命の線引き  妊娠中絶 安楽死 ベジタリアン エコロジー etc.

命の価値は絶対的なものであり、殺人は絶対的な悪だと誰もが考えるだろう。
そして、その前提に立った上で、堕胎や安楽死など、生命に関係する問題について、賛成か反対かが論じられる。
視点を少しズラすと、菜食主義に関しても、動物を人間と近い存在と考え、植物との間で線引きをするるかどうかという問題になる。

だが、歴史的に見ると、人間が価値を置く生命に関しての絶対的な基準はなく、時代や地域によって考え方が異なることが確認される。
子供殺しが頻繁に行われていた時代があり、動物を残酷に扱うことが動物虐待と見なされない地域が今でもある。
悪や善の基準に「変化」はあっても、「進歩」はない。基準は常に相対的なものだ。

ここでは、人間が人間の命を左右する問題(中絶、安楽死等)と、人間以外の生物の問題(ベジタリアン、エコロジー)に分け、「命の線引き」について考えていきたい。

(1)人の手で人の生命を絶つこと

a. 自死

生命を絶つことで第一に上げられるのは、自らの命を自分で絶つこと。自分の所有物を自分で処分することが悪だという根拠は、どのように示されるのだろう。

キリスト教では、非常に単純化して言うと、殺すことは罪であり、そのことが自分に関しても当てはまる。
別の視点からは、命は神から与えられたものであるから、人間が勝手に処分することは罪になるという論理が立てられることもある。

イスラム教でも、世界や人間を創造したのは神であり、人間に生を与えると同時に死を与えるのも神のみの権限だと言われる。

仏教では、この世は苦の娑婆であり、浄土は死後にあると教えるために、死を禁じる論理を見つけるのが難しい。
そうした中でも、「何ものにも害を加えてはならない」「殺生禁止」という教えを取り上げ、他人だけではなく自分の命を奪うのは害であり、悪だという説を導き出す。

日本人の道徳の根本を成す儒教の場合だと、君主や親に対する忠孝の精神が中心にあるため、君主や家のために自己を捧げることは美徳と見なされた。切腹を自殺と呼ばないのはそのためかもしれない。

b. 子殺し

過去において、子殺しはかなり頻繁に行われていた。

日本では、「間引き」と言われ、幼児の顔の上に濡れた布を置いたりして、窒息させるという方法が用いられることがあった。

ヨーロッパの例は、グリム童話で有名な「ヘンゼルとグレーテル」から知ることができる。
飢饉の際、両親は二人の子供を森に捨てる決心をする。自分たちが食べるものを確保するためには、労働力にならない子供を犠牲にする。全員が飢え死にしてしまう可能性があるとしたら、それは自然な選択だと考えられる。

ある歴史の本によると、中世のキリスト教教会では、一歳以下の子供と添い寝をすることを禁止する令を出したという。添い寝をしながら、親が子供を窒息死させるのを禁止するためだった。

この例は、一歳以下という年齢を特定している点で、とても興味深い。つまり、人間の生命の線引きが年齢で行われたことを示している。
その考え方が、現在の中絶に関する議論とも関連していることに注目しよう。

ある人々は、母体の中の胎児も命ある人間であり、妊娠中絶手術は殺人であると考える。
他方、理由があり、堕胎せざるをえない場合には手術を認めるべきであり、女性の体の権利は女性が持つと主張する人々にとって、生命とは誕生後に認めるべきものだと考える。
この基準自体に関しては、どちらが正しいとか正しくないとか決めることはできない。
母子がどのように生きるかを優先するか、胎児の命を優先するかのが、判断の基準なのだ。

c. 老人の排除

かつて姥捨ての習慣のあった地域が数多くあることは、よく知られている。
子捨ての場合と同じだが、労働力として役に立たない人間は共同体にとっては負荷要素になり、自然死を待つ以前に排除の対象になった。

最近メディアで話題になった例もある。
イェール大学の成田悠輔氏が発したと言われる「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹すればいい」、あるいは「切腹が社会保障改革への最短経路」という発言。

現在この思想が強く非難されるのは、生命の価値を何よりも上に置く時代において当然なことだが、集団の福祉のために不要な分子を減少させるという意味では、子捨て、姥捨てと同様の発想であり、共同体優先か個人優先かの判断の問題になる。

成田氏の発言で個人的に興味を引かれることは、「集団自殺」ではなく、「自決、切腹」と表現していること。切腹を美徳を見なす傾向のある日本的な言葉遣いが感じられる。

d. 安楽死

人生の最後において、病に冒され、苦痛に苦しむ中で、自分の死を選択する権利を求める人々が多くいることは理解できる。
とりわけ、医学の進歩に伴い、「延命」治療が可能になり、生命の維持が優先される中、治療される患者の苦痛だけではなく、生きていて欲しいと願いながら同時に負担も重くなる親族の状況を考えた時、やむを得ない選択として、治療の中止や、医療的に生命を絶つ選択もあるだろう。

しかし、安楽死に強く反対する人々もいる。
堕胎の場合と同じように宗教的な理由によることもあるが、それ以外にも、弱者の視点から、生きるに値する人間かどうかの基準が無意識のうちに出来上がることに不安を抱くことが、反対の主な理由となる。

例えば、障害を持つ人々や彼らの関係者は、社会的な選別の対象となり、強制的に排除されるのではないかという不安を持つ。
認知症の患者や家族、死を目前にしながら死を望まない人に関しても、同じことが言える。
金銭の額で選別がなされるのではないかという恐れを抱く人々もいる。
そうした人々は、安楽死は自己決定と言いながら、無言の強制になるのではないかという恐れを強く抱き、安楽死に反対の立場を取る。
彼らにとって、生命に値するかどうかの基準が人間としての価値によって決めれるのではないかというのが、最大の問題となる。


生きることに何の意味も見いだせないとしても、ただ生きていること自体に意味があると考える人々がいる。
一方、生きることに意味がなければ、生きる価値がないと考える人々もいる。
どちらが正しく、どちらが間違っているとは言えない。
生命に対する価値観は、人それぞれだし、時代や住む地域によっても違う。

こうした問題を考える時、「絶対」はない。
違いは、命の基準をどこに設定し、何に価値を置くかなのだ。

例えば安楽死について考える場合、一方には苦痛に耐え続けることをなんとか終わりたいと願う人もいれば、他方では、価値のない人間というプレッシャーの中で死を強いられるのではないかと恐れる人々もいる。
その場合、自分たちの思いだけが正当だと確信し、その主張を言い張り続けても、解決策を見出すことはできない。両者の希望をどちらも叶えるためにどうしたらいいかを考えることが必要であり、異なる主張に耳を傾けることから始めなければならない。
繰り返しになるが、議論のベースになるのは、正しいか間違っているかではなく、「命の線引き」をどこに置くかの基準なのだ。

(2)人間と他の生物との分割線

a. 菜食主義

欧米に比べて日本では、菜食主義やエコロジーの運動がそれほど盛り上がりを見せない。
その理由も考えながら、動物の肉を食べない選択をした人々の思考を見ていこう。

かつては、宗教的な理由で特定の動物の肉を食べないことがあったとしても、動物虐待を理由に、肉を食べることを拒否するということはなかったと考えられる。
しかし、最近時々話題になるヴィーガン(完全菜食主義者)になると、動物を虐待して行うあらゆるタイプの搾取(食物、衣服、装飾など)に反対するという哲学を原則として行動を決定する。
同様の行動でありながら違いがあるとしたら、価値ある生命、より具体的に言えば、感情を持つと考える生物の線引きをどこでするのかにかっている。

ルネサンスの時代、世界には次のような上下の階層が付けられていた。
(高) 神 → 天使 → 人間 // → 動物 → 植物 → 鉱物 (低)

この世界像の中で、人間だけが上下を移動し、善い行いをすれば天使に近づき、悪い行いをすると動物に堕落してしまう、つまり変化する可能性のある存在とされ、そのために人間に特別な価値が置かれた。

その人間中心の世界観において、人間と動物の間には絶対的な断絶があり、人間的な生命の価値を動物に認めることはなかった。
動物に感情があると考えることはなく、動物の扱いに気を配ることもなかった。

こうした線引きが日本人に違和感を感じる事件があった。
捕鯨に反対するグリーンピースが捕鯨船を攻撃した時、彼らは「鯨は魚ではなく、哺乳類だ」といった主張をした。
哺乳類は脊椎動物で、その中には人間も含まれる。そのために、鯨を殺すことが残酷な行為だと見なされたのだった。
彼らは、魚と動物の間に線を引き、かつ人間を含む脊椎動物とそれ以外の動物の間にも分割線のある思想に基づいていたことになる。

ベジタリアン(菜食主義者)になると、全ての動物と植物の間に線を入れ、生命を絶つことで残酷さを感じるのは、動物だけであり、魚類や植物に対して同じ感情を持つことはないらしい。

昆虫に対してはどうだろう?
その点ではヴィーガンも意見が分かれるらしい。
昆虫にも命があるのだから殺すことには反対という人もいれば、食糧危機を救うためには昆虫を利用すべきという人もいる。

こんな風に見てくると、ルネサンスの時代には人間と動物の間に引かれていた線が、時代を経るに従い、動物へ、さらには昆虫へと、分割線が下がりつつあるということがわかってくる。
別の見方をすると、人間的な感情を投影する対象が、人間だけの時代から、動物へと移行し、さらには昆虫に及ぶかもしれない時代になってきたのだといえる。

最近では、植物も感情を持ち、コミュニケーションをしているという研究も出てきているので、いつの日にか植物にも共感を投げかける時代が来るかもしれない。
ただし、そうした状況では、ヴィーガンたちにさえ食べるものがなくなってしまうことになる。

ベジタリアンやヴィーガンの哲学では、環境保護(エコロジー)や健康の問題が提示されることもあるが、最も基本的な部分では生命倫理にかかわっている。
そして、最終的には、人間的な生命を人間以外のどの生物にまで投影するかということが、何を食べ、何を食べないかの基準として機能しているように思われる。

b. 日本的感性

日本では伝統的に穀類を常食とし、肉食が盛んになったのは明治に洋食が普及してからになる。
歴史的に見ると、仏教による殺生を戒める説に基づき、675年に天武天皇によって肉食禁止令が発布され、その禁止令が1871年(明治4年)まで続いたと考えられる。
たが、実際には禁止が厳格に守られたわけではなく、意識的に菜食主義を採用したということではない。むしろ、地理的天候的な条件の中で、自然な形で、動物性たんぱく質は魚から、植物性たんぱく質は大豆と米から接種していたという方が現実に近いだろう。

従って、人間的な感情を動物に投影し、肉食を避けたというわけではない。また、人間と動物、植物、さらには無生物の間で、どこかに明確な分割線を引くこともなかったと考えられる。
人間も自然の一部であり、万葉集や古今和歌集などを通して、自然を詠うことが人間の心を詠うことでもあるような文化が出来上がっていた。

さらに言えば、自然は人間にとっての母と感じられてきた。
多くの場合、慈しみ養ってくれるが、別の時には、罰を与える恐ろしい存在にもなる。
その母に人間は絶対的な信頼を置き、その感情が自然に対する甘えにも繋がる。

日本では、どんなにエコロジーや持続可能性、SDGsという言葉が繰り返し叫ばれても今ひとつピンとこない。そのの理由は、人間と自然の関係が欧米とは全く違っていることによるのではないか。

エコロジーが重要なのは、最終的には、自然環境を健全に保つことで人間の生活環境を守り、保全することが必要という考えから来る。そこでの主役はあくまでも人間。

他方、日本では自然は慈母。人々は母を愛しながらも、母に甘える子供。どんなことをしても母は許してくれるし、母の愛は永遠だと無意識的に思い込んでいる。
母への愛は不変だが、しかし、人間は愛される子供であり続け、自然をいたわる側にはまだいない。

欧米では人間が主であり自然は従だが、日本では決して人間が自然の上に立つことはない。
別の視点から見ると、人間と自然の間に境界線はなく、動物、植物、鉱物の間にも、花鳥風月にも、山や海にも、区切れはない。
従って、動物を殺して肉を食べることが許せないとしたら、植物にも生命があるのだから同様にすべきと感じたとしても、それほど違和感はない。魚にしても、昆虫にしても同じことだ。
日本的な感性からすれば、それらを区別する分割線がないのだから、区別する論理を見つける方が難しい。

こうした日本的な感性は、決してエコロジーや菜食主義を否定するものではなく、人間中心主義的な思想に多少の変化を加えるために役立つ方向に働く。
原理主義的なエコロジーではなく、ゆとりのあるエコロジーへ。
野菜しか食べないというだけではなく、肉食する人々を声高に非難して肉屋を破壊するようなヴィーガンではなく、多少は雑食をし、植物にも動物と同じような愛を感じる、ゆるやかな菜食主義者へ。

人間と自然の間で「命の線引き」をしない日本的な感性は、そうした穏やかな世界観を作り出すための一つのきっかけとなるはずである。

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