「歴史」を知る難しさ イザナギ・イザナミ夫妻は円満?

8月15日は、日本にとっては第二次世界大戦の「終戦記念日」。
しかし、この日が終戦ではないという人もいるし、ポツダム宣言を受け入れたとしても「全面降伏」ではなかったという人もいる。原爆の投下についても様々な説が混在し、ソ連参戦の意味についても意見が分かれる。

学校教育の中で、明治維新以降の歴史にあまり触れないのは、日本人の一人一人が意識的・無意識的に持つイデオロギーと密接に関係しているからだろう。客観的に事実を辿るつもりでも、なかなかそのようにはできない。

そうしたことは現代史だけかと私は思っていたのだが、古代史についても起こるらしい。
最近、『古事記』や『日本書紀』で語られる日本の始まりについていろいろと考える中で、自分の無知を思い知ると同時に、それが私だけのことではないらしいこともわかってきた。

日本の国土の生成が伊弉諾(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の「国生み」によることは、「記紀」で共通している。
しかし、その後の展開は全くと言っていいほど異なっている。

『古事記』では、イザナミは火の神カグツチを産んだあと、火に焼かれて死に、黄泉の国へ行く。
イザナギは妻を追ってその国へ赴き、ウジ虫にたかられている妻の姿を見てしまうことで、妻に恥をかかせる。そのためイザナミは醜女(しこめ)や兵士たちに夫を追跡させ、最後は自らも追いかける。そして二人は黄泉比良坂(よもつひらさか)で言い争いをし、イザナギは生者の国に戻り、イザナミは死者の国に留まる。

それに対して、『日本書紀』の本文では、イザナミが命を落とすこともなく、したがって黄泉の国の挿話もない。二人は国生みの後、神々を生み、さらには自然の事物をも生む。

このように、「記紀」と一括して呼ばれることはあっても、二つの書物の中で二人の関係はまったく異なっている。

そんなことを知った後で、伊弉諾神社のある淡路島の観光ガイドのホームページを見ていたところ、面白いことに気づいた。

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現実の他に何があるのか? プラトンのイデア アリストテレスの形相 

「現実の他に何があるのか?」という問いは何か変な感じがするが、ヨーロッパ的な考え方を知るためには、こんな問いから始めるのがいいかもしれない。

(1)プラトンにおけるイデアと現実

古代ギリシアの哲学者プラトンは、現実の事物は時間が経てば消滅する儚い存在だと考え、そうした存在を超えて永遠に存在する確かなものはないかと問いかけた。
そして発見したのが、イデアだった。英語のideal(理想)の語源となる言葉。

プラトンにとっては、イデア界こそが真に実在するものであり、現実世界はイデア界のコピーあるいは影にすぎない。

もちろん、現代の私たちはプラトンの言うイデア界があるとは信じられない。アダムとイブの楽園や浦島太郎の竜宮城のように、空想の産物だと思うだろう。
というのも、私たちの世界観の基礎には科学的な思考があり、実験によって物理的に確認できないものが実在するとは認められないからだ。
目に見え、手で触れ、香りを嗅ぎといったように、五感で感じ取ることのできるものが、現実世界を構成する。

しかし、少し考え直してみると、感覚に騙されることがあったりもする。
同じ物を触ったとして、より熱い物の後だとそれほど熱く感じないし、冷たいものを触った後ではひどく熱く感じたりする。同じ長さのものでも形によって違う長さに見える。そうした心理学的な錯覚実験があるのもそのためだ。

そのように考えると、「現実とは何か?」という問題も、実際のところそれほど簡単ではないことがわかってくる。

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AI翻訳の活用法 Wikipediaの記事の翻訳

ある調査結果で、Wikipediaの信頼性は「ブリタニカ百科事典」と同等だとされたことがある。
ただし、それは英語版の調査であり、日本語のページに関しては、「秀逸」や「良質」のマークのついた記事もあるが、多くの場合、紙ベースの事典に匹敵するところまでいかないのが現実だろう。
また、外国の事象や人物の記述に関して、日本のページには項目がないものもある。
例えば、オランダの画家Jacobus Vrelについての記述は、日本版のWikipediaにはない。

そこで、英語版やフランス語版など、日本語以外の記述を参照することになる。
その際、現在では、AIの翻訳機能により、外国語を瞬時に日本語に翻訳することが可能で、理解をおおいに助けてくれる。

私の知る範囲では、ブラウザーでChromeを使っている場合、英語、ドイツ語、イタリア語などから日本語への翻訳が可能。しかし、フランス語から日本語への翻訳は、なぜかできない。

それに対して、ブラウザーでEdgeを使うと、フランス語から日本語への翻訳も可能になる。

また、フランス語→日本語の場合、翻訳が多少分かりづらく不正確なこともある。そうした場合には、多少面倒でも、ChatGPTを使い、フランス語→英語→日本語と、一度英語を通すと改善する例も見られる。

以下、WikipediaのJacobus Vrelの項目を使い、実際のところを見ていこう。

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サルトル 『言葉』 Sartre Les Mots 事物と概念 実存主義の基礎

ジャン・ポール・サルトルの自伝的作品『言葉(Les Mots)』(1963)の中で、日本人にとってはわかりにくい一つのテーマが扱われている。
それは、目に見え、手で触れることができる現実の「事物」と、その反対に、見ることも触れることもできない「概念」という、二つの異なった認識の次元に関わる問題。

例えば、猫に関して、ここにいる「一匹の猫」は存在するが、「猫一般」、あるいは「猫という概念」は存在しないとする立場と、逆に、概念そのものが実在するという立場がある。

普通、そんな違いを日本人は考えないので、わかりにくいし、どうでもいいようにも思われる。
ところが、サルトルが自分の幼い頃の思い出として語る一つのエピソードを読むと、私たちにとっては遠い世界の思考法がクリアーに理解できてくる。

その結果、サルトルの提示した哲学の根本的な土台が、「事物」と「概念」の関係をどのように考えるかということにあることがわかり、実存主義の理解にもつながる。
さらに、その二分法になじまない日本的な思考の特色も見えてくる。


『言葉』の中には、サルトルが小さな頃からお祖父さんの書斎に置かれた多くの本に囲まれて育ったが、その中でもとりわけ「ラルース大百科事典」に大きな興味を示したという思い出を語る部分がある。

Mais le Grand Larousse me tenait lieu de tout : j’en prenais un tome au hasard, derrière le bureau, sur l’avant-dernier rayon, A-Bello, Belloc-Ch ou Ci-D, Mele-Po ou Pr-Z (ces associations de syllabes étaient devenues des noms propres qui désignaient les secteurs du savoir universel : il y avait la région Ci-D, la région Pr-Z, avec leur faune et leur flore, leurs villes, leurs grands hommes et leurs batailles) ;

ところで、私にとって、「ラルース大百科事典」が(他の本)全ての代わりになっていた。適当に一巻を手に取る。机の後ろにある棚の、下から二番目の段にある、A-Belloの巻だったり、Belloc-Chの巻、Ci-Dの巻、Mele-Proの巻、Pr-Zの巻だったりする。(それらの音の組み合わせは固有名詞となり、普遍的な知識の分野を指し示していた。Ci-Dの地区、Pr-Zの地区があり、その中に、動物相や植物相、街があり、偉人がいて、彼らの戦があった。)

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議員は選挙民を「代表」するか? 柄谷行人 「代表するもの」は「代表されるもの」から束縛されない

政治は選挙によって選ばれた議員たちによって行われる。たとえ、政策の立案に関しては、選挙によって選ばれてはいない官僚によって行われるとしても、決定権は議会にある。
そして、その議会は、普通選挙によって「民意を得た」とされる代議士たちによって構成されるため、「民主主義」的な政治が行われると見なされる。

こうした仕組みは、「日本国憲法前文」で規定される基本的な考え方に基づいている。
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、(後略)」。

しかし、政治家たちの発言や行動からは、彼らが本当に選挙で投票した人々の「代表」であるのかどうか疑われることがある。

柄谷行人は、投票する側と選ばれる側のつながりの曖昧さを指摘する。

真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から束縛されない。(『トランスクリティーク』)

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学ぶこと 考えること 井筒俊彦「語学開眼」

井筒俊彦の「語学開眼」という子供時代の思い出を語るエセーは、実際の教育現場では「学ぶ」ことから「考える」ことにつなげるのいかに難しいことかを、分かりやすい言葉で教えてくれる。

それは、井筒が中学校二年生の時のエピソード。

今でもよく憶(おも)い出す。中学2年生、私は劣等生だった。世の中に勉強ほど嫌いなものはない。学問だとか学者だとか、考えただけでもぞっとする。特に英語が嫌いだった。(井筒俊彦「語学開眼」『読むと書く』所収)

教室の中では英文法の授業の最中で、大学出たての若い先生が熱心に何やら喋(しゃべ)ていたけれど、その言葉は私の耳には入ってはいなかった。ふと、我にかえった。「イヅツ」「イヅツッ!」と先生の声が呼んでいた。「どこを見ている。さ、訳してごらん。」
見上げると黒板に、 There is an apple on the table.と書いてある。なぁんだ、これくらいなら僕にだって。
「テーブルの上にリンゴがあります。」
「うん、それじゃ、これは」と言って先生は、There are apples on the table.と書いた。
「テーブルの上にリンゴがあります。」

正解? 不正解?

an appleに続けてapplesと書いた先生の意図は、生徒に単数と複数の区別を教えることにある。
井筒少年の訳では、その区別ができていない。試験であればバツがつく。

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ChatGPTの翻訳力 

ChatGPTで翻訳を試してみたところ、あまりにも素晴らしくてビックリしてしまった。
しかも、voice control for chatGPTをインストールすれば、音声でのやり取りも可能になる。
このレベルであれば、技術翻訳としてはもう立派に通用するのではないかと思われる。

次の日本語の文章を、英語に翻訳し、次にフランス語にしてみた。

「日本の美を再発見する」
日本の伝統的な絵画では、奥行きを表現するための技法(遠近法、明暗法、等)が使われることがありませんでした。 (それらが日本に移入されたのは、18世紀半ば、つまり江戸時代中期です。)

‘Rediscovering the Beauty of Japan”
In traditional Japanese paintings, techniques such as perspective, chiaroscuro, and others used to depict depth were not commonly employed. (These techniques were introduced to Japan in the mid-18th century, specifically during the middle of the Edo period.)

“Redécouvrir la beauté du Japon”
Dans les peintures traditionnelles japonaises, les techniques telles que la perspective, le clair-obscur et autres utilisées pour représenter la profondeur n’étaient pas couramment employées. (Ces techniques ont été introduites au Japon au milieu du XVIIIe siècle, plus précisément pendant le milieu de l’époque d’Edo.)

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井筒俊彦 温故知新

井筒俊彦のエッセイ集を読んでいて、「温故知新」という最近ではすっかり忘れられた言葉に出会った。

「温故知新」。
使い古された表現だが、「温故」と「知新」とを直結させることで、この『論語』の言葉は「古典」なるものに関わる真理を言い当てている。
「古典」とは、まさしく”古さ’を窮めて、しかも絶え間なく”新しくなる”テクスト群なのだ。
“新しくする”もの、それは常に、「読み」の操作である。
    (井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)

井筒が強調するのは、古いものは、「読むこと」によって、新しいものに「なる」ということ。
「読む」行為が、古いものを新しいものに「する」。

幾世紀もの文化的生の集積をこめた意味構造のコスモスが、様々に、大胆に、「読み」解かれ、組み替えられていく。現代の知的要請に応える新しい文化価値創出の可能性を、「温故」と「知新」との結合のうちに、人々は探ろうとしている。
    (井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)

「意味構造のコスモス」といった井筒俊彦独特の表現が使われているために、難しいと感じられるかもしれない。
しかし、ここに記されていることは、「温故知新」という言葉が、「古いものをたずね求めて新しい事柄を知る」という、わかったようなわからないような解説ではなく、「古典」として評価が定着してきた価値ある伝統を、現代に生きる私たちが読み直すことで、新しい価値を産み出すという、能動的な行為を意味しているということである。

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命の線引き  妊娠中絶 安楽死 ベジタリアン エコロジー etc.

命の価値は絶対的なものであり、殺人は絶対的な悪だと誰もが考えるだろう。
そして、その前提に立った上で、堕胎や安楽死など、生命に関係する問題について、賛成か反対かが論じられる。
視点を少しズラすと、菜食主義に関しても、動物を人間と近い存在と考え、植物との間で線引きをするるかどうかという問題になる。

だが、歴史的に見ると、人間が価値を置く生命に関しての絶対的な基準はなく、時代や地域によって考え方が異なることが確認される。
子供殺しが頻繁に行われていた時代があり、動物を残酷に扱うことが動物虐待と見なされない地域が今でもある。
悪や善の基準に「変化」はあっても、「進歩」はない。基準は常に相対的なものだ。

ここでは、人間が人間の命を左右する問題(中絶、安楽死等)と、人間以外の生物の問題(ベジタリアン、エコロジー)に分け、「命の線引き」について考えていきたい。

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