
おくのほそ道の旅に芭蕉を誘った最大の理由は、序の中で告白されるように、「松島の月まず心にかかりて」ということだった。
その松島を実際に目の前にした時、芭蕉は景観の美しさに心を深く動かされたに違いない。旅人の感動は、松島を描く散文によって見事に表現されている。
俳句も詠んだらしい。
島々や 千々に砕きて 夏の海 (「蕉翁全伝附録」)
260を数える島々の情景が心に浮かんでくる句であり、写生として決して悪い出来ではないと思うのだが、しかし芭蕉はこの句を『おくのほそ道』では取り上げなかった。
芭蕉が選択したのは、漢詩的な表現が多く使われる前半と、隠者文学を思わせる後半を組み合わせ、二つの相の下で松島を描き出すことだった。
(1)「造化」の景
そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑(ふそう)第一の好風にして、およそ洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥ず。
東南より海を入れて、江(え)の中三里、浙江(せっこう)の潮(うしお)をたたふ。
島々の数を尽して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重(ふたえ)にかさなり、三重(みえ)に畳みて、左にわかれ右につらなる。負(おえ)るあり、抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし。
松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風(しおかぜ)に吹きたはめて、屈曲おのづからためたるがごとし。
その気色(けしき)、窅然(ようぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。
ちはや振(ぶる)神のむかし、大山(おおやま)ずみのなせるわざにや。
造化(ぞうか)の天工(てんこう)、いづれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を尽さむ。
芭蕉は、「ことふりにたれど」、つまり、すでに言い尽くされてきたことだとことわりながら、松島の描写をするのだが、最後になると、「いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ」、つまり、松島の美しい景色を誰も描くことはできないとする。
しかし、それはすでに描写が終わった後であり、「言わないと言う」ことで逆に言ったことを際立たせる「逆言法(パラレプシス)」という表現法を使ったのだった。
その前に行われた松島の描写は、二重、三重に重なり合った島々が対位法的に配置され、漢詩の「対句」を思わせる表現が使われていた。
欹(そばだつ)もの(上に伸びた島) vs ふすもの(平らな島)
天を指さし vs 腹ばう
左に分かれる vs 右に連なる
負る(別の島を背負う)島 vs 抱る(別の島を抱きかかえる)島
松の緑色の枝葉の描写でも、対句的なリズムで松の姿を美女にたとえる表現が付け加えらる。
枝葉汐風に吹きたはめて(=枝や葉が海の風に揺られて) vs 窅然(ようぜん)として(=深遠な様子で)
屈曲おのづからためたるがごとし(=折れ曲がりが自然にできあがっているように見える) vs 美人の顔を粧ふ(=美人が顔を化粧したように見える)
これほど整った文章構成に基づく描写は、目の前に広がる現実の松島を描いているというよりも、松島の美とはこのようなものであるという、「理念としての松島の情景」だと考えた方がいいだろう。
このような漢詩調の文を用いたのは、和歌でも数多く詠われてきた歌枕である松島が、漢詩や山水画によって描かれた中国の風光明媚な地にも劣らないという思いを、芭蕉が持ったからに違いない。
そのために、芭蕉は、日本を「扶桑」と中国風に名指すところから始め、洞庭湖(どうていこ)、西湖(せいこ)、浙江(せっこう)と、風光明媚で名高い中国の地名を挙げたのだった。
それらの地は、李白、杜甫、白居易、蘇東坡たちの漢詩によって詠われ、また、数多くの山水画でも描かれ、永遠の姿を留めている。
また、それらの地は、芭蕉が高く評価する雪舟など、日本の画家たちによっても描かれてきた。


これらの地は、空想ではなく、実際に存在している。しかし、詩や絵画によって理想な風景に昇華し、永遠にその美を留めているのだといえる。
芭蕉は自らの描写の後で、美人がさらに美しく化粧を施した姿に匹敵するほど美しい松島が、イザナギとイザナミの神産みで生まれた大山津見神(おおやまつみのかみ)によって作り出されたものではないかと自問する。
さらには、「造化の天工」、つまり、人間の手が加わらない自然そのままの景観であると見なす。
そのことは、芭蕉が、現実の松島の風景を前にして、杜甫や李白たちが作り出した美に劣らない美を見出したことを意味する。
そのような視点から描かれた松島の情景は、現実に基づきながらも現実を超え、『おくのほそ道』の中で永遠に存在することになる。
そして、読者はそこに、松島の「不易」の美を見る。
その美は、『笈の小文』で語られた俳諧の理想と対応するといってもいい。
俳諧の精神は、西行の和歌、雪舟の山水画、利休の茶道と同じ精神に貫かれているとされた後、次のように続けられる。
しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(=四季)を友とす。
見るところ花にあらずといふ事なし。思うところ月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき=野蛮)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
俳諧の目指す「風雅」は、「造化に従い、造化に返る」ことから生まれる。
「造化」とは、造物主によって造り出された全ての物。
それをそのままの姿で見れば「花」に見え、そのままの姿を思えば「月」だと思える。つまり、「造化」そのままの姿は花のように美しく、そのままを考えれば月のように情緒がある。
「造化の天工」とは「造化にしたがひ、造化にかへれ」の精神が捉えた松島の姿であり、漢文調の文はその情景を描き留めようとした芭蕉の試みだといえる。
芭蕉は、雪舟の山水画に同じ精神を見た。
その視点から見ると、「天橋立図」は、現実の風景でありながら、雪舟の筆によって「造化の真」が捉えられ、「不易」の相にある。
(雪舟について:雪舟 水墨山水画 四季の情感と「造化の真」)

雪舟が天橋立で絵筆によって行ったことを、芭蕉は松島に対して漢文調の散文によって行ったと考えると、この一節の役割がよりよく理解できるに違いない。

(2)隠者の心地
松島の「造化」における情景を描いた後、芭蕉は雄島(おじま)に視点を移し、人間の姿を書き加えていく。
それは、山水画の中に人間の姿を描き込むのと同じことかもしれない。
雄島(おじま)が磯は地つづきて海に出(いで)たる島なり。
雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石などあり。
はた、松の木陰(こかげ)に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見えはべりて、落穂・松笠などうちけふりたる草の庵、閑(しずか)に住(すみ)なし、いかなる人とはしられずながら、まずなつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめまたあらたむ。
江上(こうしょう)に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たえ)なる心地はせらるれ。
松島や 鶴に身をかれ ほととぎす 曽良(そら)
予(よ)は口をとぢて眠らんとしていねられず。
雲居(うんご)は江戸時代初期の臨済宗の僧侶で、1636年、住職が不在だった松島の瑞巌寺(ずいがんじ)に入ったことが知られている。
「世をいとふ人」、つまり隠遁生活を送る人も実際にいたらしい。「草の庵、閑に住なし」という表現からは、鴨長明や吉田兼好を思わせないこともない。

鴨長明には、松島の月を詠った和歌がある。
松島や しほ汲むあまの 秋の袖 月はものおもふ ならひのみかは
(新古今集)
(松島で、秋、海水を汲む海女の袖は、びっしょり濡れて、そこに月の光が映っている。月光は、ものを思う人の袖にだけ宿るのが慣例だと思っていたが、そうではないらしい。)
ここで大変に興味深いことは、芭蕉が「月」に言及しながら、「月海にうつりて、昼のながめまたあらたむ」(=月の松島は昼の松島とはまた違った趣がある)と言うだけで、月に照らされた松島の描写には一言も費やさないことである。
思い出してみれば、芭蕉が旅に誘われた最も大きな理由は、「松島の月まず心にかかりて」だった。その松島の月を前にして、芭蕉は昼とは全く違う行動を取る。
彼は、海に突き出た(実際には橋で結ばれている)雄島から松島の岸辺に戻り、宿屋の2階に上がり、その窓から景色を眺める。
そして、「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。」と記す。
しかし、なぜあえて旅館の中に入り、窓から眺める自らの姿を描きながら、風や雲、つまり外に広がる大自然の中で旅寝するなどと、一見矛盾することを言うのだろう?
その理由は、体は宿の中にいるが、心は風雲に代表される大自然、別の言葉で言えば「造化」の側にいることを、はっきりと示すためだろう。
そこには、物理的には最小限の空間、例えば「方丈」に暮らしながら、精神は自由に解き放たれた隠者たちの心持ちと通じるものがある。
「あやしきまで」という言葉は、吉田兼好の『徒然草』の一節を思い出させる。
つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
兼好の「あやしうこそ」(=普通ではありえないほど)、「ものぐるほしけれ」(=狂おしい気持ちになる)という気持ちは、芭蕉の「そぞろの神の物につきて心をくるはせ」と大きな違いがない。
芭蕉は松島の月を宿の窓から眺めながら、心は外の自然と一つになる。
目に入るのは、『笈の小文』で言った、「思うところ月にあらずといふ事なし」の「月」。
だからこそ、その時、普通ではありえないほどの「妙(たえ)なる心地」を味わう。「妙なる」とは、不思議なまでに素晴らしく、言葉にできないほどの美しさがもたらす感覚。
そのため、芭蕉は「口をとじ」るしかない。
芭蕉にできるのは、弟子の曽良の句を借りてくることだけだった。
松島や 鶴に身をかれ ほととぎす 曽良
(松島はあまりに美しい。ホトトギスよ、松島を訪れるときには、そのままの姿ではなく、美しい鶴の姿を借りてこい。)
ここでも芭蕉は再び「逆言法(パラレプシス)」を用い、言葉で表現することもできず、眠ろうとしても眠られなかったと否定的な表現を使うことで、「あやしきまで妙なる心地」をもたらす情景の美しさを強調する。
芭蕉は、昼の松島では、漢詩や山水画に匹敵する「造化」の姿を捉え、漢文調の文を使い、「不易」の相の下の松島を描き出した。
その一方で、「松島の月」に関しては、描写を一切行わず、その光景を目の当たりにした時に感じた深い感動を記すだけに留めることで、妙なる美を伝えようとした。
そうした二つの表現を通して、「芭蕉の松島」が、「扶桑(ふそう)第一の好風」として人々の記憶に留められることになったのだった。

大変に興味深いことに、「芭蕉の松島」は、松島だけで完了しない。『おくのほそ道』の二重構造の中で、「松島」には「象潟(きさかた)」が対比される。
芭蕉が師と仰ぐ西行は、松島と象潟を比較し、象潟の月の美しさが勝っていると詠った。
松島や 雄島の磯も 何ならず ただ象潟の 秋の夜の月 (「山家集」)
(確かに松島や雄島の磯の光景は美しいが、しかし、それさえも何でもないと思えてくる、象潟の秋の夜の月と比べれば。)
それを知った上で、芭蕉は、象潟の地で、「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と記すことになる。
従って、松島をよりよく知るためにも、芭蕉が象潟をどのようなものとして提示するのか知ることは興味深いし、そのことを通して、『おくのほそ道』により深く分け入っていくことができる。