コミュニケーションについて 村上春樹『風の歌を聴け』のジェイズ・バー 柄谷行人『探求 I 』

村上春樹の『風の歌を聴け』の中に、コミュニケーションについて考えるヒントとなる場面がある。

 「ジェイズ・バー」のカンターには煙草の脂で変色した1枚の古びた版画が掛かっていて、どうしようもなく退屈した時など僕は何時間も飽きもせずにその絵を眺め続けた。まるでロールシャッハ・テストにでも使われそうな図柄は、僕には向かいあって座った二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げ合っているように見えた。
 僕がバーテンのジェイにそう言うと、彼はしばらくじっとそれを眺めてから、そう言えばそうだね、と気のなさそうに行った。
「何を象徴しているのかな?」僕はそう訊ねてみた。
 「左の猿があんたで、右のが私だね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。」
 僕は感心してビールを飲んだ。

ロールシャッハ・テストにでも使われそうな図柄が、「僕」には、二匹の猿が二つのテニス・ボールを投げ合っている姿に見える。他方、ジェイは、一方の猿がビール瓶を投げ、他方の猿は代金を投げていると言う。

では、なぜ「僕」はジェイの解釈に感心するのだろう?

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によるボードレールの散文詩「異邦人(L’Étranger)」の翻訳 Lafcadio Hearn « The Stranger »

パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)は、1850年にギリシアで生まれた。父はアイルランド人の医師で、母はヴィーナスが誕生した島として知られるエーゲ海のキュテラ島出身。

2年後に両親はアイルランドに戻るが、間もなく離婚。ハーンは父方の大叔母に育てられ、フランスの神学校やイギリスのダラム大学などでカトリックの教育を受ける。ただし、彼はキリスト教に反感を持ち、ケルトの宗教に親近感を示した。

1869年、大叔母が破産し、ハーンはアメリカに移民として渡り、シンシナティでジャーナリストとして活動するようになる。その後、ニューオーリンズの雑誌社に転職し、さらに、カリブ海のマルティニーク島へ移住する。

日本にやってきたのは、1890年4月。8月から、島根県松江の学校に英語教師として赴任した。
1891年1月、松江の士族の娘、小泉セツと結婚。同じ年の11月、松江を離れ、熊本の第五高等学校の英語教師になる。
1894年、神戸市のジャパンクロニクル社で働き始める。
1896年9月から東京帝国大学文科の講師として英文学を担当。その年に日本に帰化し、小泉八雲と名乗った。
東京では最初、牛込区市谷富久町で暮らしたが、1902年に西大久保に転居。
1903年、帝国大学の職を解雇され、後任として夏目漱石が赴任する。
1904年9月26日、心臓発作のために死去。享年54歳。

ラフカディオ・ハーンの生涯をこんな風に足早に辿るだけで、彼がシャルル・ボードレールの散文詩「異邦人」に親近感を持ち、英語に翻訳したことに納得がいく。

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村上春樹 『風の歌を聴け』 2/2 あらゆるものが通り過ぎてしまう世界を生きる 

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』では、大学生の「僕」が故郷の町に帰省した1970年8月8日から26日までの出来事が断片的に語られ、これといった物語はない。

中心になるのは、ジェイズ・バーで一緒にビールを飲む「鼠」というあだ名で呼ばれる友人との会話、「左手の指が4本しかない女の子」との出会いと別れ、そして、その間に湧き上がってくる様々な思い出。
それらの間に明確な繋がりはなく、一環した物語が存在しないために、普通に考えられている小説とは違った印象を与える。

村上春樹は、最初の作品を書くにあたり、小説とはどのようなものであるのか考えたに違いない。
「僕」が思い出を書き記すだけではなく、「鼠」も小説を書く。デレク・ハートフィールドという架空の小説家がでっち上げられ、大学時代に偶然知り合ったという作家の言葉を小説の冒頭に置くなど、書くこと自体に焦点を当てた箇所も数多く見られる。
( 村上春樹 『風の歌を聴け』 1/2 小説家になること 参照)

そして、「私小説」的な内容の小説に関して「鼠」が呟く、「俺はご免だね、そんな小説は。反吐が出る。」と言う言葉は、村上春樹が日本の伝統的な小説に飽き足らず、なんらかの新しい風を吹き込もうと望んでいたのではないかと推測させる。

ただし、その革新は伝統に対する真正面からの挑戦ではなく、いかにも村上春樹らしく、皮肉なユーモアを持った語り口で行われる。
そのことは、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンがないこと、それから人が一人も死なないことだ。」というコメントを読むとよくわかる。
というのも、「僕」の小説、つまり『風の歌を聴け』には、数多くの死について言及され、セックス・シーンがしばしば出てくるからだ。
こうした自己批判の仕方からは、村上春樹的世界のしなやかさが感じられる。

そして、そのしなやかさは、「文章」を通して読者にストレートに伝わってくる。以下の解説では、『風の歌を聴け』から引用した村上春樹の「文章」をしっかりと味わってほしい。

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村上春樹 『風の歌を聴け』 1/2 小説家になること 

『風の歌を聴け』は、1979年に出版された村上春樹のデビュー作。
この作品は、村上が重視する「物語」が明確な姿を取って語られていず、小説に物語を求める読者にとっては、何が描かれているのかわからないとか、物足りないと感じられるかもしれない。

その一方で、小説について何かを語りたい文学好きの読者や、文学について語ることを仕事する評論家や文学研究者たちは、『風の歌を聴け』に続く様々な小説との関連を探りながら、自分たちなりの「物語」を織り上げてきた。

文学作品が読者を獲得するためには、「性格劇」と「心理劇」を通して、読者が作品世界に自己を投影するように誘う魅力が大きな力を持つ。
1987年に『ノルウェイの森』が爆発的な人気を博して以来、村上春樹の作品が膨大な数の読者を獲得したことは、その魅力を証明している。

『風の歌を聴け』はその原点であると同時に、第2作『1973年のピンボール』の後半から始まる「物語」、つまりスリー・フリッパーのスペースシップという伝説的なピンボール・マシーンの探求の物語がなく、「書くこと=語ること」自体について多く語られ、他の村上作品とはかなり異なっている。
こう言ってよければ、村上春樹が小説家になる過程が、村上自身によって、若々しいタッチで、生々しく、描き出されている。

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