
マラルメは「墓」の二つの3行詩を通して、ヴェルレーヌがどのような詩人であったのかを示し、最期に彼の死がどのような意味を持つのかを密かに伝えようとした。
その際、最初に、« Qui cherche (…) Verlaine ? »(誰がヴェルレーヌを探しているのか?)と問いかけることから始め、ヴェルレーヌを探す誰か、つまり彼の死後にも現れるであろう読者の存在を浮かび上がらせる。
そして、その読者に向けて、ヴェルレーヌ像をいくつかの視点から浮かび上がらせていく。
Qui cherche, parcourant le solitaire bond
Tantôt extérieur de notre vagabond —
Verlaine ? Il est caché parmi l’herbe, Verlaine
À ne surprendre que naïvement d’accord
La lèvre sans y boire ou tarir son haleine
Un peu profond ruisseau calomnié la mort.
ここで使われている単語や構文は、マラルメ的な技巧に富んだ詩句というよりも、ヴェルレーヌの無垢な詩句を思わせる。しかし、それらの単語と単語の組み合わせは容易に意味を明かさない。
誰が探すのか、孤独な跳躍を
私たちの放浪者の 外に向かう跳躍を これから辿りつつ —
ヴェルレーヌを? 彼は草の間にいる、ヴェルレーヌは
不意に捉える 無邪気に調和した調子でだけだが
唇を そこで飲むこともせず あるいはその息を涸らすこともない唇を
批難された少し深い小川を 死を。
A. ちぐはくな質問と答え
「誰がヴェルレーヌを探すのか?(Qui cherche Verlaine ?)」という質問に対して、「彼は草の間に隠れている(Il est caché parmi l’herbe.)」という答えは、全くかみあっていない。
しかし、このちぐはくなやり取りを通して、二つの情報が伝えられる。
一つは、ヴェルレーヌの死後も彼を探す人、つまり彼の詩を読もうとする読者がいること。
もう一つは、マラルメはヴェルレーヌがどこにいるか知っていること。そのことは、彼がヴェルレーヌの詩の理解者であることを暗に示している。
その後、2番目の三行詩の中で、ヴェルレールが不意に捉える(surprendre)ものが3つ — 唇(la lèvre)、少し深い小川(un peu profond ruisseau)、死(la mort) — が列挙される。それらは、ヴェルレーヌの未来の読者に向けてマラルメが差し出した指針に他ならない。
B. 未来の読者にとってのヴェルレーヌ
「誰がヴェルレーヌを探すのか?」という問いから浮かび上がる未来の読者は、間もなく(tantôt)、放浪者(le vagabond)ヴェルレーヌの跳躍(le bond)を辿っていく(parcourant)ことになる。
ヴェルレーヌは、パリ、ベルギー、ロンドンに移り住み、フランスに戻ってからも移動を繰り返し、放浪者(vagabond )と呼ばれてもおかしくない詩人。
では、その放浪者の跳躍(le bond)とはなにか?
しかもその跳躍には、孤独な(solitaire)と外的な(extérieur)という形容詞が付けられている。
まず、ごく単純に受け取ると、「ヴェルレーヌは草の中に隠れている」と言われることから考えて、ヴェルレーヌの遺体は墓の中に収められたが、しかし、彼の魂は墓の外に飛び出した(le bond)と解釈することができる。
放浪者ヴェルレーヌは、死後も墓石に閉じ込められることはなく、生前に書いた詩の中で生の儚さや悲しみを託した草花のもとに身を寄せている。
そうした自然な解釈を一歩先に進め、よりマラルメに則した観点からの解釈を提示することもできる。ヴェルレーヌの死の約1ヶ月後に行われたアンケートに、マラルメは次のような回答を寄せた。
「ヴェルレーヌの作品で最もよいところはどこか?」という質問に対して、『叡智』と何かしら関係するもの全てとした後で、次のように続ける。
là, en un instant principal, ayant écho par tout Verlaine, le doigt a été mis sur la touche inouïe qui résonnera solitairement, séculairement.
そこでは、主要な瞬間に、ヴェルレーヌの世界全てを通してこだまが響き、これまで決して聴かれたことのない音を出すキーの上に彼の指が置かれたのです。そして、その音は、これからも、孤独に、何世紀にも渡り響き続けるでしょう。
(ステファン・マラルメ「ヴェルレーヌについて」『プリューム』1896年2月1日)
この一節から、孤独な跳躍(le solitaire bond)という表現でマラルメが何を意図していたのかを推測できる。
ヴェルレーヌは、これまで決して聴かれたことがなかった(inouï)タッチ(touche)を持ち、彼の詩句は他の詩人たちの詩句とは違う音色を奏でている。孤独とは他の詩人とは違うことを意味する。
そのことは、「文学の変遷の中でヴェルレーヌの役割は何か?」という次の質問の回答からも確認できる。
L’antérieur Parnassien eût suffi à une carrière et une renommée ; et, même peut s’isoler, depuis qu’avec sa survivance ont joué, subitement comme seules, des orgues complexes et pures.
前の世代のパルナス派の詩人というだけで、キャリアとしても名声という面でも十分だったに違いない。それにもかかわらず、彼は(そこから離れ)孤立することができている。それが可能になったのは、以前の残滓とともに、複雑で純粋なオルガンが、突然それだけで響いてからだった。
(ステファン・マラルメ「ヴェルレーヌについて」『プリューム』1896年2月1日)
ヴェルレーヌの中には、前の世代の詩の流派であるパルナス派の名残(sa survivance)がまだある。しかし、それにもかかわらず、前の世代の詩とは異なる、複雑で(complexes)純粋な(pures)音がヴェルレーヌの詩句には響いている。そして、それらの音が、それだけで(seules)、突然(subitement)響き始めて以来、ヴェルレーヌは唯一無二の詩人になった。
こうしたマラルメのヴェルレーヌ観を知ると、彼の跳躍が孤立しているだけではなく、前の世代の詩派から外に(extérieur)飛び出したとされることにも納得がいく。
パルナス派を通過して独自の道を歩む放浪の詩人。それが新たな読者に向けて最初に示されたヴェルレーヌ像だといえる。
C. 草の間に隠れるヴェルレーヌ

では、「彼は草の間に隠れている(il est caché parmi l’herbe)」という答えは、どのようなヴェルレーヌ像を提示するのだろう?
第2四行詩を検討した際に、「忘れられたアリエッタ その9」を通して、自然の風景と自分の心を同化させるヴェルレーヌの詩句を見てきた。
Combien, ô voyageur, ce paysage blême
Te mira blême toi-même,
どれほど、旅人よ、この色あせた風景が
お前自身を色あせて映し出したことか、
(参照:ヴェルレーヌ 忘れられたアリエッタ その9 Verlaine « Ariettes oubliées IX » 風景と人の心)
「月の光(Clair de lune)」の冒頭では、魂と風景が結び付けられている。
Votre âme est un paysage choisi
Que vont charmant masques et bergamasques
あなたの魂は、選び抜かれた風景、
それをいつまでも魅力的にする仮面やベルガモの曲や踊り、
(参照:ヴェルレーヌ 「月の光」 Verlaine « Clair de lune » ロココ的世界から印象へ)
「グリーン(Green)」では、木々や葉や果物が心を包み込む。
Voici des fruits, des fleurs, des feuilles et des branches
Et puis voici mon cœur qui ne bat que pour vous.
Ne le déchirez pas avec vos deux mains blanches
Et qu’à vos yeux si beaux l’humble présent soit doux.
見てください。果物や花を、葉や枝を。
それから、わたしの心臓も。あなただけを想い、鼓動しています。
この心を引き裂かないでください、あなたの白い両手で。
あなたの麗しい目に、この慎ましい贈り物が、心地よくありますことを。
(参照:ヴェルレーヌ 「グリーン」 Verlaine « Green » 自然の感性)
「秋の歌(Chanson d’autome)」になると、風に吹かれてあちこちに運ばれる枯葉がヴェルレーヌと一つになる。
Et je m’en vais
Au vent mauvais
Qui m’emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
Feuille morte.
わたしは去る
悪い風に吹かれて
その風が私を運ぶ
あちら、こちらに、
似て
枯葉に
(参照:ヴェルレーヌ 「秋の歌」 Verlaine « Chanson d’automne » 物憂い悲しみ)
ヴェルレーヌとはこうした自然の草花に心情を託する詩人だと、マラルメは将来の読者に対して紹介する。呪われた詩人は、黒い墓石から抜け出し、草の間に潜んでいる、と。
D. ヴェルレーヌが不意に捉える3つの要素 — 唇、小川、死
第2三行詩になると、さらに3つの要素がヴェルレーヌの特色として付け加えられる。
À ne surprendre que naïvement d’accord
La lèvre sans y boire ou tarir son haleine
Un peu profond ruisseau calomnié la mort.
不意に捉えるとしたら 無邪気に調和した調子でだけだが
唇を そこで飲むこともせず あるいはその息を涸らすこともない唇を
批難された少し深い小川を 死を。
不意に捉える(surprendre)という動詞は、ヴェルレーヌの死後すぐに行われたアンケートの答えの中でも使われている。
L’essentiel et malin artiste surprit la joie, à temps, de dominer, au conflit de deux époques, l’une dont il s’extrait avec ingénuité, réticent devant l’autre qu’il suggère ; sans être que lui, éperdument – ni d’un moment littéraire indiqué.
本質的で抜け目のないこの芸術家は、タイミングよく、二つの時代がせめぎ合う中、支配する喜びを不意に捉えたのだった。一方の時代からは無邪気に身を離し、彼が暗示するもう一つの時代に対しては保留した態度で。彼だけであることに熱中し — 先に示した文学的な時期に属することなく。
(ステファン・マラルメ「ヴェルレーヌについて」『プリューム』1896年2月1日)
ヴェルレーヌが身を引き離す(il s’extrait)のはパルナス派。彼が暗示する(il suggère)のは、新しい詩への動き。
マラルメの認識では、それら二つがせめぎ合う潮流の中で、ヴェルレールは自分自身のあり方を保ちながら、そのことによって主導的な役割を果たし、詩を新しい時代へと導いていく存在だった。
ヴェルレーヌがそうした役割を意識的に引き受けたのではなく、意識することなく詩作を続けているうちに、ふと時代を支配し導いていることに気付く。そのことが、「支配する喜びを不意に捉えた」という表現によって示されている。
「墓」では、不意に捉える状況が、無邪気に調和した調子でだけ(ne surprendre que naïvement d’accord)とされ、ありのままの状態で、何かを無理に変えようとしたわけでもないことが強調される。ヴェルレーヌは常に彼以外の人ではなく(sans être que lui)、彼自身であることに熱中している(éperdument)。
マラルメのように日常的なコミュニケーション言語を拒否し、言語の暗示作用を最大限に活動させようとした詩人の目には、ヴェルレーヌは無邪気な(naïf)詩人と映っただろう。
そして、それだからこそ、対極にあるヴェルレーヌを高く評価したに違いない。
次に、唇、小川、死は何を暗示するのか考えていこう。
ヴェルレーヌの埋葬の際にマラルメが読み上げた追悼の言葉を参照すると、そのヒントが得られる。
Oui, les Fêtes Galantes, la Bonne Chanson, Sagesse, Amour, Jadis et Naguère, Parallèlement ne verseraient-ils pas, de génération en génération, quand s’ouvrent, pour une heure, les juvéniles lèvres, un ruisseau mélodieux qui les désaltérera d’onde suave, éternelle et française (…).
そうです。『艶なる宴』『よき歌』『叡智』『愛』『かつてとこれから』『並行して』は、世代から世代へと流してくれないでしょうか、若者たちの唇がしばしの間開かれる時、メロディー豊かな小川を。その小川は、若者たちの喉の渇きを癒してくれるでしょう、甘美で、永遠に続くフランス語の波によって。
(ステファン・マラルメ「ヴェルレーヌ」『時代(Le Temps)』1896年1月11日)
唇(lèvres)は、ヴェルレーヌの詩句を口ずさむであろう若者たち。
小川(ruisseau)は、甘美なフランス語の詩句。
メロディー豊かなヴェルレーヌの詩句の小川が若者たちの渇きを癒すだろう(désaltérera)と、動詞が単純未来形で活用されている。そのことは、マラルメの未来に対する願いであることを示している。
「墓」では、ヴェルレーヌが唇(la lèvre)を不意に捉えるとされる。追悼の辞から考えると、そのことは、ヴェルレーヌの詩句を新たな読者が口にするということになる。
その際、唇(の持ち主)は、そこで飲むこともなく、息を涸らすこともない(sans y boire ou tarir son haleine)。
飲まない(sans boire)というと、詩句を口にしないと考えられるかもしれないが、ここでは、流れの中に唇を付けて、流れを乱すことはない、というニュアンスを汲み取りたい。
そして、息を途切れさせることなく(sans tarir son haleine)、繊細に注意深く詩句の流れに身を任せる。
マラルメはそうしたヴェルレーヌの詩句の味わい方を提唱する。
小川については、少し深い(un peu profond)と批難された(calomnié)という二つの属性が付加される。
少し深いという表現からは、本当の意味で深くない、あるいは、それほど深くないというニュアンスが感じ取られる。枝に止まる鳩のさえずりとも思われるヴェルレーヌの詩句には、表面的で深みが足りないという批難(calomnie)が浴びせらることがあるかもしれない。今後もそのように判断される可能性もある。
マラルメはこれから現れる新しい読者たちに、「少し深い」という皮肉な表現で、そうした否定的な評価が皮相なものだと伝えたのではないだろうか。
マラルメにとってヴェルレーヌの詩句は、永遠に続くフランス語の甘美な波であり、読者の渇きを癒してくれるものだし、第2四行詩で言及された「星(l’astre)」へと導いてくれるものでもある。
その評価の逆転は、とりわけ死(la mort)によってもたらされる。その死が14行続いた詩句の最後に置かれている。
死(la mort)の意義についても、追悼文の中で明確にされている。
La Mort, cependant, institue exprès cette dalle pour qu’un pas dorénavant puisse s’y affermir en vue de quelque explication ou de dissiper le malentendu. Un adieu du signe au défunt cher lui tend la main, si convenait à l’humaine figure souveraine que ce fut, de reparaître, une fois dernière, pensant qu’on le comprit mal et de dire : Voyez mieux comme j’étais.
「死」が意図してこの敷石を設置するのです。今後、何らかの説明のために、あるいは誤解を解消するために、確かな一歩が踏み出されるためにです。愛しい故人への別れの印として、もしかつての崇高な人間の姿にふさわしいものであるならば、彼に手が差し伸べられます。それは、人々が彼を間違って理解したのだと考え、最期にもう1度だけ姿を現してくれるようにという印であり、「私がどのようであったかをもっとよく見てください」という印なのです。
(ステファン・マラルメ「ヴェルレーヌ」『時代(Le Temps)』1896年1月11日)
死は、詩人の生前における一般の人々の間違った考えに変更を促し、ヴェルレーヌの崇高な姿(l’humaine figure souveraine)を認識し、彼の詩句を再評価するための踏み台になる。
そうした言葉でマラルメは、死をきっかけとしてヴェルレーヌに対する正当な評価が行われるようになると述べ、別れの言葉としたのだった。
ヴェルレーヌが死を不意に捉えるとは、死がヴェルレーヌを突然襲ったことでもあるし、ヴェルレーヌが死を契機として正しく評価されるようになるということでもある。
こうして、マラルメは、唇、小川、死を取り上げ、未来の読者に向け、彼なりのヴェルレーヌ像を暗示したのだった。

ヴェルレーヌが亡くなったすぐ後で行われたインタヴューの中で、マラルメはこんな風に語ったことがある。
Avec lui, je ne me sentais pas réellement en contact. Je l’aimais pourtant, (…). Oui, je l’aimais, je l’admirais, je l’estimais.
彼(ヴェルレーヌ)とは、実際に触れ合うような状態にあると感じていませんでした。しかし、私は彼がとても好きでした。(中略) そうです、私は彼がとても好きで、憧れ、高く評価していました。
(ジョルジュ・ドュコワによるマラルメのインタヴュー、1896年)
ヴェルレーヌに捧げられた「墓」の詩句からは、こうしたマラルメの想いがはっきりと感じられる。
確かに、マラルメの抽象的で意味を掴みにくい詩句と、ヴェルレーヌの純真な詩句は違っている。その意味で彼らの詩句が実際に触れ合う状態にあったとはいえない。
「墓」という詩それ自体でも、一読して心を動かされるヴェルレーヌの詩とは対極にあり、マラルメの暗示が何を意味するのかすぐにはわからず、心を動かされるよりも、頭を働かせられる。
しかし、そこで使われている単語も構文も単純で、ヴェルレーヌの普段の詩句に近い。その典型が次の詩句。
Verlaine ? Il est caché parmi l’herbe, Verlaine


亡くなったばかりの友人に、Verlaine, Verlaineと呼びかけるマラルメの声が聞こえてくる。しかも、ヴェルレーヌの詩句を思わせる無垢な構文が使われ、友人の居場所が告げられる。墓石の下に埋もれているのではなく、自然の植物の中にひっそりと隠れている、と。
マラルメはこうした個人的な想いを込めて「墓」をヴェルレーヌの魂に捧げ、後の時代の読者たちに、ヴェルレーヌの詩を読むための指針を示したのだった。