかないかはわからないとしても、表現しなければ、存在しないことになる。

優しいユーモアを感じさせる言葉

全てはいつか消えてしまい、自分の存在理由も不確かで、他人に何かを伝えようとしても、正しく伝わるかどうかわからず、自分から噓をつくこともある。
孤独感や孤立感を抱えてそんな世界を生きながらも、「僕」は、東京に戻る前に、「左の指が4本しかない女の子」からは、「あなたがいなくなると寂しくなりそうな気がするわ。」(35)と言われ、ジェイズ・バーのジェイからは、「あんたが居いなくなると寂しいよ。」(38)と言われる。

幾つもの噓をつき、新宿でピッピーをしていた2番目に寝た女の子からは、「嫌な奴」(19)と書き置きを残されたのに、どうして「いなくなると寂しい」と言われることがあるだろう?

その理由は、伝達の表現にある。
「僕」の言葉は、現実に直に触れ、真実を直接言い現すのではなく、なんらかの「ズレ」を含んでいる。そして、そのズレが、ちょっとユーモラスに感じられたり、穏やかさやしなやかさを感じさせたりする。

堕胎手術をした後の「左の指が4本しかない女の子」は、旅行をすると言ったのは噓だと告白し、真実を伝えようとする。

「本当のことを聞きたい?」
彼女はそう訊ねた。
「去年ね、牛を解剖したんだ。」
「そう?」
「腹を割いてみると、胃の中にはひとつかみの草しか入ってなかった。僕はその草をビニールに入れて家に帰り、机の上に置いた。それでね、何か嫌なことがある度にその草の塊を眺めてこんな風に考えることにしてるんだ。何故牛はこんなまずそうで惨めなものを何度も何度も大事そうに反芻して食べるんだろうってね。」
彼女は少し笑って唇をすぼめ、しばらく僕の顔を見つめた。
「わかったわ。何も言わない。」
僕は肯いた。(35)

彼女は真実を語らないといけないという気持ちで、無理をしても、「本当のこと」を言おうとする。そうした彼女の気持ちを察しているからこそ、「何か嫌なことがある」ことがわかった上で、牛の胃の中の草の話という、直接の話題からはズレた話を持ち出す。
そのことで、「僕」が彼女の気持ちを理解していることが伝わり、女の子は「わかったわ。何も言わない。」と答え、言いたくないことを言わずにすませることができる。

「真実しかしゃべらない」としたら、こんな穏やかで、ユーモアの含まれた言葉は生まれてこない。
「あなたがいなくなると寂しくなりそうな気がするわ。」と彼女が言うのは、この会話の後のことだった。

こうしたズレを含んだユーモラスで優しい言葉が、『風の歌を聴け』の至るところにちりばめられている。

女の子が指をなくしたことを話す時の対応もその一つ。

「8つの時に電気掃除機のモーターに小指をはさんだの。はじけ飛んだわ。」
「今、何処にある?」
「何が?」
「小指さ。」
「忘れたわ。」彼女はそう言って笑った。「そんなこと訊いた人、あなたが初めてよ。」(20)

女性の指が一本切断された話をしたら、普通はその出来事を悲劇的に捉え、同情したり、あまり直接的にそのことに触れないようにするだろう。
しかし、「僕」は、切断されてしまった指がどこにあるのかという、普通とはズレた問いを発し、彼女の気持ちを和らげ、笑いを誘う。そのことで、現実は変わらないとしても、その受け止め方は違ったものになる。

数字に関しては、すでに「存在理由」のところで見てきたが、意味のない数字が独特の面白みを感じさせる語り方が見られる。

例えば、ジェーズ・バーで「鼠」と過ごす場面。

 一夏かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナッツの殻をまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった。(3)

すごく退屈な夏で、うんざりするという現実は同じでも、25メートル・プール一杯のビールとか、5センチの高さまで積み上げられたピーナッツの殻などと言われることで、退屈な夏がなんとなく楽しげに感じられてくる。

25とか5という数字に意味を見つけようとする読者をからかうといった要素もあるだろうが、ここではむしろ現実をユーモアを持ってやり過ごそうとする、語り手である「僕」の言葉の効果が発揮されている。

ジェイズ・バーのカウンターで、「左手の指が4本しかない女の子」と待ち合わせ、「僕」が遅れてしまった時の会話。

「来ないかと思ったわ。」
僕が隣に座ると、彼女は少しほっとしたように言った。
「すっぽかしたりはしないよ。用事があって少し遅れたんだ。」
「どんな用事?」
「靴さ。靴を磨いていたんだ。」
「そのバスケット・シューズのこと?」
彼女はぼくの運動靴を指さして疑り深そうにそう言った。
「まさか。親父の靴さ。家訓なんだよ。子供はすべからく父親の靴を磨くべしってね。」
「何故?」
「さあね。きっと靴が何かの象徴だと思っているのさ。とにかくね、父親は毎晩判で押したみたいに8時に家に帰ってくる。僕は靴を磨いて、それからいつもビールを飲みに飛んで出るんだ。」
「良い習慣ね。」
「そう思う?」
「ええ。お父さんに感謝すべきよ。」
「親父の足が二本しかないことにはいつも感謝している。」
彼女はクスクス笑った。(20)

父親の靴を磨いていたという理由は全く本当らしくないし、「僕」がなぜ遅れたのか明かされることはない。
あえてそんな噓っぽい話に対して、彼女が言葉をそのまま受け取ったか、あるいはあえてユーモアを込めたのかわからないが、「お父さんに感謝すべきよ。」と言う。すると、「僕」は、「親父の足が二本しかないことにはいつも感謝している。」と、思わず笑ってしまうような返事をする。

こうした例からわかることは、真実か噓かを問うよりも、過酷な現実を和らげるユーモアを含んだ言葉の方が、「伝達」にとって価値があるという認識である。

語り手である「僕」を言葉をもう少し見てみよう。

ひどく暑い夏だった。半熟卵ができるほどの暑さだった。(10)

「家族の悪口なんて確かにあまり良いもんじゃないわね。気が滅入るわ。」
「気にすることないさ。誰だって何かを抱えてるんだよ。」
「あなたもそう?」
「うん。いつもシェービング・クリームの缶を握りしめて泣くんだ。」(20)

 かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
 高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。(中略)
 それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。(30)

「半熟卵」、「シェービング・クリームの缶」、「古い冷蔵庫」などは、話題となっている事柄とは関係がなく、ズレている。しかし、そのズレがクスっとした笑いを引き出し、現実に対する距離感ができる。そのおかげで、深刻さが和らぎ、ほっとした気分が生まれる。

『風の歌を聴け』は、「僕」が大学時代に知り合ったという作家の言葉から始まる。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。(1)

確かに、語り手である「僕」の文章は完璧ではないかもしれない。しかし、これまで見てきたユーモアを感じさせる文章のおかげで、全てがいつかは消え去ってしまうとしても、そこで感じる絶望でさえ完璧ではないと、読者に伝わってくる。

 祖母が死んだ夜、僕がまず最初にしたことは、腕を伸ばして彼女の瞼をそっと閉じてやることだった。僕が瞼を下ろすと同時に、彼女が79年間抱き続けた夢はまるで舗道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった。(1)

祖母の死という悲しい出来事に関して、「僕」は感情の起伏を露わにするのではなく、淡々と「腕を伸ばして彼女の瞼をそっと閉じ」るだけ。
次に、祖母が79年の人生の間抱き続けた思い=夢が、「舗道に落ちた夏の通り雨」にたとえられる。「僕」以外の誰が、そんな比喩を思いつくだろう。
「喩えるもの」と「喩えられるもの」のこうした距離感が、村上の文章の魅力を生み出す原動力となっている。

さらに、「静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった。」と付け加えられることで、儚さ、悲しみ、喪失感、そして失われたものへの想いの深さ等といった感情が、たんたんと伝えられる。

こうした文章がたとえ「完璧」ではないとしても、「現在の僕におけるベスト」だと『風の歌を聴け』の語り手である「僕」が言う時、村上春樹の文章が好きな読者であれば、思わずうなずくだろう。
彼の小説の魅力の大きな要素は、文章なのだ。

ジェイズ・バーがある

ジェイズ・バーのカンターには1枚の古びた版画が掛かっていて、「僕」はどうしようのなく退屈すると、その「ロールシャッハ・テストにでも使われそうな図柄」を長い間眺めることにしている。
すると、その絵が、「二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げ合っているように」見えてくる。

 「何を象徴しているのかな?」僕はそう訊ねてみた。
 「左の猿があんたで、右のが私だね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。」
 僕は感心してビールを飲んだ。(3)

「僕」が東京に戻る前、ジェイズ・バーに立ち寄ると、ジェイがこんな風に声を掛けてくれる。

「あんたが居なくなると寂しいよ。猿のコンビも解消だね。」ジェイはカウンターの上にかかった版画を指さしてそう言った。「鼠もきっと寂しがる。」
「うん。」

確かに、夜行バスに乗ってしまえば、「僕」とジェイのコンビはおしまい、OFFになってしまう。

しかも、1970年の8月の思い出を語り終えた後に付け加えられた後日談では、ジェイズ・バーが変わってしまったという現実が明かされる。

 僕は29歳になり、鼠は30歳になった。ちょっとした歳だ。「ジェイズ・バー」は道路拡張の際に改装され、すっかり小綺麗な店になってしまった。といってもジェイはあい変わらず毎日バケツ一杯の芋をむいているし、常連客も昔の方が良かったねとブツブツ文句を言いながらもビールを飲み続けている。(39)

この世の全てのものが変わってしまうように、ジェイズ・バーも改装されてしまう。
「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。」(38) それが現実なのだ。

しかし、どんなに改装されても、ジェイは以前と同じように芋をむき、ビールを提供し続けている。「小綺麗な店」になったとしても、ジェイズ・バーはジェイズ・バーなのだ。

そして、ジェイズ・バーは、どんな時でも、「僕」を変わることなく受け入れてくれる場であり続けるだろう。
そこに戻れば、ジェイがビール瓶を投げ、「僕」は代金を投げることになる。
「僕」が去る時には、「あんたが居なくなると寂しいよ。」「鼠もきっと寂しがる。」という声が聞こえるだろう。

その場があるからこそ、「左手の指が4本しかない女の子」ともう二度と会えなくなり、自殺した仏文科の彼女のたった1枚の写真をなくしてしまったとしても、「僕」は温かいユーモアを含んだ文章で思い出を語ることができる。

ジェイと「僕」との「猿のコンビ」だけはそう望む時に復活可能であり、「僕」がいなくなると「寂しいよ。」と言う声が聞こえる。
ジェイズ・バーがある限り、「完璧な絶望が存在しない」と言えるだろう。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中