ヴェルレーヌ「詩法」 Verlaine « Art poétique » 何よりも先に音楽を La musique avant toute chose

詩は大きく分けると、歴史や神話を語る叙事詩と、個人の思いや感情を吐露する抒情詩に分類される。
19世紀のフランスでは、抒情詩が詩の代表と考えられるようになり、それに伴い音楽性がそれまで以上に重視されるようになった。
とりわけ、19世紀後半の詩人達、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメたちの詩句は音楽的である。

ポール・ヴェルレーヌの「詩法」« Art poétique »は、「何よりも先に、音楽を」という詩句で始まり、抒情詩=音楽の流れを見事に表現している。

実際、ヴェルレーヌ自身大変に音楽的な詩人であり、彼の詩は数多くの作曲家によって曲を付けられ、現在でもしばしば歌われている。
https://bohemegalante.com/2019/04/13/verlaine-musique-philippe-jaroussky/

「詩法」は9詩節で構成されているが、最初の4つの詩節では、音楽的な詩の形体、意味、イメージ、効果が順番に歌われる。

第一詩節は、詩句を音楽的にするためのアドヴァイス。音節数を奇数にすることがポイントになる。

De la musique avant toute chose,
Et pour cela préfère l’Impair
Plus vague et plus soluble dans l’air,
Sans rien en lui qui pèse ou qui pose.

何よりも先に、音楽を。
そのために、奇数を好むこと。
おぼろげで、大気に溶け込みやすく、
奇数の中には、重さも、固定した感じもない。

なぜ奇数音節なのか?
フランスの韻文詩の基本的な音節は偶数であり、8音節、10音節、12音節が大半を占める。
その中でも12音節の詩句はアレクサンドランと呼ばれ、リズム的にも意味的にも6音節目に句切れ(césure)が置かれる。
1ー2ー3−4ー5ー6/7ー8ー9ー10ー11ー12
6/6のこのリズムは左右対称で、がっちりと固定され、安定感がある。

ヴェルレーヌが奇数音節の詩句を推奨するのは、偶数の安定感を揺るがし、不安定さを生み出すためである。不安定にすることで、詩句はおぼろげになり、大気の中に溶け込むように感じられる。
この感覚を生み出すことこそ、詩句を音楽的にする目的である。

では、なぜ音楽なのか。
その理由を知るためには、ボードレールが1861年に出版したワグナー論を参照する必要がある。
ボードレールによれば、言語や絵画や音楽は、感情や思想などを、それぞれに固有な方法で翻訳する(traduire)。その際、必ず何かしら欠けたものがあるという。
その欠けたものを補うのは、創作者ではなく、受信者の側の想像力である。

感情を伝えるとき、言葉を使えばはっきりと伝えやすいが、音楽ではその割合は少なくなる。ボードレール的に言えば、感情の漠然とした部分(la partie indéfinie du sentiment)を表現するには、音楽の方が向いてる。言葉はあまりに明確(positif)すぎる。
音楽は暗示的(suggestif)であり、それだからこそ、聞く人の想像力が活発に働くことになる。

言語と音楽の関係を、詩の言語に応用すると、次の様に考えられる。
言葉は、音と意味から成り立つ。音を音楽的にすれば、暗示する力が強くなり、読者の想像力を活性化できる。読者が作品に参加する度合いを強くすることができるのである。

ヴェルレーヌは、奇数は重くないし、固定した感じもないという。そこで使われている動詞は、peserとposer。
« Qui pèse ou qui pose »
pの音が反復され、アリテラシオン(子音反復)になっている。
このPの音は、ボードレールが、「言葉はあまりに明確すぎる(la parole, trop positive)」という表現の中で使った« positive »のpと響き合っている。

奇数の詩句で、音楽性を生み出す。そのことは、「詩法」でも実践されている。
実際、一行の詩句は9音節。さらに、4行の詩句で構成される詩節が9ある。

ちなみに、日本語の和歌や俳句では、万葉の時代から5/7/5が基本となっている。日本の詩歌が音楽的なのは、そのためなのだろうか。

第二詩節では、意味が話題になる。

Il faut aussi que tu n’ailles point
Choisir tes mots sans quelque méprise :
Rien de plus cher que la chanson grise
Où l’Indécis au Précis se joint.

すべきことは、
言葉を選ぶ時、思い違いの余地を残すこと。
何よりも愛しいのは、灰色の歌。
曖昧さと正確さが一つになる。

暗示の力が大きければ、それだけ読者の想像力を強く働かせることができる。その考え方に従えば、意味の次元でも、曖昧さを残した方がいい。
しかし、意味不明では、読者は参加の努力を止めてしまう。
両者のバランスが必要なのだ。

誤解(méprise)を避けないといけないと普通は考えられるが、ヴェルレーヌは思い違いを生む言葉を選択するように勧める。
意味が明確であることは理解を助ける一方、曖昧であることは暗示力を強くする。その両面が必要であり、その融合した詩を、灰色の歌(la chanson grise)と呼ぶ。

詩は歌(la chanson)であり、その歌は原色ではなく、曖昧な色であることが望ましい。

第三詩節では、音楽的な詩の喚起する映像が展示される。

C’est des beaux yeux derrière des voiles,
C’est le grand jour tremblant de midi,
C’est, par un ciel d’automne attiédi,
Le bleu fouillis des claires étoiles !

ヴェールの後ろの美しい目。
正午の素晴らしい明るさがゆらめく。
生暖かい秋の空に浮かぶ
明るい星々の青い寄せ集め。

詩の歴史には、「詩は絵画のように」ut pictura poiesisという伝統があった。
古代ローマの詩人ホラティウスの「詩法」から来た表現で、詩が絵画と同じような美しいイメージを描く芸術だという考え方の基礎になっている。

ヴェルレーヌもその伝統に基づき、3つの絵画を描く。
その絵画は、明確な輪郭線で物の形がはっきりと描かれた古典主義的な絵画ではなく、印象派的なゆらぎを含んでいる。

一枚目の絵は、美しい目のみに言及される。その目は、ヴェールの後ろに隠されている。オリエントの女性たちのように。

Bellini, Saint Marc prêchant à Alexandrie (détail)

二枚目は、正午の素晴らしい日差し。しかし、垂直に風景を照らすのではなく、揺らめいている。この揺らぎは、印象派の絵画を思わせる。

テオドール・ルソーとクロード・モネの風景画を見比べてみよう。

Théodore Rousseau, Les Chênes d’Apremont Théodore Rousseau,
Claude Monet, Meules, milieu du jour

テオドール・ルソーの正午の日差しは垂直に降り注ぎ、カシの木の陰が小さく固まっている。
モネの昼の日差しはおぼろげで、揺らぎが感じられる。
ヴェルレーヌの詩句の日差しには揺らぎ(tremblant)があり、印象派の絵画を思わせる。
「詩法」の書かれたとされる1874年は、第一回印象派絵画展が開催された年。ヴェルレーヌの詩と印象派の絵画に類縁性があっても、不思議ではない。

3つめの描写は、秋の空と星々。空には、生暖かいという形容がされ、曖昧な感じがする。

それ以上に問題なのは、矛盾するイメージが重ねられることで、絵画としての像を結ばないことである。
青い色は空を思わせるが、その明るい空に星があっても、明るくは見えない。
その上、青いのは星の寄せ集め(fouillis)。星々が雑然と積み重なっている映像を想像するのは難しい。
そのような言葉を重ねることで、ヴェルレーヌは、この詩句に強い暗示力を与えている。読者はより強い参加を促され、詩句から何かを読み取ろうと想像を巡らせる。

第四詩節は、音楽的な詩句の効果が謳われる。

Car nous voulons la Nuance encor,
Pas la Couleur, rien que la nuance !
Oh ! la nuance seule fiance
Le rêve au rêve et la flûte au cor !

なぜなら、我々が望むのは、さらなるニュアンス。
色彩ではなく、ニュアンスのみ。
おお! ニュアンスのみが結び合わせる、
夢と夢を、フルートとホルンを。

奇数の音節、意味の揺らぎ、おぼろげな映像、全てがニュアンスを生み出すことにつながる。

ヴェルレーヌは、一つの詩節の中で、ニュアンスという言葉を3回繰り返し、しかも最初の単語の先頭は大文字にし、固有名詞のような役割を与える。
さらに、la Nuanceをla Couleurと対比させ、原色ではなく、微妙な色合いを詩句に求める。

そのニュアンスだけが、夢と夢を一つにするという。
夢という言葉を重ね、それらを一つにするということ自体、明確な意味を作り出さない。むしろ、誤解や思い違いを生み出す表現といってもいいだろう。「言葉を選ぶ時、思い違いの余地を残すこと」の実践である。

フルートとホルンに関しても、同じことがいえる。しかし、こちらは楽器であり、音楽をもう一度思い出させる。

4つの詩節を通して詩の創作法が示され、音楽的な詩句をどのように作るのかが解説されてきた。その最後に至り、フルートとホルンの音楽が流れることになる。

第五詩節から第7詩節では、内容と形式において、避けなければならないものが示される。

第五詩節はランボーへの思いだろうか。

Fuis du plus loin la Pointe assassine,
L’Esprit cruel et le Rire impur,
Qui font pleurer les yeux de l’Azur,
Et tout cet ail de basse cuisine !

できる限り遠くに逃れよ。人を傷つける尖った言葉から、
残酷な精神から、不純な笑いから。
それらは、「紺碧」の目を涙ぐませる。
逃れよ、不誠実な行為のニンニク全てから。

紺碧(l’Azur)は、詩の象徴である。その目から涙を流させるものとして、人を殺してしまうほど激しい皮肉、残酷さ、不純な笑いが列挙される。
読み込みすぎかもしれないが、こうした言葉からは、この詩句を書いたときに一緒にいたアルチュール・ランボーに対する思いが込められているようにも感じられる。
ランボーの詩はときに激しい攻撃性に溢れ、ヴェルレーヌを涙させたかもしれない。『地獄の季節』の「地獄の夫」のひどい仕打ちは、妻役のヴェルレーヌを殺す(assassiner)に十分なほどだっただろう。

ヴェルレーヌは、そうした行為をbasse couisine(不誠実な行為)という言葉で表し、そのニンニクから逃れよと言う。

第六詩節と第七詩節で問題となるのは、韻文詩の中心を占める韻である。

Prends l’éloquence et tords-lui son cou !
Tu feras bien, en train d’énergie,
De rendre un peu la Rime assagie.
Si l’on n’y veille, elle ira jusqu’où ?

Ô qui dira les torts de la Rime ?
Quel enfant sourd ou quel nègre fou
Nous a forgé ce bijou d’un sou
Qui sonne creux et faux sous la lime ?

雄弁術を取り上げ、首をひねれ!
エネルギーに満ちあふれ、為すべきは、
「韻」を少しだけでも大人しくさせること。
見張らっていないと、どこまで行ってしまうやら。

おお、誰が韻の欠点を言いつのるのか。
耳の聞こえないどんな子どもが、どんな気のおかしい奴が、
我々に、安っぽい宝石を拵えたのか。
彫琢のヤスリをかけるとき、空っぽで、調子外れの音がする宝石を。

雄弁と言われるのは、叙事詩のことだろう。叙事詩は雄弁に神話や歴史を語り、何百行、何千行に及ぶ。
それに対して、ボードレールは、詩とは短いものでなければならいと言い放った。ヴィクトル・ユゴーの『諸世紀の伝説』のようなモニュメントではなく、一気に読み終われる長さの作品。
ヴェルレーヌは、ボードレールに従った。

次に、7行に渡り、韻への批判が加えられる。
フランス詩の基本は、音節の数と韻であり、テオドール・バンヴィルが1870年に出版した『フランス小詩法』Le petit traité de versificationでも、韻の重要性が論じられていた。

韻文詩である限り、韻を踏む必要はある。
しかし、韻を強調しすぎると、詩句が硬直化して、音楽性が失われる。こうした考えを、1850年頃、ジェラール・ド・ネルヴァルは提出していた。

ヴェルレーヌは、韻をでっちあげた子どもについて、耳が聞こえないという形容をしている。韻は音と無関係であり、音楽性に反すると言いたいのだろう。だからこそ、気が変な奴という言葉が続く。
そんな人間たちが作るのは、安っぽい宝石にすぎない。
その宝石を彫琢しても、虚ろで調子外れの音しか響かない。

ヴェルレーヌは韻の代わりに何が必要か記していないが、ネルヴァルは母音反復(assonance)を、詩句の音楽性の鍵とみなした。
それ以外にも、子音反復(alitération)、冒頭の言葉の反復(anaphore)など、詩句を音楽的にする方法が考えられる。
https://bohemegalante.com/2019/05/25/lecture-poeme-francais/3/

第八詩節と第九詩節では、「詩法」に則って書かれた詩句がどのようなものであるのかが示される。

De la musique encore et toujours !
Que ton vers soit la chose envolée
Qu’on sent qui fuit d’une âme en allée
Vers d’autres cieux à d’autres amours.

Que ton vers soit la bonne aventure
Éparse au vent crispé du matin
Qui va fleurant la menthe et le thym…
Et tout le reste est littérature.

さらに、そして常に、音楽を!
君の詩句は、飛翔するものでなければならない。
魂から逃れていくのを感じられるもの、
別の空に向け、別の愛に歩み出した魂から。

君の詩句は、よき冒険でなければならない。
硬直した朝の風にばらまかれた冒険、
風は、ミントやタイムの花を開かせる。。。
そして、残り全ては、ムダなおしゃべりにすぎない。

第八詩節の最初の詩句は、「詩法」の最初の詩句の反復であり、音楽が何よりも重要であると繰り返される。
第九詩節の最後の詩句では、音楽的な詩句以外はたんなる無駄話であり、価値がないと言われる。littératureという言葉は、文学という意味ではなく、ムダなおしゃべりを意味する。

その二つの行に囲まれた6行では、二度、君の詩句(ton vers)という言葉があり、音楽的な詩句がどのようなものかが示される。

音楽的な詩句は、魂を高揚させ、地上から天上へと飛翔させる。
その音楽は、âme, allée, amoursと続く、a音のアソナンスで生み出される。
autresが二つ続くことで、oのアソナンスが生まれると同時に、別の場所、別の愛へという移動感覚も強調されている。
魂は逃れ、飛翔し、我を忘れる高揚感に包まれる。

その飛翔は、冒険でもある。
その冒険は朝の風に乗って始まるが、その風は引きつり硬直している。恍惚感の中で、失墜するイカロスのような危険があることの暗示だろう。

しかし、その風はミントやタイムを花開かせる。音楽的な詩句は香りを発するのである。

ワグナー論の中で、ボードレールは、共感覚についても言及していた。音は色彩を連想させ、色彩はメロディーを連想させ、音と色彩は思考を翻訳する(traduire)。このような五感の通底する共感覚の理論を展開した後で、自身の詩「コレスポンダンス」の一節を引用した。
https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/

ヴェルレーヌは、「詩法」の最後に香りを思い出させることで、詩における共感覚の意義を暗示したのである。

Edouard Manet, Le Joueur de fifre

「詩法」は、詩における音楽の重要性を歌った。その音楽に誘われて、詩の読者は「よき冒険」へと旅立つ。目的地は、「紺碧(l’Azur)」。
「詩法」は、ヴェルレーヌ的「旅への誘い(invitation au voyage)」なのだ。



インターネット上では、様々な情報が飛び交う。興味深いものもあるが、一般的には用心しないといけないことが多い。

ある訳では、詩句を音楽的にする最も重要な点である「奇数(impair)」が、「形なきもの」と訳されていたりする。これでは、ヴェルレーヌの詩法がまったく伝わらない。

幸い、掘口大學の訳では、「奇数脚」となっている。そして、日本語の音楽性がなによりもすばらしい。
とりわけ、「かくてそは」の繰り返し。フランス詩法で言えば、アナフォール(首句反復)。

音調を先ず第一に、
それゆえに「奇数脚」を好め
おぼろげに空気に溶けて
何ものもとどこおるなき。

(中略)

かくてそは面紗(ヴェール)の陰の明眸(めいぼう)なり、
かくてそは正午(まひる)わななく光なり、
かくてそはぬくもり消えぬ秋空に
ちらばる青き星かげなり!

詩を締めくくる最後の二つの詩節の訳語も美しい。

音調を、なおも、いつも?
君が詩句に翼あらしめ
魂の奥所(おくが)より出で、別の空、別の愛へと
天翔(あまが)ける歌らしめよ。

さわやかなる朝風の香をゆする
薄荷(はっか)とも百里香(ひゃくりこう)とも身にしみてかなしきものと、
御身(おんみ)が歌をなしたまえ、
その他はすべて記録のみ。

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