芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 3/7 白河の関  歌枕を詠う散文

おくのほそ道の旅に出発する前、芭蕉が旅への思いに誘われた時、最初に思い浮かべたのは、白河の関(しらかわのせき)だった。
「やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、(後略)。」

白河の関とは、奈良時代に、大和朝廷が、「陸奥(みちのく)」(=現在の東北地方)との境に設置した関所で、その関を超えることは、蝦夷(えぞ)の人々が暮らす地域に入ることだった。

平安時代以降になると、朝廷の北方進出が進み、軍事的な役割は減少した。その一方で、都から遠く離れた北方の地「陸奥」を象徴するものとなり、鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)とともに「奥州三関」の1つとされ、数多くの和歌の中で詠われる「歌枕」になった。

最初に白河の関を和歌に詠んだのは、平安時代中期の平兼盛(たいらの かねもり)だとされる。

みちのくにの白河こえ侍(はべ)りけるに

  たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと
                           (「拾遺和歌集」)

(もしも遠く離れた都まで知らせる手段があるなら、今日、白河の関を超えたと、知らせたいものだ。もしかすると、もう都には戻れないかもしれないのだから。)

兼盛にとって、白河を超えることは、「みちのくに」に入ることを意味していた。陸奥(みちのく)は、都から距離的に遠く離れた地というだけではなく、心理的には、「未知の国」だったことがわかる。

諸国を旅して歌を詠む漂泊の歌人として知られた能因(のういん)法師は、春の季語である「霞(かすみ)」と「秋の風」の対比を通して白河の関を詠った。

都をば 霞(かすみ)とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
                           (「後拾遺和歌集 」)

(都を出発した時には春霞が立っていたが、白河の関に着いた時には秋風が吹いている。それほど、遠くまでやってきた。)

芭蕉はこうした伝統を踏まえた上で、白河の関を思っては「心くるわせ」、旅への思いを募らせた。
そして、実際にその地を訪れた際にも、歌枕の中に込められた古人(こじん)たちの心と自らの心を通わせたに違いない。
そして、その心を、俳句ではなく、散文によって詠ったのだった。

朗読に耳を傾けながら、詠う散文を読んでみよう。

心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便(たより)求めしも、ことわりなり。中にもこの関は三関(さんかん)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。
秋風を耳に残し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢なおあはれなり。卯(う)の花の白妙(しろたえ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。
古人(こじん)冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔(きよすけ)の筆にもとどめ置かれしとぞ。


       卯の花を かざしに関の 晴着かな 曽良(そら)

(朗読は12分34秒から13分31秒まで)

(1)風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。

心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。
いかで都へ便(たより)求めしも、ことわりなり。
中にもこの関は三関(さんかん)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。

江戸を立ってからも、平兼盛(たいらの かねもり)の言う「みちのくに」に足を踏み入れる決心がつかず、「心もとなき」状態だったが、白河の関まで至り、とうとう「旅心」が定まる。

その際、芭蕉は、白河の関が歌枕として「風騒(ふうそう)の人」の心を惹き付けた伝統に倣い、兼盛の「たよりあらば いかで都へ」の句を散文の中に織り込み、「いかで都へ便(たより)求めしも」と綴る。
そのことによって、言うならば、「和歌を詠う俳文」を生み出したのだった。

白河の関が単なる物理的な存在ではなく、歌枕として和歌の伝統の一角を占める精神的な存在であるのと同様の効果を、芭蕉は自らの散文に与えようとしたと言い換えてもいい。
その結果、散文が和歌と同じように詠い、風雅を知る人々の心を引きつけることになる。

芭蕉が「風騒」という言葉を使い、白河の関に「心をとどむ」と書き記すのは、物理的存在が精神的な価値を内包することを暗示するためだと考えられる。

「風」と「騒」は漢文詩の模範とされ、「風騒の人」とは漢詩や和歌を作る詩人や歌人、あるいは、それらを味わうことのできる風流や風雅の心を持つ人を意味する。

芭蕉は「風騒(ふうそう)の人」の耳元に平兼盛の和歌を響かせ、白河の関が「みちのくに」への入り口であることを告げることで、陸奥での風雅の旅が本格的に始まる印としたのだった。

(2)和歌を含んだ散文

「秋風」から始まる文からは、秋風、紅葉、青葉、卯の花などが描かれ、一見すると自然の情景を描いているように見える。
しかし、ほぼ全ての言葉は和歌で裏打ちされ、その中心には能因法師が置かれている。

秋風を耳に残し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢なおあはれなり。
卯(う)の花の白妙(しろたえ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、にもこゆる心地ぞする。
古人(こじん)冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔(きよすけ)の筆にもとどめ置かれしとぞ。

卯の花を かざしに関の 晴着かな 曽良(そら)

A. 能因法師の面影

芭蕉が白河の関を超えたのは、旧暦の4月20日頃。4月は卯月(うずき)と呼ばれ初夏であり、もし秋の風を耳にするとしたら、その音色は、すでに見てきた能因法師の「都をば」の和歌からの連想だといえる。

都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白川の関 

この和歌の「秋風」を散文の中に取り込むことで、芭蕉は、平兼盛の「たよりあらば」から能因法師の「都をば」へと繋いだのだった。
そのことは、当時の芭蕉の読者であれば誰もが見抜いたことだろう。

その後も、芭蕉は能因法師の面影をさらにはっきりと浮かび上がらせるために、この一節の最後で「古人」に言及し、藤原清輔(きよすけ)の名前を出し、最後に弟子の曽良の俳句を置く。

「清輔の筆にもとどめ置かれし」という言葉で思い起こされるのは、藤原清輔の『袋草紙』。
『袋草紙』は平安時代後期に書かれた歌論集で、紀貫之のような歌人たちの逸話を含み、能因法師に関するものもあった。
それによれば、竹田大夫国行は、国守として陸奥の国に向かうために白河の関を通った時、「秋風ぞふく白川の関」という能因法師の和歌に敬意を表し、装束を整えたという。

「古人冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。」という言葉は、そのエピソードを誰もが知っていることを前提にして書かれている。
まあ、その知識が共有されているからこそ、曽良は、芭蕉の言葉を受けながら、句を継ぐことができたのだった。

卯の花を かざしに関の 晴着かな  曽良

(今は4月、卯月。私は、頭に被る笠の上に卯の花をさしてかんざしに見立て、晴れ着の代わりにしよう。昔、能因法師の和歌に心打たれた古人(竹田大夫国行)が装束を正したように。)

曽良は芭蕉の弟子として、師匠の文にある「冠を正し」を引き取り、「かざし(かんざし)」と受ける。
そのことは、能因法師に対する思慕が、古人から芭蕉へ、芭蕉から弟子へと繋がっていくことを示している。

このように見てくると、「秋風」から始まった文が曽良の俳句で終わるこの一節は、能因法師の影の下に置かれていることが明らかになる。

B. 白河の関の「白」

芭蕉と曽良が白河の関を通りかかるのは卯月(4月)であり、秋風はまだ吹いていない。
それにもかかわらず秋風を思うのは、、「いかで都へ」の句で詠われた陸奥の旅での心細さが、能因法師の「秋風ぞ吹く白川の関」によってさらに強く表現されるから。

その際、芭蕉は、「秋風を耳に残し」というだけではなく、「紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして」と付け加える。
「耳に残る」は、聞いた音が記憶に残ること、「俤」は、昔のおもかげが忍ばれるというように、記憶の中の像。
ということは、秋風や紅葉は、芭蕉が白河の関を通る時の様子ではなく、彼の記憶の中のイメージであり、和歌で詠われた姿の反映ということになる。

例えば、平親宗(むねちか)の和歌。

紅葉(もみじ)葉の みな紅(くれない)に 散りしけば 名のみなりけり 白河の関
                          (「千載和歌集」) 

(紅葉がみんな紅になって散ってしまうのなら、白河の関も名前ばかりになってしまう。それほど、白河の関の紅葉は美しい。)

このように秋の情景の面影を記憶の中に留めつつ、しかし、実際に目に入るのは夏の景色。
そこで、ふと、秋の季語である紅葉と、夏の季語である青葉の組み合わされた、源頼政(よりまさ)の和歌が浮かんだかもしれない。

都には まだ青葉にて 見しかども 紅葉散りしく 白河の関
                      (千載和歌集」)

(都を出た時には、まだ夏の青葉が見えていた。長い旅の末にやってきた白河の関はすでに秋も深まり、紅葉が降り注いでいる。)

芭蕉は、源頼政の歌の順番を逆転し、(空想の)秋から夏へと移行し、「青葉の梢なおあはれなり」とすることで、白河の関が夏であることを示す。
白河の関は、秋よりも、夏の景色が「あはれ」なのだ。

そして、青葉以上に夏を思わせる卯の花を詠う。実際、芭蕉と曽良が白河の関を通りかかったのは、卯月(4月)で、初夏の季語なのだ。

卯の花は、ゆきのした科の植物で、白くて小さな花が初夏に咲く。
藤原季通(すえみち)には、卯の花の咲く白河の関の美しさを詠った句がある。

見て過ぐる 人しなければ 卯の花の 咲ける垣根や 白河の関 
                      (「千載和歌集」) 

(立ち止まって見ることなしに通り過ぎる人は誰もいない。それほど、白河の関の、卯の花の咲いている垣根は美しく、人は思わず足を止める。)

芭蕉は、その和歌に詠われた美を、さらに美しいものとして表現する。

卯の花の白妙(しろたえ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。

まず、卯の花の白色を、「白妙」という言葉で美しく描き出す。

次いで、「茨の花」を付け加える。
茨(うばら)とは、野薔薇のことで、初夏に小さくて白い花を咲かせる。
芭蕉は、白妙にさらに白を重ね、美しさをより際立たせる。

最後に、白色の花々が、「雪」を超える美しさだとする。

白河の関の雪を詠った和歌としては、能因法師の「秋風」の句を下敷きにしたものとして、鎌倉時代前期の歌人、久我通光(こが みつてる)のものが、芭蕉の頭にあったかもしれない。

白川の 関の秋とは 聞きしかど 初雪わくる 山のべの道
               (「夫木(ふぼく)和歌抄」)

(能因法師は、「秋風ぞ吹く白河の関」と詠い、秋に白河の関を超えたというが、私は初雪をかき分けながら、山の道を進んでいる。)

残念ながら、私の知識のレベルでは、白河の関の雪の美しさを詠った和歌を見つけることはできなかった。そのために、夏の花の白さが雪の白さよりも美しいという芭蕉の言葉が、白河の関の雪の美しさを詠ったなんらかの和歌に基づく比較だという例を示すことができない。

しかし、「卯の花の白妙」から始まる一文が、白河の関の名前に含まれる「白」の美しさを引き立てることは確かである。


白河の関を詠う西行(さいぎょう)は、能因法師への思慕に導かれながら、月影に心惹かれた。

みちのくへ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹く、と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける

  白川の 関屋を月の もる影は 人の心を 留(とど)むるなりけり  
                              (「山家集」)

(白河の関の番人が住む家に洩れ入る月の光は、能因法師の昔を思い出させてくれ、旅人の心を引き留め、この地を立ち去りがたくする。)

芭蕉も能因法師への思いは西行と変わらないが、ここでは、憧れの西行の跡を追うのではなく、実際の旅で見た卯月の情景により心を打たれ、「卯の花の白妙」に「あはれ」を強く感じたに違いない。

「卯の花」も、「いかで都へ」や「秋風」などと同じように、「白河の関」という歌枕が内包する数多くの言葉の一つだが、芭蕉は、花の白さの美を際立たせることで、目の前に広がる白河の白の情景を、俳句ではなく、散文で描き出したのだった。

和歌の言葉をこだまのように共鳴するその散文は、和歌や俳句と同じように詠い、風騒の人の心に訴えかける力を持つ。
だからこそ、俳句は弟子の曽良に任せ、芭蕉自身は散文のみで、白河の関の「あはれ」を語ったのではないか。
それほど、芭蕉の散文は詠い、歌枕の伝統に新たな一面を付け加えるものになっている。


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