Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 4/4

孤独と死への思いを具体的なイメージとして夢想したことを終点として、自分の内面を見つめる場面は終わりを迎え、意識は外に向く。夜が来たことに気づき、そして、部屋から下に降り、通りに溢れる群衆の中へと入って行く。

— Ainsi va ma pensée, et la nuit est venue ;
Je descends, et bientôt dans la foule inconnue
J’ai noyé mon chagrin :
Plus d’un bras me coudoie ; on entre à la guinguette,
On sort du cabaret ; l’invalide en goguette
Chevrote un gai refrain.

(朗読は5分18秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 3/4

愛しい伯母の死が語られた後、思いは母へとつながっていく。母はまだ生きており、「ぼく」を愛してくれている。しかしすぐに、彼女もまた、いつかは死んでいく存在であるという未来へと、連想は進んでいく。

Elle m’aimait pourtant… ; et ma mère aussi m’aime,
Et ma mère à son tour mourra ; bientôt moi-même
Dans le jaune linceul
Je l’ensevelirai ; je clouerai sous la lame
Ce corps flétri, mais cher, ce reste de mon âme ;
Alors je serai seul ;

(朗読は3分9秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 2/4

子ども時代の教会の思い出は、まず祈りの場面から始まり、そこから伯母の死へと連想がつながっていく。

Oh ! qui dans une église, à genoux sur la pierre,
N’a bien souvent, le soir, déposé sa prière,
Comme un grain pur de sel ?
Qui n’a du crucifix baisé le jaune ivoire ?
Qui n’a de l’Homme-Dieu lu la sublime histoire
Dans un jaune missel ?

(朗読は25秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 1/4

日本は言うまでもなく、フランス本国においてさえ、フランス・ロマン主義文学に親しむ人は今ではごく少数になっている。サント・ブーヴ(Sainte-Beuve)の詩を読む人となると、なおさら少ないだろう。
そうした中で、彼の代表的な韻文詩の一つとはいえ、なぜ「黄色い光線(Les Rayons jaunes)」を取り上げるのかと、少し意外に思われるかもしれない。

今回この詩を取り上げるのは、その主題である「黄色(jaune)」という色が、現代人の心の動きとどこかで重なって見えるからだ。
ネット社会の中で、私たちは日々、多くの情報に囲まれて過ごしている。その流れに身を任せながら、ときどき理由もよく分からないまま、ふと気持ちが沈むことがある。何かを信じたいと思いながら、どこかで信じきれない気持ちが残る。楽しい時間を過ごしているはずなのに、それをあらかじめ「思い出作り」と言葉にしてしまう。そうした感覚に、心当たりのある人も少なくないのではないだろうか。

「黄色い光線」は一八二九年に発表された詩で、今からおよそ二百年前の作品である。それでも、この詩には、時代を超えて今の日本人の感覚にそっと触れてくる何かがあるように思われる。

そのことは、詩の冒頭に置かれたエピグラフからも感じ取れる。そこには、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』から、「さらに、あらゆるものは陰鬱で不気味な様相を帯びてくる」という一節が引かれている。
この言葉は、サント・ブーヴの詩の世界に静かな陰影を与えると同時に、読む側の心にもゆっくりと染み込んでくるように思われる。

また、せっかくフランス語で詩を読むのだから、その形式にも目を向けておきたい。
一つの詩節は六行からなり、最初の二行は十二音節、三行目は六音節である。続く三行も同様に、十二音節の二行と六音節の一行が反復される。
韻の構成は、最初の二行が平韻(AA)で、次の四行は抱擁韻(BCCB)となっている。
このように形式が非常に整っているので、フランス語詩特有の音とリズムの美しさを感じ取ることができる。

Les Rayons jaunes

Les dimanches d’été, le soir, vers les six heures,
Quand le peuple empressé déserte ses demeures
Et va s’ébattre aux champs,
Ma persienne fermée, assis à ma fenêtre,
Je regarde d’en haut passer et disparaître
Joyeux bourgeois, marchands,

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時間を前にした人間の生き方 パスカルの考え

パスカルが時間を前にした人間の生き方を考察したのは、「虚栄心(Vanité)」という枠組みの中でだった。
その意味については最後に考えることにして、まずはパスカルの考えを読み解いていこう。

彼は、人間は現在を生きず、常に過去や未来に囚われていると述べる。その考えは、16世紀の思想家モンテーニュの見解と一致している。
(参照:時間を前にした人間の生き方 モンテーニュの考え

Nous ne nous tenons jamais au temps présent . Nous anticipons l’avenir comme trop lent à venir, comme pour hâter son cours; ou nous rappelons le passé pour l’arrêter comme trop prompt : si imprudents, que nous errons dans les temps qui ne sont pas nôtres, et ne pensons point au seul qui nous appartient; et si vains, que nous songeons à ceux qui ne sont plus rien, et échappons sans réflexion le seul qui subsiste.
           (Pascal, Pensées, II Vanité, 43)

私たちは決して現在にとどまらない。未来がなかなか来ないように感じ、未来を先取りするかのように思い描くのは、その流れを早めようとするかのようだ。あるいは、あまりにも速く過ぎ去ってしまう過去を、引き留めようとする。私たちはあまりにも軽率に、自分のものではない時間の中をさまよい、ただ一つ自分に属している時間のことを考えようとしない。そしてまた、あまりにも虚しい存在であるがゆえに、もはや存在しない時を夢見ては、唯一現に続いているこの時を、思慮もなく逃してしまう。
           (パスカル『パンセ』「虚栄心」43)

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時間を前にした人間の生き方 モンテーニュの考え 

人間は「今」しか生きられない。しかも、その「今」も、「今」と意識した瞬間にはすでに消え去っている。だからこそ「今」を生きるしかないのだが、多くの場合、私たちは「過去」を思い、懐かしんだり、悔やんだりもする。また「未来」を思い描き、希望を抱いたり、不安に駆られたりもする。このように考えると、時間は決して私たちが掴むことのできる実体ではないことがわかる。

それにもかかわらず、私たちは時間に追われたり、時間にとらわれたりし、時には時間と格闘することさえある。そのためか、古代から時間についての考察は数多くなされてきた。その理由は、時間について考えることが、私たちの生き方と深く結びついているからに違いない。

16世紀フランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュ(Michel de Montaigne)は、過去や未来に心を煩わせることなく「今」に意識を集中することこそ、幸福への道であると考えているようだ。
彼は『エセー(Essais)』第1巻第3章「私たちの感情は私たちを超える(Nos affections s’emportent au delà de nous)」の冒頭で、以下のように語っている。

ちなみに、16世紀のフランス語では、まだ冠詞の用法などが定まっておらず、つづりも現代とはかなり異なっていた。
ここでは、つづりのみを現代風に改め、それ以外はモンテーニュが書いた当時のままのフランス語で、彼の言葉を読んでいこう。

Ceux qui accusent les hommes d’aller toujours béant après les choses futures, et nous apprennent à nous saisir des biens présents, et nous rassoir en ceux-là : comme n’ayant aucune prise sur ce qui est à venir, voire assez moins que nous n’avons sur ce qui est passé, touchent la plus commune des humaines erreurs ;

人間はいつも口を開けて(あこがれて)未来のことを追い求めると批難し、現在の様々な善きものを捉え、それらの中に再び腰を落ち着けるようにと、私たちに教える人々(がいる)。私たちは、これからやってくること(未来)に関していかなる力も持たず、さらに、すでに過ぎ去ったこと(過去)に関してと比べてもさえも(未来のことに関して)力を持たないのだから、彼らは、人間的な数々の誤りの中でも、もっともありふれた誤りに言及していることになる。

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 詩的散文 Nerval Voyage en Orient Ni bonjour ni bonsoir

ジェラール・ド・ネルヴァルは、目の前の現実を明晰な意識で観察し、そこから出発して、繊細な感受性と幅広い知識に支えられた、音楽性豊かな詩的散文によって独自の文学世界を築き上げた。このことは、「夢と幻想の作家」という先入観を外せば、誰にでも見えてくるだろう。

『東方紀行』(Voyage en Orient)の「ドリューズたちとマロニットたち」(Druses et Maronites)の章には、「朝と夕べ」(Le Matin et le Soir)と題された一節がある。その冒頭では、イタリアの詩人ホラティウスの詩句と、オリエントの船乗りの歌う民謡の一節が掲げられており、そうした詩や歌の調べに呼応するかのように、ネルヴァルの文も音楽性に満ちた詩的散文となっている。

Que dirons-nous de la jeunesse, ô mon ami ! Nous en avons passé les plus vives ardeurs, il ne nous convient plus d’en parler qu’avec modestie, et cependant à peine l’avons-nous connue ! à peine avons-nous compris qu’il fallait en arriver bientôt à chanter pour nous-mêmes l’ode d’Horace : Eheu ! fugaces, Posthume… si peu de temps après l’avoir expliquée… Ah ! l’étude nous a pris nos plus beaux instants ! Le grand résultat de tant d’efforts perdus, que de pouvoir, par exemple, comme je l’ai fait ce matin, comprendre le sens d’un chant grec qui résonnait à mes oreilles sortant de la bouche avinée d’un matelot levantin :

Ne kalimèra ! ne orà kali !

( Gérard de Nerval, Voyage en Orient, « Druses et Maronites », Le Prisonnier, I. Le matin et le Soir.)

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 Nerval, Voyage en Orient, description et impression 2/2

ネルヴァルは、繊細な感覚で現実を捉え、的確かつ生き生きとした描写を行い、その印象を率直でありながら詩的な散文で綴る作家だ。そのことは、カイロから出発したサンタ・バルバラ号ががベイルートの港に入港する場面を描いた一節からも実感できる。
ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 1/2

ここでは、そうした印象が、旅行者の幅広い知識と密接に結び付き、独自の文学世界を創造していく様子を、ベイルートの街を散策しながら港へと至る行程を通して見ていくことにしよう。

Le quartier grec communique avec le port par une rue qu’habitent les banquiers et les changeurs. De hautes murailles de pierre, à peine percées de quelques fenêtres ou baies grillées, entourent et cachent des cours et des intérieurs construits dans le style vénitien ; c’est un reste de la splendeur que Beyrouth a due pendant longtemps au gouvernement des émirs druses et à ses relations de commerce avec l’Europe. Les consulats sont pour la plupart établis dans ce quartier, que je traversai rapidement. J’avais hâte d’arriver au port et de m’abandonner entièrement à l’impression du splendide spectacle qui m’y attendait.

(Gérard de Nerval, Voyage en Orient, Les Femmes du Caire, VII. La Montagne, V. Les Bazars. – Le Port.)

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 Nerval, Voyage en Orient, description et impression 1/2

ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval)は、19世紀中葉にパリの場末で首を吊って世を去って以来、「夢と狂気の作家」というレッテルを貼られ、現在に至るまでその偏見は根強く残っている。そのため、彼について語られるときには常に「神秘主義」や「幻想的」といった言葉がつきまとい、何の先入観もなく彼の言葉そのものに向き合うことが難しい状況が続いている。この傾向はフランスに限らず、日本でも同様である。

しかし、ネルヴァルの言葉を無意識の色眼鏡を外して読んでみると、彼は目の前の現実を繊細な感受性でとらえ描写し、そのうえで豊かな知識と教養に支えられ、素直でありながら詩的な文章を通して独自の世界を紡ぎ出す作家であることが、ひしひしと伝わってくる。

ここでは、『東方紀行』(Voyage en Orient)の中から、エジプトのカイロを旅立った「私」が、レバノンのベイルート港に近づく船の上から眺めた光景(1)と、港に降り立って街を歩く場面(2)を紹介してみたい。

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