芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 2/7 「序」の関(せき)

『おくのほそ道』は、1689年の春から秋にかけて芭蕉が行った長い旅に基づく紀行文の形式で書かれているが、執筆には時間を要し、1694年に芭蕉がこの世を去るまで書き継がれ、出版されたのは1702年になってからだった。

なぜそんな時間をかけたかといえば、事実に忠実な旅の記録を書き残すのではなく、芭蕉が俳諧の本質だと考えた不易流行」の概念を具体的な形で表現することを意図したからに違いない。

実際、『おくのほそ道』は江戸の深川から出発して、前半では、日光、松島を経て平泉に達する太平洋側の旅が語られ、後半では、出羽三山を通過し、日本海側を下り、最後は岐阜の大垣にまで至る、大きく分けて二つの部分から成り立つ。つまり、単に旅程をたどるのではなく、はっきりとした意図の下で構成されているのだ。

その旅の前に置かれた「序」は、『おくのほそ道』の意図を格調高い文章によって宣言している。
最初に旅とは何かが記され、次に「予(よ)=(私)」に言及することで芭蕉自身に視線を向け、旅立ちに際しての姿が描き出されていく。

ここで注意したいことは、芭蕉は俳人だが、俳句だけではなく、旅を語る散文もまた、俳諧の精神に貫かれていること。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」という最初の一文を読むだけで、俳文の美が直に感じられる。

ここではまず朗読を聞くことで、芭蕉の文章の音楽性を感じることから始めよう。(朗読は16秒から1分33秒まで)

(1)旅に死した多くの古人

『おくのほそ道』の扉を開のは、漢文調で厳めしく見えるが、読み上げるとリズミカルで心地よい文。多くの読者が記憶しているに違いない。

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。
古人(こじん)も多く旅に死せるあり。

最初の文が漢文調であるのは、芭蕉が、中国の詩人、李白の詩を下敷きにしているからだと考えられる。

それ天地は万物の逆旅(げきりょ=宿屋)にして、光陰(こういん=月日)は百代の過各(かかく)なり。
而(しこう)して浮世は夢のごとし、歓(かん)を為(な)すこと幾何(いくばく)ぞ。
古人(こじん)燭(しょく)を秉(と)りて夜遊ぶ、良(まこと)に以(ゆえ)有(あ)るなり。

                                (李白「春夜桃李の園に宴するの序」)

(天地は万物を宿す旅館であり、その中を通過する月日は永久(=百代)に過ぎ去り、決して戻りはしない旅人である。
この世は浮世であって、夢のようにはかなく、楽しいことをしたとしても、そんなに多くの時間はない。
古人は灯火を手に持って夜まで遊んだという。もっともなことだ。)

李白の詩は、時間は留まることなく過ぎ去り、全ては失われてしまう、だかからこそ、楽しめる時に楽しいことをするようにと勧める、快楽主義的な内容を持っている。

それに対して、芭蕉は、「百代の過客」、「光陰」=「行きかふ年」、「古人」という言葉を借用し、李白と同様、時間の流れの無常さを訴えながら、しかし、快楽主義とは違う方向に視点を転換する。
「古人」に関して、李白は、夜まで火を灯して遊んだというのだが、芭蕉は、「旅に死んだ」と言う。

芭蕉が考える「古人」とは、船や馬で旅をし、旅の中で老いていく人々であり、具体的には、実際に旅の途中で死んだ詩人たち、西行、李白、杜甫たちを指しているのだと考えられる。

しかし、この世の全ての人間は時間に押し流されて生き、老いていくのだから、時間という旅を栖(すみか)にしない人などいない。
人間は誰もが「日々旅にして、旅を栖とす。」
としたら、芭蕉の旅は、私たち読者すべての旅でもある。

旅に死んだ多くの古人と同じように、芭蕉も人生という旅に死に、私たちも同様にいつかは時間の旅を終える。

このように考えると、この序文は、人間にとって「不易」はなく、「流行」の中で生きているということを、詩的な表現で伝えていると思われるかもしれない。

確かに、人は生まれから歳を取り続け、最後は死んでいく。決して後戻りはできない。
だが、「人間」全体で考えた場合、「古人」たちに芭蕉が続き、芭蕉の後には私たちが続く。
その流れは「百代」に渡り、「ゆく川の流れは絶えずして」(『方丈記』)であり、「不易」でもある。

従って、『おくのほそ道』は「旅を栖とする」人間という存在の「不易流行」をテーマにしていると、序の冒頭で告げていると考えることもできる。

(2)予(私)の場合

次に芭蕉は旅への思いを告白する。その際、漢字が多く使われるのは前の文と同じなのだが、一文が長く、なだらかに続いていく。

実際、以下の文章はたった一つの文からなっている。
(ただし、写本によっては、「手につかず」の後に丸が打たれ、二つの文になっているものもある。)

予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞の空に白川の関(せき)こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒(お)付けかえて、三里に灸(きゅう)すうるより、松島の月まず心にかかりて、住(すめ)る方(かた)は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
  
       草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家

面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱に懸(かけ)置く。

一文が長いにもかかわらず、句読点が音の固まりを適切に区切ることで、軽快なリズムを生み出している。
その一方で、意味が頭にすっと入ってこない。
その理由は、句読点で区切れた断片の意味は明白なのだが、あまり論理性のないままに連続しているため、意味的な繋がりが不透明になるからだ。

この長い文の断片を、前から少しづつ追って読み進め、時間の経過と芭蕉の心のうちを探ってみよう。

A. 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、

芭蕉は1675年に故郷の伊賀を去り、江戸に出て俳諧の師匠として生計を立てていたが、1680年になり、突然、江戸の中心を離れ、深川に隠棲した。

1682年12月、深川の庵が八百屋お七によって知られる天和の大火で焼失し、江戸を離れることになる。翌年の5月には江戸に戻り、しばらくすると芭蕉庵も再建されるが、一連の出来事によって、人生の儚さを痛感したらしい。

その無常観の影響なのか、1684年8月に『野ざらし紀行』で語られる関西への旅に出たのを皮切りにして、1867年8月には鹿島に、その年の10月からは『笈の小文』と『更科紀行』で語られる関西、中部地方を回る長い旅に出る。
その旅から江戸に戻ったのは、翌1868年8月のことだった。

芭蕉は、そうした旅への思いを、「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」と表現する。

B. 海浜にさすらへ

この部分は、『笈の小文』の旅で訪れた鳴海、伊良胡岬、和歌の浦、須磨や明石の海岸などを指し、それらをまとめて「海浜」と簡潔に記している。

C. 去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて

前の言葉との間に飛躍があり、海岸を訪れた旅から戻った後という説明もなく、いきなり「去年」で始まる。
しかも、「江上(こうしょう=水辺)の破屋(はおく)」が、隅田川沿いにある深川の芭蕉庵を指すことは、予めわかっている読者にしか理解が困難である。

しかも、「去年」というのは、おくのほそ道の旅に出発する前の年ということだが、それがいつかも明らかにされていない。

芭蕉の門人であれば、師匠が江戸に戻ったのは1868年8月(現在の暦では10月)で、その時、長い間留守にしていた庵には蜘蛛の巣が張っていて、再びそこに住むことを、「蜘蛛の古巣をはらい」と表現したのだとわかるはず。
としたら、芭蕉はあえて省略を多くすることで、『おくのほそ道』の読者を自分の世界に誘い込んでいるのだと考えることもできる。
旅についてくるのであれば、最初は多少わからないことがあったとしても、私の世界に入り込みなさい、と。

D. やや年も暮、春立てる霞の空に白川の関こえんと

昨年の秋から年の暮れへと時間が推移する。すると、再び旅に出たいという気持ちが強くわき上がってくる。
そして、春になったら陸奥(みちのく)を巡る旅に出る思いを強くし、関東と東北を隔てる境である白河の関を超えていく自分を姿を空想する。

ここでは、「去年の秋」から「やや年も暮」へ、次に「春」へと時間が推移する。その「流行」に従い、旅への気持ちが掻き立てられていく様子が描かれていることがわかる。

E. 道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すうるより

道祖神(どうそじん)は、村の境や峠などの道の脇に置かれて、外来の疫病や悪霊を防ぐ神だったが、後になると、旅の安全を守る神としても信仰された。

旅に出ることを考えるだけで、旅の神に誘われているような気分がし、落ち着かなくなる。そこで、身支度を調えたり、はては、「三里」(=膝がしらの下の外側のくぼみ)にお灸をして、健脚になり、万病に備えようとする。

ここでは、気持ちがはやり、まだ出発しない前から、いそいそと準備する芭蕉の様子が目の目に浮かんでくる。

F. 松島の月まず心にかかりて

先ほどは、「白河の関」を超えるところまでだったが、今度は更に先に進み、「松島」を思い浮かべる。

松島は陸奥(みちのく)にある数多くの歌枕の中でも別格といえる歌枕であり、旅の目的地として芭蕉が最初に思い描いたとしても不思議ではない。

「松島の月」を詠った和歌は数多くあるが、ここでは『新古今和歌集』に収められた二つの歌を読んでみよう。

松島や 潮(しお)くむ海人(あま)の 秋の袖(そで) 月は物思ふ ならひのみかは 
(鴨長明)

(松島で、秋、海水を汲む海女の袖は、びっしょり濡れて、そこに月の光が映っている。月光は、ものを思う人の袖にだけ宿るのが慣例だと思っていたが、そうではないらしい。)

心ある 雄島(おじま)の海人(あま)の 袂(たもと)かな 月宿れとは 濡れぬものから  
                (後鳥羽院の宮女源師光の女)           

(雄島の海人の袂は、風流を感じる心を持つものだなあ。月の光を宿すようにとわざと濡れたわけではないのに、濡れている。) 

芭蕉はこうした歌に詠われた松島の月を自分の目で見、和歌の伝統の中で培われてきた「物思ふ心」を自分の中に感じたいと強く願ったのだった。

G. 住る方は人に譲り、杉風(さんぷう=門人の名前)が別墅(べっしょ=別荘)に移るに

この一節は、芭蕉が、1689年3月上旬になり、これまで住んでいた深川の庵を去り、門人である杉風(=杉山市兵衛)の別荘を一時の宿とした事実に基づいている。

しかし、先に話題になった年の暮れからここまで、時間的な経過はまったく示されていず、いつこの転居が行われたのか、文を読んだだけはまったくわからない。

芭蕉はあえて、「道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず」という状態の中で、とりあえず旅の支度を調える姿を、客観的な時間の流れの中に置くのではなく、心の動きとして描こうとしたのだろう。
そして、芭蕉庵との別れに際して、次の一句をその住まいに捧げる。

H. 草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ / ひなの家

「草の戸」とは深川の庵のこと。
芭蕉は、陸奥(みちのく)の旅の費用に充てるため、その家を売らなければならなかった。
後には、新しい住人がやってくる。たぶん夫婦者で、子供もいて、3月になれば、ひな祭りで、ひな人形が飾られることになるだろう。

芭蕉という隠遁者から普通の一家へと住人が代わることで、これまでひっそりとしていた住まいが華やぐことになるに違いない。
そうした思いがひな祭りと繋がり、3月を連想させる。

そこで、この俳句は、転居を告げながら、その後に明記される「弥生(やよい)も末の七日」の旅立ちの時期を予告する役割も果たすことになる。
もう三月なのだ、と。
そんな風にして、年の暮れからあまりに忙しくして忘れていた暦の日付が、出発の準備も整った頃、再び意識されたのだろう。

J. 面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱に懸(かけ)置く

「面八句」は、連句の用語。
連句とは、最初の一人が5/7/5 の句を詠み、その後、別の人が5/5の句を付け、次にまた別の人が5/7/5の句を付け、次に5/5の句を付けるというように、次々に句を連ねていく文芸。
100句連ねる「百韻」、36句連ねる「歌仙」などの形式がある。

「百韻」の連句を書く際に、懐紙を真ん中で2つに折り、裏表に8句つづ書いていくが、最初のページの8句を「面八句」と呼ぶ。

芭蕉は、「草の戸」の句を「面八句」の最初の一句として書き、芭蕉庵を立ち去る際に、柱にかけてきたのだった。
新しく住むことになる人々に、弥生のひな祭りを楽しんでくださいという気持ちと、これまで私が大切にしてきた家を、連句を繋げていくように大切に継いでいってくださいという気持ちを込めてのことだったろう。

このようにして、過去に別れを告げ、おくのほそ道の旅へと出発する準備が全て整ったことが示される。

(3)古人から「予」個人へ

芭蕉は『おくのほそ道』を始めるにあたり、まず最初に、漢文調の文を駆使し、常に過ぎ去っていく時間の流れという旅の中で多くの古人が死んでいったのだと記す。

この世の全ては、鴨長明の言葉を借りれば、「よどみに浮ぶうたかた」(『方丈記』)であり、李白によれば、「浮世は夢のごとし」なのだ。
芭蕉の言う古人とは、この世が無常だと悟り、都市を離れて隠遁生活を送ったり、旅に生涯を費やし、地位や名誉や金銭に固執することなく生きた人々だといえる。

芭蕉は、そうした古人たちに続き、住み慣れた深川の庵を去り、命を落とすことさえ覚悟して陸奥を巡る旅へと出発する。
その旅は、「古人」の旅を「個人」として再体験することに他ならない。
それぞれの旅は「流行」とともに消え去ってしまうが、旅の体験は古人から芭蕉へ、芭蕉から『おくのほそ道』の読者へと連綿と継続し、「不易」の相にあると考えることもできる。

「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という一節は、まさに、芭蕉が個人として、旅に死せる多くの古人の跡を継ぎ、「今」という時の中で旅を生き直すことを告げている。

そして、それに続く部分では、くねくねとうねりながらとどめなく続き、漢字表現を含みながらも、ひらがなによる和文調の文になっていく。

その中で、時間の経過について見ていくと、一つの文(あるいは二つの文)であるにもかかわらず、数年の時が含まれている。

「いづれの年よりか」、「去年の秋」、「やや年も暮」、「春立てる(空想)」、「松島の月(空想、秋の季語?)」、「ひなの家(3月)」。
これだけの時間が経過し、空想する季節との関係で、前後関係も入れ替わる。
年の暮れに春の旅立ちを思い描き、そこから春になる前のある時点で、秋を思わせるであろう松島の月に心誘われるが、それがいつとはわからない。
最後に、弥生(3月)のひな祭りに触れられるが、俳句の中に置かれているために、地の文との関係がわかりにくい。

昨年の秋からでも半年ほどは経っているし、「いづれの年よりか」を含めれば数年の間の出来事が、明確な区切りもないままに、つらつらと語られる。
そのことが何を意味するのだろう?

時計によって測定される客観的な時間に従うのであれば、これほど曖昧な書き方をすることはない。
としたら、この記述は、別の時間意識に基づいているに違いない。

その別の時間意識とは、心の中の時間だと考えたい。
楽しい時にはあっという間に過ぎ、退屈な時は長いと感じられる。客観的な基準があるのではなく、一人一人が「今」感じている時間といってもいいだろう。

そうした時間は、始めるがあるわけでも、終わりがあるわけでもなく、「今」という漠然とした時間帯を占めている。
客観的な時間意識に従って考えると、「今」は瞬間と見なされる。その「今」は、「今」と言った瞬間にすでに存在せず、過去になってしまう。そのように考えると、人間は「今」を一瞬しか生きられないし、決して「今」を捉えることはできない。
反対に、内的な時間意識に従えば、私たちは「今」しか生きることがない。私たちが生きている限り、「今」なのだ。死を迎えるまで、「今」が続く。その意味で、「私」という個人にとって、「今」は永遠なのだ。

「予もいづれの年よりか」から始まる文は、「予」にとっての「今」を捉え、その文を執筆している芭蕉の心の動きをたどっていると考えてもいいだろう。
そこには旅立ち前の数年が凝縮し、こう言ってよければ、「流行」した時が「不易」の状態で心を占めている。

古人から「予」への移行は、漢文脈では、歌枕の地を実際に訪れるように、過去の伝統に新しい一筆を付け加えることを意味する。
和文脈では、過ぎ去った時間を「今」思い起こし、様々な過去の事象を「予」の心の事象として書き記す。

この二つの部分からなる序文は、「不易流行」を柱とする『おくのほそ道』の世界を旅するために通り抜ける関(せき)の役割を果たしている。

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