ラ・フォンテーヌ 「死と不幸な人」と「死と木こり」 La Fontaine « La Mort et le malheureux »  « La Mort et le bûcheron » 死とどのように向き合うのか 1/3

 フランス語では人間のことをmortel(死すべき者)といい、死なない存在である神をimmortal(不死のもの)という。その言葉が示すように、人間は必ず死ぬ。人間は生まれた時から死に向かって進んでいくのであり、生きることは死への行進だと言ったりすることもある。

それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、私たちは死を恐れ、死を避けようとする。長寿を祝い、現代であれば、科学の力によって老化を防ぎ、極端な場合には、あるアメリカ人のように不死になることを試みようとする。災害で多くの人命が失われれば、悲しみ涙を流す。
死は何としても避けるべきもの。そうした認識はごく普通のことだ。

ただし、安楽死に対しては、意見が分かれるかもしれない。一方には、終末期の苦痛を和らげるためであれば、死を早めることは認められるという意見がある。他方には、生きることに手をつくすべきであり、死を助けることは殺人になると考える人々もいる。
論理的にどちらが正しいということはないのだが、世界で死の幇助が認められている国は現状では10未満であり、死に手を貸すことは違法という認識が大多数を占めているといっていいだろう。

ヨーロッパにおける死に対する思想を歴史的に振り返ると、大きくわけで3つの考えを指摘することができる。16世紀の思想家、ミッシェル・ド・モンテーニュは『エセー』第二巻三十七章「子供が父親に似ることについて」と題された章の中で、その3つを次のような言葉で説明した。

A. 命のあることが第一

古代ローマの政治家マエケナス(芸術家の支援者メセナの語源となった人物)の言葉を引用し、命あることが第一という思想を取り上げる。

Debilem facito manu,       手を損ね、私を不具にしろ
Debilem pede, coxa,       足を損ね、腰を損ね、私を不具にしろ
Lubricos quate dentis      歯を揺すり、ぐらぐらにしろ
Vita dum superest, bene est.   命が残っている限り、それでいい。

B. 死を恐れるな — ストア派的思想

スペイン出身のラテン語詩人マルティアリスの「エピグラム」からの引用。

Summum nec metuas diem nec optes  最後の日(死を迎える日)を恐れても、望んでもならない。

この言葉は、モンテーニュの解釈によれば、様々な病気に対して立派な態度を保ち、それらを軽視し、冷静な態度で耐えるようにと厳密かつ厳格に命じる教え、ということになる。
死の恐怖にとらわれない精神を持ち、死を前にしたとしても冷静に振る舞うべきという思想は、人間に降りかかる災難や苦悩を克服するため、自制心や忍耐力の重要性を説いたストア派の哲学に基づいている。

C. 自然のまま — エピクロス派的思想

3つ目の思考として、モンテーニュは、病気や死のもたらす苦痛に対して、自然のままに受け入れることを挙げる。
苦しければ、たとえそれが弱々しい態度に見えたとしても、声を出して叫べばいい。というのも、嘆きやため息、すすり泣き、心臓の動悸、顔色蒼白などは、「自然(Nature)」が私たちの手の届かないところに置いたもの。だから無理に取り繕う必要はない。
大切なことは、見かけ(paraître)ではなく、そうであること(être)なのだ。

そんな風に話を進めながら、モンテーニュはエピクロスの言葉を引用する。

Pugiles etiamquum feriunt in jactandis coestibus, ingemiscunt, quia profundenda voce omne corpus intenditur, venitque plaga vehementior

ボクサーは相手を打つ時、声を上げる。なぜなら、声を出すと体全体が緊張し、より強い一撃になるからだ。

エピクロス派はしばしば快楽主義といわれ、欲望のままに快楽を追求することを正当化する思想だと見なされることがある。だが、その根本にあるのは「アタラクシア(心の平静)」を追求することだった。その際に最も重要になることは、「自然」に従うこと。
無理をしても「見かけ」にしかならない。「自然」に従うことで、「そうであること(être)」が保たれ、心が不動であることできる。それが「アタラクシア」の状態なのだ。

モンテーニュはエピクロス派的死生観を支持するのだが、現代の私たちは、生きていればそれが最もいいことだと考える傾向にあるかもしれない。例えば、意識が回復せず、ベッドに横たわったままの状態であるとしても、命が大切だと考える人々が数多くいる。
また、ストア派的に、死を前にしても冷静に対処すべきだと考える人もいる。大きな災害の際に、悲しみに打ちひしがれるのではなく、理性的な行動をする人々を賞賛することも多い。

以上にあげた3つの姿勢の他に、ヨーロッパ中世のキリスト教世界においては、「メメント・モリ(死を想え)」という思想が大きな役割を果たした。
死を常に意識することで、現世の栄誉、快楽が空虚で空しいものであることを心に刻み、来世へ思いを馳せることを促す。絵画の中で、しばしばその言葉はドクロによって表現された。
常に死に直面する厳しい世界においては、この世に執着しないことが救いとなったに違いない。


ジャン・ド・ラ・フォンテーヌが17世紀の半ばを過ぎた頃、イソップの寓話「老人と死」を取り上げ、韻文詩で語り直そうとした時、死を前にした人間の様々な思いを頭に思い描いていたことは間違いない。
その中で、彼は、イソップの一つの寓話を原型にしながら、「死と不幸な男(La Mort et le Malheureux)」と「死と木こり(La Mort et le Bûcheron)」という二つの寓話を創作した。

なぜ一つではなく、二つなのか? 
それらの違いを探ることで、ラ・フォンテーヌにおける死に関する思考を明らかにすることは、大変に興味深い。

ここではまず、ラ・フォンテーヌの時代にフランス語の散文で翻訳された「老人と死(Le vieillard et la Mort )」を読んでみよう。

Un pauvre homme, chargé d’années, coupe du bois dans une forêt et l’emporte sur ses épaules. Après avoir cheminé longtemps, avec grand travail, enfin le cœur et les forces lui manquant, il jette son fardeau par terre, et las d’une vie si malheureuse, souhaite et appelle cent fois la Mort. La Mort vient et lui demande ce qu’il veut d’elle. Le Vieillard épouvanté : « Je veux, dit-il, que tu m’aides à me charger.»

哀れな男が、年齢という重荷を背負いながら、森で木を切り、背中に乗せて運んでいる。長い間歩いた後、大変に苦労したので、最後には気力も体力もなくなり、重荷を地面に放り投げる。そして、こんなに不幸な生活に疲れ果ててしまい、死神を願い、百度も呼びかける。死神がやって来て、何をして欲しいのか尋ねる。老人は、恐くなり、こう言う。「荷物を背負うのを手伝って欲しいのです。」

あなたはこの寓話をどのように解釈するだろうか?

この翻訳の訳者であるオリヴィエ・パトリュ(Olivier Patru)は、2つ解釈を提示する。(「オランドへの手紙」Lettres à Olinde, 1659.)

a. 人間は命を何よりも愛する。

どんなに辛いことがあろうと、人間は生きていたいものだというイソップ寓話の教訓は、1610年にイサク・ニコラ・ネヴレ(Isaac-Nicolas Névelet )が出版したフランス語訳では、そのまま翻訳されていた。

Cette fable montre que tout homme aime la vie, même s’il est malheureux et pauvre.

この寓話が示すのは、どんな人間も命を愛すること、たとえ不幸で貧しいとしても。

b. 人間はその場その場で考えを変える

私たちの感情(nos passions)は風のように変わりやすく、ある時は私たちをある方向に運ぶが、別の時には別の方向に運ぶ。
辛いことが重なると死を望む。それは「絶望の声」。しかし、死が現れると、急に考えを変え、辛いことが何でもないと思える。それは「恐怖の声」。

命が何よりも大事というaの解釈は、先に見たマエケナスの言葉と通じる。それに対して、bの解釈だと、死とは直接関係なくなり、人間はその場その場で都合のよいことを望むという快楽主義的な理解になる。その意味では、多少エピクロス派的だともいえるかもしれない。

では、ラ・フォンテーヌはこの寓話にどのような解釈を施し、二つの寓話を作ったのだろう? 

彼の解説によれば、「死と不幸な男」は、物事を一般化(général)したのだが、そのために、イソップの寓話の中にある「最も美しい特色の一つ(un des plus beaux traits)」を逃してしまったという。
他方、イソップ寓話に近づき、古代人の例に従おうとしたのが、「死と木こり」だという。

そうしたラ・フォンテーヌの言葉を理解するためにも、最初に「死と木こり」を読んでみよう。(2/3に続く。)

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