ラ・フォンテーヌ 「死と不幸な人」と「死と木こり」 La Fontaine « La Mort et le malheureux »  « La Mort et le bûcheron » 死とどのように向き合うのか 2/3

「死と木こり」(La Mort et le Bûcheron)は、題名も含め、イソップの「老人と死神」を土台としていることがはっきりとわかる語り方をされている。

Un pauvre bûcheron, tout couvert de ramée,
Sous le faix du fagot aussi bien que des ans
Gémissant et courbé, marchait à pas pesants,
Et tâchait de gagner sa chaumine enfumée.
Enfin, n’en pouvant plus d’effort et de douleur,
Il met bas son fagot, il songe à son malheur.
Quel plaisir a-t-il eu depuis qu’il est au monde ?
En est-il un plus pauvre en la machine ronde ?

哀れな木こりが、木の葉にすっかりおおわれ、
薪の重荷と、年齢の重荷の下、
呻きながら、体を曲げ、重い足取りで歩いていた。
そして、必死に、煙で汚れた茅葺きの小さな家に辿り着こうとしていた。
最後になり、もはやこれ以上の努力も苦痛も耐えきれなくなり、
薪を地面に置き、自分の不幸をぼんやりと考える。
これまでどんな楽しいことがあっただろう、この世に生まれて以来?
もっと不幸な人間が一人くらいいるのだろうか、この丸い機械(地球)の中に?

この8行の詩句はすべて12音節で構成され、区切れ(césure)は6/6。
その上で、最初の四行の韻は、ABBAと並ぶ抱擁韻、次の4行はCCDDと並ぶ平韻。その違いが、内容の違いを示す。

前半では、哀れな木こり(un pauvre bûcheron)の置かれた状況が描かれ、動詞は半過去で活用されている。

それに対して、後半は、動詞が現在で活用され、木こりの様子が今のこととして読者の目の前に浮かび上がる語り方がされる。
とりわけ、Quel plaisirから始まる最後の2行は、自由間接話法と呼ばれる手法が用いられ、作中人物である木こりの心の声が生き生きと読者に伝わってくる。
「これまで生きてきて、何か楽しいことがあっただろうか? 自分よりも不幸な人間がいるのだろうか?」
こうした言葉は、木こりの独り言だ。

次に詩としての側面を見ていこう。
ラ・フォンテーヌの詩句は現在でも高い評価を受けているが、その特質はこの8行の中でも十分に発揮されている。

木こりの疲れを描くためには、木の葉(ramée)や薪(fagot)という言葉が使われる。
さらに、もう年老いていることと仕事の疲れを重ねるために、重荷(faix)という言葉を中心にして、薪(fagot)と年齢(ans)が連結される。
その上で、ansとpesantsが韻を踏み、年齢(ans)が足取りの重さ(pas pesants)をもたらすことも示される。
さらに、木こりだけではなく、彼の住む小さな家も煙で汚れている(enfumée)のだが、その単語に含まれる [ f ]の音がfaix、fagotsと響き合う。

後半になると、douleur(苦痛)とmalheur(不幸)が韻を踏み、苦しみが不幸の原因であることが音によって示される。
最後に出てくる丸い機械(la machine ronde)が地球であることは、le monde(世界)と韻を踏むことですぐに理解できる仕掛けが施されている。
あえて円形という形状にスポットが当てられていることは、永遠に不幸の中で回り続けなければならないという絶望感を暗示する。

最後に注目したいのは、木こりがこの世で不幸(malheur)を痛感し、死(mort)を思っていることが、[ m ]の音によって通奏低音として流れていること。8行の詩句は [ m ]の音で満たされている。
ramé, gémissant, marchait, chaumine, enfumée, met bas, malheur, monde, machine.
これらの単語は死につながる不幸なイメージを連想させる。

ただし、全体的に暗さはなく、むしろ生き生きとした雰囲気がある。それは、6/6の区切れの詩句が整然と並ぶ快適さから来ている。


次の詩句でも、最初は木こりの心の声が続く。そして、それが終わるとすぐに死(la Mort)が姿を現す。

Point de pain quelquefois, et jamais de repos.
Sa femme, ses enfants, les soldats, les impôts,
          Le créancier et la corvée
Lui font d’un malheureux la peinture achevée.
Il appelle la Mort ; elle vient sans tarder,
          Lui demande ce qu’il faut faire.
          C’est, dit-il, afin de m’aider
A recharger ce bois ; tu ne tarderas guère.

時にはパンもない。休息など決してない。
妻、子供たち、兵士たち、税金
  借金取り、年貢が
彼には 不幸な男の完結した絵画になる。
彼は死を呼ぶ。死がすぐにやってきて、
  彼に尋ねる、何をしないといけないのかと。
  それは、と彼は言う、手伝うためだ、
この薪をもう一度背負うのを。ぐずぐずするな。

この8行の詩句では、8音節の詩句が挿入され、スピード感が増す。そして、その勢いに乗り、物語は最後まで一気に進む。

前半の4行のうち、最初の3行は、自由間接話法により、木こりの思いが綴られる。その韻はAA/BBの平韻であり、どんな楽しいことがあったのかと自問した言葉と同じ韻の繋がりが用いられ、前の詩句と続いていることが韻の形式によって示されている。

様々な思いが次々に浮かんでくる様子は、妻(sa femme)から始まる詩句が、3/3/3/3とテンポよく進み、次の行が4/4で区切れる8音の短い詩句へと変化することで、心地よいスピード感を持ったリズムによって告げられる。

その一方で内容は、苦しい生活の原因を列挙したもの。しかも、2行目の妻、子供たち(ses enfants)、兵士たち(les soldats)、税金(les impôts)、3行目の借金取り(le créancier )と年貢(la corvée)、それらすべては4行目の動詞fontの主語であり、その3行は句またぎ(enjambement)になっている。
その長さは、苦しみが長い間続くことの表現だといえる。

最後に、苦しみの原因が、完結した絵画(la peinture achevée)として定着される。その絵は、貧しい人々や戦争の悲惨を描いた17世紀の画家ジャック・カロの絵画を思わせなくもない。

後半になり、死が登場する場面では、8音節の詩句が2つ挿入されるだけではなく、死の登場を告げる詩句のテンポのよさと、tarder(遅れる)という言葉が否定されることで、意味的にも全てが素早く展開する。

その場面が木こりの状況説明とは異なることは、CDCD(tarder faire aider guère )と交差韻になることで示される。

死が登場してからの展開は、さらにテンポを速める。

Il appelle la Mort (6) / elle vient sans tarder (6)

木こりが死を呼ぶと、間髪を入れず死が姿を現す。ここでは、二つの文の論理的な関係を示す接続詞が使われない接続詞省略(asyndète)という修辞技法が使われ、6/6と区切れる詩句の中で、主語が木こり(il)から死(la Mort)へと変化し、呼ぶことと現れることの関係が実にスムーズに展開する。
そのために、本当に瞬間的な出来事であるという印象を与える。

しかも、ラ・フォンテーヌの木こりに、死を恐れる様子はない。
むしろ、死の方が雇い主に問いかけるかのように、何をしないといけないのか(ce qu’il faut faire)と尋ね、木こりが主人であるかのように、薪をもう一度背負う(recherger ce bois)のを手伝う(m’aider)ようにと要求する。その上、遅れるな(tu ne tardras pas)と、命令さえする。

ラ・フォンテーヌよりも前にイソップの寓話を翻訳したネヴレ(Névelet)やパトリュ(Patru)は、この場面で、木こりが恐れている(épouvanté)という言葉を使っていた。
そのことを知ると、ラ・フォンテーヌの寓話における木こりの姿勢が際立っていることがはっきりする。死を恐れるどころか、自分を助けるようにと死に要求する。
そして、木こりと死とのそうした関係が、次に続く教訓にも反映することになる。


ラ・フォンテーヌの考えでは、寓話は肉体と魂という二つの部分から成り立ち、肉体にあたるのが物語の展開部、魂にあたるのが教訓。従って、教訓を語る以下の詩句は、寓話「死と木こり」の魂ということになる。

   Le trépas vient tout guérir ;
          Mais ne bougeons d’où nous sommes :
          Plutôt souffrir que mourir,
          C’est la devise des hommes.

死は全てを回復させにやって来る。
しかし、我々は動かないようにしよう、今いるところから。
苦しむ方がいい、死ぬよりも。
それが人間たちの標語だ。

この教訓を語る詩句は、すべて7音節から成る。そのことは、形の上でも、ラ・フォンテーヌが教訓にスポットライトを当てようとしたことを示している。

一般的にフランス語の詩句は12音節、10音節、8音節と偶数の音節で構成される。奇数音節の詩句は例外であり、それだからこそ、19世紀の詩人ポール・ヴェルレーヌは、奇数の不安定さを音楽性と関連させ、奇数音節の詩句を用いることを提唱したのだった。
(参照:ヴェルレーヌ「詩法」 Verlaine « Art poétique » 何よりも先に音楽を La musique avant toute chose

ラ・フォンテーヌにとっても、詩と音楽の関係は密接なものであり、『寓話集』の「序文」では、「ハーモニーがなければよい詩もない(il n’y a point de bonne poésie sans harmonie)」と述べている。

そのようにしてスポットライトを当てられた教訓は、何を伝えているのだろう?

人間は誰しもが命(la vie)を愛する、ということだろうか?
そうであれば、パトリュやネヴレのイソップ訳に見られる教訓と同じことになる。
« Cette fable montre que tout homme aime la vie, même s’il est malheureux et pauvre. » (Névelet) 
(この寓話が示すのは、たとえ不幸で貧しくても、全ての人間は命を愛するということだ。)
«L’apologue nous fait voir (…) l’amour que les hommes ont communément pour la vie. » (Patru)
(寓話が私たちに見せるのは、(・・・)、人間たちが命に対して共通して持つ愛だ。)

しかし、もしそれだけを伝える教訓であれば、後半の2行だけで足りるはずであり、前半の2行は必要がない。
従って、教訓のポイントは、死ぬ(mourir)よりも苦しむ(souffrir)方がいいという人間の標語(la devise des hommes)には何らかの前提がある、ということになる。

そこで注目したいのが、mourirと韻を踏むguérir(回復させる、病気を治す)という動詞。死(le trépas)がやって来て、全てを治癒させる(tout guérir)。
この言葉は、一般的な考え、つまり死は全てを破壊し無にしてしまうという考えとは正反対であり、もし本当に死が全てを回復させるのであれば、誰もが生きることよりも死ぬことを選ぶだろう。

それにもかかわらず、ラ・フォンテーヌの教訓は、今いる場所から動かないでいよう(nous ne bougeons)と薦める。(ちなみに、17世紀のフランス語では、neだけで否定の意味を持ち、pasなどの付加は不可欠ではなかった。)

そして、生きていることから動かない理由は、もう一つの韻によって示される。その韻とは、sommesとhommes。この二つの言葉は、sとhだけが違い、後は全て同じ。そのことは、私たち人間(les hommes)とは、今ここで生きている(nous sommes)存在だということを暗示している。
逆に言えば、死ねば人間ではなくなる。

このように考えてくると、ラ・フォンテーヌの意図が少しづつ理解できてくる。
たとえ死ねば全てが楽になるとしても、人間とは生きる存在であり、生から死へと移動しない方がいい。動かないことが大切なのだ。
そのことは、死を前にしても、動揺しないことにつながる。

従って、ラ・フォンテーヌの教訓は、単に人間は死よりも生を愛するというのではなく、また、死を望みながらも、実際に死を前にすると逃げてしまうといった安易さを揶揄するのでもない。それとは反対に、死を恐れ不安に思うこともせず、死を望むこともなく、動かずにいることを説く。

死んでしまえば人間ではなくなる。苦しみの中であっても、生きているから人間なのだ。そうした考えに立ち、動かずにいることが、結局は、エピクロス派が追求する「穏やかな快楽(アタラクシア)」につながる。
ここにはラ・フォンテーヌの人間観がはっきりと反映している。


「死と木こり」はイソップの「老人と死神」の物語をほぼ忠実にたどっている。その理由をラ・フォンテーヌはこんな風に説明する。
「私たちは古代人よりも先に進むことはできないだろう。古代人たちが私の分け前として残しておいてくれたのは、彼らにしっかりとついていくという栄誉だけなのだ。」

しかし、こうした言葉の裏には、イソップとは別の教訓を導きだそうとする意図が隠されている。
教訓こそが寓話の魂だとすれば、ラ・フォンテーヌは、イソップが作った肉体に新しい魂を込めたことになる。

こうしたことを頭に入れた上で、次に、「老人と死神」のもう一つの語り直しである「死と不幸な男(La Mort et le malheureux)」を読んでみよう。(3/3に続く)

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