マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール 「サアディのバラ」 Marceline Desbordes-Valmore « Les roses de Saadi »  

19世紀のフランスにおいて、女性が詩人として生きることは決して容易なことではなかった。
そうした時代にあって、批評家サント・ブーヴをはじめ、ボードレールやヴェルレーヌたちがこぞって賞賛した女性詩人がいる。それが、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(Marceline Desbordes-Valmore: 1786 – 1859)だ。

日本でも、中原中也が昭和12年(1937年)、彼女の魅力を次のような言葉で紹介している。

ヴァルモオル夫人の詩は、身を切るような鋭い感受性から生まれた叫びや呻(うめ)きである。彼女には、詩の技術というものがほとんどなく、教養も十分ではなかった。しかし、音楽やリズムに対しては優れた感覚を持っており、読む人の心をつかむ表現力も備えていた。

この中也の言葉は、それまでフランスで語られてきた彼女への批評を集大成したようなものだが、要するに「豊かな音楽性と素直な表現で、聴く者の心をダイレクトに打つ」ということだろう。

その真骨頂とも言える実例として、今回は彼女の代表作 « Les roses de Saadi »(サアディのバラ)を取り上げたい。フランス語の詩句が持つえもいわれぬ音楽性を味わいながら、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールが紡ぎ出した詩の世界を、少しのぞいてみることにしよう。

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ネルヴァルと日本的感性 Nerval et la sensibilité japonaise

ジェラール・ド・ネルヴァルに関する無理解や誤読は、1855年の真冬、パリの場末で首を吊って死んだという事件から21世紀の現在まで続いている。

何度かの精神病院への入院や、狂気に関する記述、さらには彼の最期の姿を描いた版画やセンセーショナルな報道記事が決定打となり、ネルヴァルには「夢と狂気の作家」というレッテルが貼られ続けてきた。

いったんそうしたイメージが定着してしまうと、人々はどうしても彼の残した言葉を、夢、狂気、神秘主義といったキーワードを軸に解釈しようとする。そうした読み方の固定化は、一般の読者だけでなく、文学批評や専門研究の世界でも変わることがない。

今も続くこうした状況の中で、私は別の角度からネルヴァルを読み続けてきた。最近、日本の文化、文学、歴史、美術、精神性などをフランスに紹介するための準備をしていたところ、これまでも愛読してきたある言葉が、より深く心に響いた。それは、彼が死の間際まで書き続けていた『オーレリア』の終盤の一節で、何度読み返しても美しい。

(…) tout dans la nature prenait des aspects nouveaux, et des voix secrètes sortaient de la plante, de l’arbre, des animaux, des plus humbles insectes, pour m’avertir et m’encourager. (…) les objets sans forme et sans vie se prêtaient eux-mêmes aux calculs de mon esprit ; — des combinaisons de cailloux, des figures d’angles, de fentes ou d’ouvertures, des découpures de feuilles, des couleurs, des odeurs et des sons, je voyais ressortir des harmonies jusqu’alors inconnues.   (Gérard de Nerval, Aurélia, II, 6)

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能ある鷹は爪を隠す — 文化の違いを楽しむ

「能ある鷹は爪を隠す」という諺をフランス語に訳すとどうなるか考えていて、日本とフランスの文化、あるいは日本的精神とフランス的精神の違いに思いを巡らせることがあった。

日本語をフランス語に直訳すれば、« Le faucon talentueux cache ses serres. »

では、このフランス語の単文がフランスの文化の中で、日本語の諺が意味する「本当に力のある人間はそれを見せびらかすことなく謙虚に振る舞う」といったニュアンスを伝えるだろうか?
問題は、「隠す」という言葉がどのように受け取られるかにかかっている。

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 4/4

孤独と死への思いを具体的なイメージとして夢想したことを終点として、自分の内面を見つめる場面は終わりを迎え、意識は外に向く。夜が来たことに気づき、そして、部屋から下に降り、通りに溢れる群衆の中へと入って行く。

— Ainsi va ma pensée, et la nuit est venue ;
Je descends, et bientôt dans la foule inconnue
J’ai noyé mon chagrin :
Plus d’un bras me coudoie ; on entre à la guinguette,
On sort du cabaret ; l’invalide en goguette
Chevrote un gai refrain.

(朗読は5分18秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 3/4

愛しい伯母の死が語られた後、思いは母へとつながっていく。母はまだ生きており、「ぼく」を愛してくれている。しかしすぐに、彼女もまた、いつかは死んでいく存在であるという未来へと、連想は進んでいく。

Elle m’aimait pourtant… ; et ma mère aussi m’aime,
Et ma mère à son tour mourra ; bientôt moi-même
Dans le jaune linceul
Je l’ensevelirai ; je clouerai sous la lame
Ce corps flétri, mais cher, ce reste de mon âme ;
Alors je serai seul ;

(朗読は3分9秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 2/4

子ども時代の教会の思い出は、まず祈りの場面から始まり、そこから伯母の死へと連想がつながっていく。

Oh ! qui dans une église, à genoux sur la pierre,
N’a bien souvent, le soir, déposé sa prière,
Comme un grain pur de sel ?
Qui n’a du crucifix baisé le jaune ivoire ?
Qui n’a de l’Homme-Dieu lu la sublime histoire
Dans un jaune missel ?

(朗読は25秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 1/4

日本は言うまでもなく、フランス本国においてさえ、フランス・ロマン主義文学に親しむ人は今ではごく少数になっている。サント・ブーヴ(Sainte-Beuve)の詩を読む人となると、なおさら少ないだろう。
そうした中で、彼の代表的な韻文詩の一つとはいえ、なぜ「黄色い光線(Les Rayons jaunes)」を取り上げるのかと、少し意外に思われるかもしれない。

今回この詩を取り上げるのは、その主題である「黄色(jaune)」という色が、現代人の心の動きとどこかで重なって見えるからだ。
ネット社会の中で、私たちは日々、多くの情報に囲まれて過ごしている。その流れに身を任せながら、ときどき理由もよく分からないまま、ふと気持ちが沈むことがある。何かを信じたいと思いながら、どこかで信じきれない気持ちが残る。楽しい時間を過ごしているはずなのに、それをあらかじめ「思い出作り」と言葉にしてしまう。そうした感覚に、心当たりのある人も少なくないのではないだろうか。

「黄色い光線」は一八二九年に発表された詩で、今からおよそ二百年前の作品である。それでも、この詩には、時代を超えて今の日本人の感覚にそっと触れてくる何かがあるように思われる。

そのことは、詩の冒頭に置かれたエピグラフからも感じ取れる。そこには、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』から、「さらに、あらゆるものは陰鬱で不気味な様相を帯びてくる」という一節が引かれている。
この言葉は、サント・ブーヴの詩の世界に静かな陰影を与えると同時に、読む側の心にもゆっくりと染み込んでくるように思われる。

また、せっかくフランス語で詩を読むのだから、その形式にも目を向けておきたい。
一つの詩節は六行からなり、最初の二行は十二音節、三行目は六音節である。続く三行も同様に、十二音節の二行と六音節の一行が反復される。
韻の構成は、最初の二行が平韻(AA)で、次の四行は抱擁韻(BCCB)となっている。
このように形式が非常に整っているので、フランス語詩特有の音とリズムの美しさを感じ取ることができる。

Les Rayons jaunes

Les dimanches d’été, le soir, vers les six heures,
Quand le peuple empressé déserte ses demeures
Et va s’ébattre aux champs,
Ma persienne fermée, assis à ma fenêtre,
Je regarde d’en haut passer et disparaître
Joyeux bourgeois, marchands,

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時間を前にした人間の生き方 パスカルの考え

パスカルが時間を前にした人間の生き方を考察したのは、「虚栄心(Vanité)」という枠組みの中でだった。
その意味については最後に考えることにして、まずはパスカルの考えを読み解いていこう。

彼は、人間は現在を生きず、常に過去や未来に囚われていると述べる。その考えは、16世紀の思想家モンテーニュの見解と一致している。
(参照:時間を前にした人間の生き方 モンテーニュの考え

Nous ne nous tenons jamais au temps présent . Nous anticipons l’avenir comme trop lent à venir, comme pour hâter son cours; ou nous rappelons le passé pour l’arrêter comme trop prompt : si imprudents, que nous errons dans les temps qui ne sont pas nôtres, et ne pensons point au seul qui nous appartient; et si vains, que nous songeons à ceux qui ne sont plus rien, et échappons sans réflexion le seul qui subsiste.
           (Pascal, Pensées, II Vanité, 43)

私たちは決して現在にとどまらない。未来がなかなか来ないように感じ、未来を先取りするかのように思い描くのは、その流れを早めようとするかのようだ。あるいは、あまりにも速く過ぎ去ってしまう過去を、引き留めようとする。私たちはあまりにも軽率に、自分のものではない時間の中をさまよい、ただ一つ自分に属している時間のことを考えようとしない。そしてまた、あまりにも虚しい存在であるがゆえに、もはや存在しない時を夢見ては、唯一現に続いているこの時を、思慮もなく逃してしまう。
           (パスカル『パンセ』「虚栄心」43)

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時間を前にした人間の生き方 モンテーニュの考え 

人間は「今」しか生きられない。しかも、その「今」も、「今」と意識した瞬間にはすでに消え去っている。だからこそ「今」を生きるしかないのだが、多くの場合、私たちは「過去」を思い、懐かしんだり、悔やんだりもする。また「未来」を思い描き、希望を抱いたり、不安に駆られたりもする。このように考えると、時間は決して私たちが掴むことのできる実体ではないことがわかる。

それにもかかわらず、私たちは時間に追われたり、時間にとらわれたりし、時には時間と格闘することさえある。そのためか、古代から時間についての考察は数多くなされてきた。その理由は、時間について考えることが、私たちの生き方と深く結びついているからに違いない。

16世紀フランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュ(Michel de Montaigne)は、過去や未来に心を煩わせることなく「今」に意識を集中することこそ、幸福への道であると考えているようだ。
彼は『エセー(Essais)』第1巻第3章「私たちの感情は私たちを超える(Nos affections s’emportent au delà de nous)」の冒頭で、以下のように語っている。

ちなみに、16世紀のフランス語では、まだ冠詞の用法などが定まっておらず、つづりも現代とはかなり異なっていた。
ここでは、つづりのみを現代風に改め、それ以外はモンテーニュが書いた当時のままのフランス語で、彼の言葉を読んでいこう。

Ceux qui accusent les hommes d’aller toujours béant après les choses futures, et nous apprennent à nous saisir des biens présents, et nous rassoir en ceux-là : comme n’ayant aucune prise sur ce qui est à venir, voire assez moins que nous n’avons sur ce qui est passé, touchent la plus commune des humaines erreurs ;

人間はいつも口を開けて(あこがれて)未来のことを追い求めると批難し、現在の様々な善きものを捉え、それらの中に再び腰を落ち着けるようにと、私たちに教える人々(がいる)。私たちは、これからやってくること(未来)に関していかなる力も持たず、さらに、すでに過ぎ去ったこと(過去)に関してと比べてもさえも(未来のことに関して)力を持たないのだから、彼らは、人間的な数々の誤りの中でも、もっともありふれた誤りに言及していることになる。

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