ポール・ヴァレリー  「風の精」 Paul Valéry Le Sylphe 詩とは何か

ポール・ヴァレリーは、ステファン・マラルメの弟子であることを自認しており、詩に関する考え方も、コミュニケーション言語と詩的言語を峻別するマラルメ的なものだった。

通常のコミュニケーションにおいては、言語は発信者の意図や思考が受信者にできるかぎりスムーズに伝わることを目指している。
他方、マラルメやヴァレリーの詩を構成する言語では、言葉そのものに焦点が当てられ、詩句の音楽性も手伝って、既存のものとは違う世界像の創造が視野に置かれる。

その結果、マラルメやヴァレリーの詩は、決して読んですっと理解でき、心を動かされる詩ではない。それにもかかわらず、詩句の音楽性によっても、彼らが提示する詩的世界像によっても、高い評価を与えられている。

そうした中で、ヴァレリーが、詩とは何かを私たちに教えてくれる詩がある。それが「シルフ(Le Sylphe)」と題されたソネット(4/4/3/3)。
そこでは、詩(ポエジー)が、風の精(シルフ)の声を通して、「私は・・・」と自らについて語る。

LE SYLPHE

Ni vu ni connu
Je suis le parfum
Vivant et défunt
Dans le vent venu !

Ni vu ni connu
Hasard ou génie ?
À peine venu
La tâche est finie !

Ni lu ni compris ?
Aux meilleurs esprits
Que d’erreurs promises !

Ni vu ni connu,
Le temps d’un sein nu
Entre deux chemises !

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ボードレール 「死後の後悔」 Baudelaire « Remords posthume » ボードレール的Carpe diem

シャルル・ボードレールは、創作活動の比較的初期の時期に、ルネサンスやバロックの時代の詩を参照した詩作を行ったことがある。
「死後の後悔(Remords posthume)」はそうした詩の一つで、16世紀の詩人ピエール・ド・ロンサールがしばしば取り上げた” carpe diem “(今を掴め)をテーマにしている。時間がすぐに過ぎ去り、今は美しいあなたもすぐに年老いてしまい、死を迎えることになる。だからこそ、今この時に私を愛して欲しいと願う詩。

そのcarpe diemを軸に据えた「死後の後悔」の中で、ボードレールは、墓場と肉体の衰えを非常に具体的に描き、醜いものを美に変える彼独自の美学を実現しようとした。
さらに、14行の詩句で構成されるソネット形式(4/4/3/3)の詩において、13行目までを一つの文とし、最後の一行だけを独立させ、独特の効果を生み出した。
そのことは、ボードレールが単にロンサールの詩をモデルにしたというだけではなく、carpe diemのテーマを彼なりの視点で捉え直し、ひねりを加えたことを示している。

Lorsque tu dormiras, ma belle ténébreuse,
Au fond d’un monument construit en marbre noir,
Et lorsque tu n’auras pour alcôve et manoir
Qu’un caveau pluvieux et qu’une fosse creuse;

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レイモン・クノー 「もし思っているなら」 Raymond Queneau « Si tu t’imagines » Carpe diemのパロディ

« Si tu t’imagines »は、レイモン・クノーが1946年に出版した詩集『運命の瞬間(L’Instant fatal)』の中に収められた一編。その際のタイトルは、« C’est bien connu »。
その後、「枯葉」で知られるジョゼフ・コズマが曲をつけ、ジュリエット・グレコが歌った。

詩のテーマは、古代ローマから伝わる文学のテーマ「carpe diem(saisir le jour、今を掴め)」。
(参照:Carpe diem カルペ・ディエム 今を生きる

レイモン・クノーは、いかにも『地下鉄のザジ』の作者らしく、16世紀の詩人ピエール・ド・ロンサールの有名な詩「あなたが年老い、夕べ、燭台の横で(Quand vous serez bien vieille, au soir, à la chandelle)」などを下敷きにしながら、20世紀中頃の口語や俗語を交え、音が耳に残るパロディ作品を作り上げた。
(参照;ロンサール 「あなたが年老い、夕べ、燭台の横で」 Pierre de Ronsard « Quand vous serez bien vieille, au soir, à la chandelle » 

幸い、youtubeには、ジュルエット・グレコが1961年に東京で公演した際の映像がアップされている。彼女の表情が表現豊かに変化する様子を見るだけで、少女の瑞々しさと老婆の衰えとの対比を描いた詩句の内容が伝わってくる。だからこそ、今すぐに、「命のバラを摘め」 « cueille les roses de la vie »、と。

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フィリップ・ジャコテ 「冬の月」 「青春よ、私はお前を消耗させる」 Philippe Jaccottet « Lune d’hiver » et « Jeunesse, je te consume »

    グリニャン

フィリップ・ジャコテ(Philippe Jaccottet : 1925-2021)の詩は、非常に簡潔で透明な言葉で綴られながら、豊かなイメージの連鎖を読者の中に掻き立てる。
そんな詩は、彼が日本の俳句に興味を持っていたことと関係している。

ジャコテにとっての俳句とは、一見無意味に見える遠く離れたものの間に存在する隠れた関係を捉え、その関係を私たちに教えてれるもの。それを知ることで、私たち自身の人生が変わることさえある。
そんな考えを持つフィリップ・ジャコテは、2021年に亡くなるまで、南フランスのドローム県にあるグリニャンという小さな町に住み、身近な自然の光景を短く透明な言葉で綴ってきた。

ここでは、『アリア集(Airs)』に収められた« Lune d’hiver »(冬の月)を読んでみよう。

Lune d’hiver

Pour entrer dans l’obscurité
Prends ce miroir où s’éteint
un glacial incendie :

atteint le centre de la nuit,
tu n’y verras plus reflété
qu’un baptême de brebis

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フィリップ・ジャコテ 儚さのポエジー Philippe Jaccottet ou la poésie du petit rien

フィリップ・ジャコテ(Philippe Jaccottet)は、俳句から強いインスピレーションを受け、簡潔で直接的な言葉によって、山川草木や鳥や虫、季節の移り変わりを歌った。

『アリア(Airs)』 と題された詩集の冒頭に置かれた« Fin d’hiver(冬の終わり)»では、決して具体的な事物が描かれているわけではない。しかし、ジャコテの詩の根本に流れる通奏低音を私たちに聞かせてくれる。

まず、« Fin d’hiver »の最初の詩の第1詩節に耳を傾けてみよう。

Peu de chose, rien qui chasse
l’effroi de perdre l’espace
est laissé à l’âme errante

ほとんど何も無い 無が追い払うのは
空間を失うという恐怖
それが残されるのは 彷徨う魂

2行目の« l’effroi »(恐怖)は、1行目の« chasse »(追い払う)の目的語とも考えられるし、3行目の« est laissé »(残される)の主語とも考えられる。
そのどちらか(ou)というよりも、どちらでもある(et)と考えた方がいいだろう。

また、« rien qui chasse l’effroi …»(恐怖を追い払う無)という同格の表現によって補足された« peu de chose »(ほとんど何もない)が、«est laissé »の主語と考えることもできる。

このように、わずか三行の詩句が、巧みな構文上の工夫を施されることで、複数の解釈の可能性を生み出している。
そのことは、わずか17音で構成される俳句が、単純な事実の描写を超えて、深い人間的な真実を捉える可能性を持つことと対応していると考えてもいいだろう。

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プルースト「見出された時」 Proust Le Temps retrouvé 現実という隠喩

プルーストが私たちの教えてくれるものの中で最も根本的なのは、現実は重層的なものだという認識である。今体験している現実には、過去の記憶が含まれると同時に、未来の出来事の先駆けともなる。
そして、そうした現実のあり方は、言語のあり方とも対応する。言葉も一元的な意味を指し示すだけではなく、隠喩的な働きをする。つまり、直接的な意味とは異なる意味を暗示し、重層的な世界像を作り出す。

『失われた時を求めて(À la recherchue du temps perdu)』はそうした現実認識と言語観に基づいて構成されているのだが、最終巻である『見出された時(Le Temps retrouvé)』に至り、その仕組みが読者にはっきりとわかる形で伝えられていく。
ここではその一端を読み解いていこう。

Une image offerte par la vie nous apporte en réalité, (…) des sensations multiples et différentes. La vue, par exemple, de la couverture d’un livre déjà lu a tissé dans les caractères de son titre les rayons de lune d’une lointaine nuit d’été. Le goût du café au lait matinal nous apporte cette vague espérance d’un beau temps qui jadis si souvent, pendant que nous le buvions dans un bol de porcelaine blanche, crémeuse et plissée, qui semblait du lait durci, se mit à nous sourire dans la claire incertitude du petit jour.

現実の生活の中で目にする物の姿は、実際、数多くの異なった感覚をもたらす。例えば、すでに読んだことのある本の表紙を見ることは、その題名の文字の中に、ずっと以前の夏の夜に見た月の光を織り込むことだった。朝のカフォオレの味は私たちに、いい天気になるだろうという漠然とした期待をもたらす。かつて何度も、朝カフェオレを飲んでいる時、お椀の白い瀬戸物はクリーム状で皺がより、凝固した牛乳のように見えたが、いい天気を期待する思いが、早朝の不確かな光線の中で、私たちに微笑み始めたのだった。

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プルースト 「花咲く乙女たちのかげに」Marchel Proust « À l’ombre des jeunes filles en fleurs »  複数のアルベルティーヌと複数の私

マルセル・プルーストは心理の分析にかけても超一流の作家であり、『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』は私たち読者に、人間とはどのような存在なのか、様々な側面から教えてくれる。

ここでは、第二篇『花咲く乙女たちのかげに(À l’ombre des jeunes filles en fleurs)』の中に登場するアルベルティーヌ(Albertine)の姿をたどりながら、一人の人間の中に様々な人格が混在し、そのどれもが彼女の姿であるということを見ていこう。

最初の部分では、アルベルティーヌの6つの状態に言及される。そこで注意したいことは、どれもが単なる外見の変化ではなく、心と身体のどちらにも関係する生命現象、つまり生理学(phisiologie)的な表現になっていることである。

(1)悲しみ

Certains jours, mince, le teint gris, l’air maussade, une transparence violette descendant obliquement au fond de ses yeux comme il arrive quelquefois pour la mer, elle semblait éprouver une tristesse d’exilée.

何日かの間、ほっそりとした体つきで、顔がくすみ、無愛想な様子をし、スミレ色の透明な光が、時に海でもそうしたことがあるように、斜めに彼女の目の奥に落ちかかり、彼女(アルベルティーヌ)は、追放された女性の悲しみを感じているようだった。

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クローデル 『百扇帖』 Paul Claudel Cent phrases pour éventails 詩の息吹から沈黙の詩へ

ポール・クローデルが俳句からインスピレーションを受けて創作した短詩を収めた『百扇帖』の中には、扇を仰ぐ時に動く空気の流れと詩(ポエジー)を重ね合わせ、その創作原理が詩という形で表現されているものがある。

Que le souffle de l’éventail disperse les mots et ne laisse passer que ce qui touche

扇の息吹が 言葉を撒き散らし、通っていくのは、(こころに)触れるものだけでありますように

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ボードレール 「風景」 Baudelaire « Paysage » 都市の情景を創造する

『悪の華(Les Fleurs du mal)』は1857年に裁判にかけられ、社会の風紀を乱すものとして、100編の内の6編の詩の削除が命じられた。

その後、ボードレールは、1861年に『悪の華』第2版を出版するにあたり、新たに32編の詩を加えると同時に、「パリ情景(Tableaux parisiens)」と名付けた新たな章を作り、1857年の初版とは異なる様相を示す詩集とした。

「風景(Paysage)」は、その新たな章である「パリ情景」の冒頭に置かれ、ボードレールの描き出す都市風景がどのように生成されるのかを示す役割を果たしている。
別の言い方をすると、この詩は、「私(Je)」と名乗る詩人が、パリの情景をテーマとする詩を「創作する(composer)」姿を描いているのだといえる。

まず、最初の8詩行を読んでみよう。

Je veux, pour composer chastement mes églogues,
Coucher auprès du ciel, comme les astrologues,
Et, voisin des clochers écouter en rêvant
Leurs hymnes solennels emportés par le vent.
Les deux mains au menton, du haut de ma mansarde,
Je verrai l’atelier qui chante et qui bavarde;
Les tuyaux, les clochers, ces mâts de la cité,
Et les grands ciels qui font rêver d’éternité.

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ボードレール 「宝石」 Baudelaire Les Bijoux 官能を刺戟する美

1857年に『悪の華(Les Fleurs du mal)』が裁判にかけられた時、検事エルネスト・ピナールは「宝石(Les Bijoux)」の第5−7詩節を取り上げ、「猥褻であり、公共の道徳を傷つける絵画(peinture lascive, offensant la morale publique)」という言葉で批難した。

その言葉は、二重の意味で、「宝石」という詩を的確に表現している。
一つは、19世紀の基準から見ると、猥褻で非道徳的なテーマを扱ってること。
「最愛の女(ひと)は裸だった(La très chère était nue)」という出だしが、全てを物語っている。

Delacroix, Femme carressant le perroquet

もう一つは、ボードレールが、造形芸術(art plastique)、具体的に言えば絵画(peinture)を、詩の世界に置き換えようとしたこと。
詩人は、ドラクロワの絵画「オウムを愛撫する女性」を頭に置きながら、それを単に描写するのではなく、詩として表現したのではないかと考えられている。

絵画においてであれば、理想化された女神の姿という理由で許されている裸体(ヌード)が、詩においても許されていいはず。詩人はそんな風に考えたのかもしれない。

Ingres, Jupiter et Antiope

その際、裸体を描く詩句は、古典的な均整を保ち、ほぼ全ての詩句が6//6のリズムを刻んでいく。
従って、様式は、ロマン主義のドラクロワというよりも、古典主義のアングル的といっていいかもしれない。
アングルの「ジュピターとアンティオペ」を見ると、「オウムを愛撫する女性」との違いがよくわかるだろう。
実際、「宝石」は、詩句の姿としては6/6のリズムでしっかりと輪郭が形作られ、端正に描かれた印象を生み出している。
こう言ってよければ、「宝石」の語る内容はドラクロワ的だが、形式はアングル的だ。


第1詩節は正確に6//6のリズムを刻みながら、裸体の女性を描き出していく。

La très chère était nue, // et, connaissant mon cœur,
Elle n’avait gardé // que ses bijoux sonores,
Dont le riche attirail // lui donnait l’air vainqueur
Qu’ont dans leurs jours heureux // les esclaves des Maures.

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