ヴェルレーヌ 「月の光」 Verlaine « Clair de lune » ロココ的世界から印象へ

ヴェルレーヌの詩は音楽性が豊かだが、それと同時に絵画的表現にも富んでいる。

Antoine Watteau, Le Pèlerinage à l’île de Cythère

詩集『雅な宴』(Fêtes galantes, 1869)は、ロココ絵画の創始者であるアントワーヌ・ヴァトーが描いた優美な世界を再現し、その中で恋の始まりから終わりまでを描いている。

その詩集の冒頭を飾るのが「月の光 Clair de lune」。
優雅でありながらもの悲しく、美しい衣裳の下に決して明かせぬ本心を隠す、宮廷生活の雰囲気を見事に伝えている。

しかし、絵画的世界はいつの間にか音楽の世界へとつながり、ヴェルレーヌの世界に引き込まれてしまう。

詩を読む前に、まずドビュシーの「月の光」を聴いてみたい。ピアノではなく、あえてギターで。
この曲は、ヴェルレーヌの詩からインスピレーションを受けて作曲されたという説もある。それほど、ヴェルレーヌの詩句の雰囲気と見事に一致している。

Clair de lune

Votre âme est un paysage choisi
Que vont charmant masques et bergamasques
Jouant du luth et dansant et quasi
Tristes sous leurs déguisements fantasques.

月の光

あなたの魂は、選び抜かれた風景、
仮面も、ベルガモの曲や踊りも魅力的、
リュートを弾き、踊り、ほとんど
悲しげ、気まぐれな仮装の下で。

魂と風景を結びつけるは、人間の内面と外の世界を重ね合わせることであり、風景が心の状態(état d’âme)を表すというロマン主義的な思考に由来する。
しかし、ロマン主義とは異なり、心情の吐露を詩の中心に置くのではなく、外の世界を描いていく。
その時にモデルにするのが、アントワーヌ・ヴァトーの絵画。

19世紀前半、ロココという言葉は、趣味が悪いという意味で用いられ、ヴァトーの絵も忘れられていた。
世紀の半ばから18世紀絵画に対する見直しがあり、その過程でヴァトーも再評価の対象になる。
ヴェルレーヌはそうした流れの中で、現実を忠実に再現するレアリスム絵画ではなく、優美で夢幻的な世界を舞台にすることにしたのだろう。

Antoine Watteau, Watteau, fêtes vénitiennes

2行目に出てくるベルガマスク(Bergamasque)には様々な解釈が提案されているが、次の点だけ抑えて置こう。
最基本となるのは、イタリアのベルガモ地方と関係していること。
19世紀後半を代表するリトレ辞典では、音楽用語であり、18世紀に行われたダンスやダンス用の曲を意味すると定義されている。

ベルガマスクの前に仮面(Masque)とあり、心象風景の宴が仮面舞踏会であることを思わせる。
ベルガモとの関係を考え、ヴァトーやヴェルレーヌも興味を持っていたことを考え合わせると、その仮面は、イタリアのコメディア・デラルテを連想させる。

リュートを弾き、ダンスを踊る貴族たち。

Antoine Watteau, La Gamme d’Amour
Antoine Watteau, La Camargo dansant

彼等がコメディア・デラルテの仮装をしているとしたら、その姿は気まぐれ(fantasque)に感じられただろう。

第2詩節では、華やかな仮面や仮装が、真実の世界の虚像であることが予感される。

Tout en chantant sur le mode mineur
L’amour vainqueur et la vie opportune
Ils n’ont pas l’air de croire à leur bonheur
Et leur chanson se mêle au clair de lune,

短調の曲想に乗せて歌うのは、
勝ち誇った愛と巡り合わせのいい人生、
でも、幸福を信じているようには見えない。
彼等の歌が、月の光に溶け込んでいく。

短調は、ヴェルレーヌのほとんどの詩の基本的な調性。もの悲しく、切ない。

彼はここで、その理由を明かしている。
相手を誘惑する恋愛を歌い、人生が順調に進むことを歌う。しかし、その勝利や幸運は、仮装した世界でのことであり、彼ら自身、本当に信じてはいない。
言葉でどんなに肯定しても、短調の音楽が偽装、偽りを暴露する。

そして、意味は肯定的だが、音楽は短調の歌が、月の光の中へと消えていく。

Joseph Vernet, Paysage au clair de lune

仮面舞踏会の映像が消え、歌と光が溶け合う。ここにヴェルレーヌ的世界が出現する。形ではなく、光と印象の世界。

第3詩節では、その月の光にスポットが当てられる。

Au calme clair de lune triste et beau,
Qui fait rêver les oiseaux dans les arbres
Et sangloter d’extase les jets d’eau,
Les grands jets d’eau sveltes parmi les marbres.

静かで、もの悲しく、美しい月の光、
木々の間で、鳥たちを夢見させ、
噴水を恍惚とさせ、すすり泣かせる、
高くほっそりとした噴水を、大理石の間の。

この4行詩には、ヴェルレーヌの詩のエッセンスが詰まっている。

光の美。それはもの悲しく、大きな声で言い立てるものではなく、密やかにささやくもの。

木と鳥は自然への関心を示す。
鳥が夢見るほど美しい光景を前にして、詩人は心を奪われ、我を忘れ、美の前で恍惚としてすすり泣く。

その高揚感が、噴水の吹き上がる水によって表現される。

Jeux d’eau, Parc de Saint-Cloud

ヴァトーの絵画の世界を再現しながら、仮面舞踏会の音楽が月の光と混ざり合い、噴水の水の印象へと変わっていく。
ヴェルレーヌの詩句は、その変化を美しく表現し、実体的な物の世界から、音楽的な印象の世界へ、シームレスで繋がっていく。

「月の光」は、フォーレによっても曲が付けられている。歌はヴェロニク・ジャンス。

ドビュシーの曲なら、フリードリッヒ・グルダのピアノが、雰囲気をよく捉えている。

噴水に関しては、ローマ近郊のティヴォリ公園の噴水を思い描いてもいいだろう。

この噴水の水の動きを、リストは見事な音楽で表現している。印象派直前の音楽といっていいだろう。ピアノはアンヌ・ケフェレック。

吉田秀和は、『永遠の故郷 夜』と題された歌曲を紹介する本の冒頭で、「月の光」を取り上げている。

その本に付属するCDで彼が選択したのは、フォーレが作曲したもの。歌手はルネ・フレミング。

吉田によれば、ルネ・フレミングは美しい声の持ち主で、特色はヴィブラートを多く使うことだという。そのために、言葉がよく聞き取れないことがある。しかし、旋律を劇的に構成し、組み立てていく。
「月の光」の最後のところで、大きな噴水が大きな弧を描いて落ちていくことが歌われていて、そこが大きな虹のように、クレシェンドしていく。フレミングはそこをとても華やかに歌い上げているので、吉田は彼女の歌を選んだという。

フォーレの曲については、こんな風に書いている。

フォーレのは優美で知的で素晴らしい歌。ピアノによる12小節(4小節のフレーズが3つ)の主題の導入があった後、声が入ってくるのだが、それ以後はピアノと声が完璧に結びついた二重奏になっており、しかもどんな愛の口説よりも親密な二重奏曲といってよい。

ヴェルレーヌの詩に纏わるエピソードで面白いのは、中原中也と関係しているところ。吉田秀和は高校生の時、中也にフランス語を教わっていた。そこで、こんな風に書いている。

中原の詩を知れば、誰だってヴェルレーヌが読みたくなって当たり前。両者の血縁関係は深くて濃厚である。また彼は酔うとよく詩を朗読したが、そういう時はヴェルレーヌの詩の一節であることがよくあり、« Colloque sentimental (感想的な対話)»など終始出てきて、これを読む彼の身振りは今でもまだ思い出せる。ただし、私はこの詩はあんまり好きではなかった。
 逆に私が好きだった一つが、« Clair de lune (月の光)»

日本で最高の音楽評論家だった吉田秀和と中原中也、そしてヴェルレーヌ。彼等の関係を知ると、音楽と詩の関係の深さがますますわかってくる。

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