フランスではルイ14世自身がバレエを踊るなど、バレエは優雅な芸術として受け入れられていた。
その古典的な伝統を破壊し、露骨な表現を交え、新しい時代のバレエへと変革する動きの先頭に立ったのが、セルゲイ・ディアギレフに率いられたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)。
1912年5月に初演された「牧神の午後」では、バレエ・リュスの花形ダンサーであるヴァーツラフ・ニジンスキーが振り付けを担当し、主役である牧神の役も務めた。
この映像は1921年の初演の一部。
フランスではルイ14世自身がバレエを踊るなど、バレエは優雅な芸術として受け入れられていた。
その古典的な伝統を破壊し、露骨な表現を交え、新しい時代のバレエへと変革する動きの先頭に立ったのが、セルゲイ・ディアギレフに率いられたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)。
1912年5月に初演された「牧神の午後」では、バレエ・リュスの花形ダンサーであるヴァーツラフ・ニジンスキーが振り付けを担当し、主役である牧神の役も務めた。
この映像は1921年の初演の一部。

「ミルト(Myrtho)」はネルヴァルの中編小説集『火の娘たち(Les Filles du feu)』(1854)の最後に挿入された「幻想詩篇(Les Chimères)」の中のソネット(4/4/3/3の14行で構成される詩)。
「幻想詩編」は、ネルヴァルの精神が混乱し、彼自身の言葉を使うと、「ドイツ人なら超自然主義と呼ぶような夢想状態で」創作されたために、理解が難しいと考えられることが多い。
「最後の狂気は自分を詩人だと思い込んでいること」という告白らしい言葉を残しているのだから、ますます、「幻想詩編」の詩句が混沌としていると信じられてきた。
確かに、読んですぐに理解でき、詩としての味わいを感じられる、ということはないだろう。
しかし、先入観を持たずに読んでいると、分かりにくさの理由は精神の混乱によるのではないことがわかってくる。理解を困難にしている第一の理由は、わずか14行の詩句に、地理、神話、宗教、歴史などに関する知識が埋め込まれていることから来る。
実際、ネルヴァルは博識な詩人であり、各種の豊かな知識を前提として創作を行った。しかも、彼と同じように博識な読者を煙に巻き、面白がるところがある。
「幻想詩編」は、「ヘーゲルの哲学ほどではないが理解が難しく、しかも、解釈しようとすると魅力が失せてしまう。」とネルヴァルが言うのも、皮肉とユーモアの精神からの発言に違いない。

「ミルト」の場合には、ポジリポ、イアッコス、ヴェルギリウスなどにまつわる知識が、ネルヴァル独自の連想を呼び起こし、一見混沌とした世界を浮かび上がらせる。
しかし、その一方で、詩の形式に関しては、非常にバランスが取れ、古典主義的な抑制がなされている。
12音節の詩句(アレクサンドラン)は、基本的に6/6で区切れ、リズムが均一に整えられている。
韻の形は、2つの4行詩(カトラン)では、ABBA ABBAで、2つの音。
enchanteresse – tresse – ivresse – Grèce / brillant – Orient – souriant – priant
3行詩(テルセ)に関しても、CDC DDCで、こちらも2つの音だけ。
rouvert – couvert – vert / agile – argile – Virgile
その上、韻となる母音の前後の子音や母音も重複し(rime riche)、声に出して読んでみると、それらの単語が互いにこだまし、豊かに響き合っていることがはっきりとわかる。
このように、「ミルト」の詩句は安定したリズムと豊かな音色で輪郭が明確に限定されていて、狂気による混乱などどこにもない。
朗読を聞くか、あるいは自分で声に出して読んでみると、単調なリズムを刻む中、心地よいハーモニーが奏でられていることを実感できる。

膨らめた「思い出」の最後、獲物のニンフは逃げ去ってしまう。そこで牧神は、それまでの思いを断ち切るかのように「仕方がない(Tant pis)!」と口に出し、意識を他所の向けようとする。
Tant pis ! vers le bonheur d’autres m’entraîneront (93)
Par leur tresse nouée aux cornes de mon front :
Tu sais, ma passion, que, pourpre et déjà mûre,
Chaque grenade éclate et d’abeilles murmure ;
Et notre sang, épris de qui le va saisir,
Coule pour tout l’essaim éternel du désir.
仕方がない! 幸福に向かって、別の女たちが、おれを連れていってくれるだろう、(93行目)
彼女たちの髪を、おれの額の角に結んで。
お前は知っている、おれの情念よ、真っ赤に色づき、すでに熟した、
一つ一つのザクロが破裂し、蜜蜂でざわめいているのを。
おれたちの血は、それを捉えようとする者に夢中になり、
流れていく、欲望の永遠の群全体のために。

空のブドウの房に息を吹き込み、そこから立ち上る旋律がもたらす酔いを熱望すると語った後、62行目になると、牧神はニンフたちに、思い出(SOUVENIRS)を再び膨らめようと語り掛ける。
その際、SOUVENIRSという言葉が大文字で書かれる。その大文字は、25行目でシチリア島の岸辺に向けて「CONTEZ(物語ってくれ)」と言ったことを思い出させる。
ここで息を吹き込み膨らめる思い出は、必ずしも現実に起こったことを思い出すのではなく、牧神とシランクスの神話に基づいた物語あるいはフィクションである可能性もある。
そのSOUVENIRSは63行目から92行目まで続くが、3つの部分に分けられる。
最初(63-74)と最後(82-92)は直接話法を示すカッコが使われ、文字はイタリック体に置かれる。その間に置かれた2番目の部分(75-81)は、地の文に戻る。
思い出は、森の中で宝石を思わせる美しい存在を目にすることから始まる。
Ô nymphes, regonflons des SOUVENIRS divers. (62)
» Mon œil, trouant les joncs, dardait chaque encolure
» Immortelle, qui noie en l’onde sa brûlure
» Avec un cri de rage au ciel de la forêt ;
» Et le splendide bain de cheveux disparaît
» Dans les clartés et les frissons, ô pierreries !
» J’accours ; quand, à mes pieds, s’entrejoignent (meurtries (68)
» De la langueur goûtée à ce mal d’être deux)
» Des dormeuses parmi leurs seuls bras hazardeux :
» Je les ravis, sans les désenlacer, et vole (71)
» À ce massif, haï par l’ombrage frivole,
» De roses tarissant tout parfum au soleil,
» Où notre ébat au jour consumé soit pareil.
おお、ニンフたちよ、再び膨らめよう、様々な「思い出」を。 (62行目)
「おれの眼差しは、葦の茂みを穿ち、一つ一つの首筋を射貫いた、
その不死の首筋は、波の中に沈める、焼けた跡を、
森の上の空に向かい、怒りの叫び声を上げながら。
そして、水と溶け合う髪の輝かしい塊が、消え去っていく、
光と震えの中に、おお、宝石よ!
おれは駆け寄る。おれの足元で、絡み合うのは、(傷ついている、(68行目)
二人であるという傷みから味わう倦怠によって、)
眠る女たち、彼女たちの危険をはらむ腕だけが彼女たちを取り込む。
おれはあいつたちを捕まえる、二人を引き離すことなく、そして飛んで行く、 (71行目)
あの茂みへと、気まぐれな木陰に憎まれ、
太陽の下、香り全てを涸らしてしまうバラたちの茂みへと。
そこで、おれたちのお遊びは、燃え尽きた日差しに似たものになる。」

38-51行の詩句から構成される詩節において、牧神は、最初、夢の中のニンフたちとの感覚的な接触に思いをはせるが、次にはそれらの思いを振り払い、双子の葦から生まれる音楽の秘法(arcane)について語る。
次の詩節(52-61行)では、音楽についてさらに考察が深められ、空のブドウの房(la grappe vide)から発せされる音楽の中で、陶酔を希求する(avide d’ivresse)牧神の姿が浮かび上がる。
ドビュシーが作曲した「シランスク」を耳にすると、マラルメが求めた陶酔をしばしの間感じることができる。
詩句を読む前に、ほとんど無調で単調とも感じられる単旋律の調べが夢想へと誘うフルートの独奏に耳を傾けてみよう。

第23行目から、牧神は突然シチリア島にある沼地の岸辺に話しかける。
シチリア島は、長靴の形をしたイタリアの先端に位置し、ギリシア文明との関係が深く、古代文明を彩る神話の世界を連想させる。
Ô bords siciliens d’un calme marécage
Qu’à l’envi des soleils ma vanité saccage,
Tacites sous les fleurs d’étincelles, CONTEZ
おお、静かな沼の、シチリア島の岸辺、
そこを、太陽と競い合い、おれの虚栄心が荒廃させる、
キラキラと輝く花々の下で黙りこんでいる岸辺よ、”次のように語ってくれ”、

牧神は、8行目から22行目にかけて、夢で見たニンフについて具体的に語り始める。
その内容は二つに分かれ、8-13行では、泉と風よる五感の刺激から二人のニンフが生まれたのだと空想する。しかし、14-22行ではその考えを否定し、牧神の持つ笛(ma flûte)の二つの管から発する音=息吹に思いをはせる。
こうした考察を開始する8行目の詩句は、前の4音節(Réfléchisson)と続く8音節と分断され、その間に「余白」が挿入されている。
Réfléchissons…
ou si les femmes dont tu gloses
Figurent un souhait de tes sens fabuleux !
Faune, l’illusion s’échappe des yeux bleus
Et froids, comme une source en pleurs, de la plus chaste :
Mais, l’autre tout soupirs, dis-tu qu’elle contraste
Comme brise du jour chaude dans ta toison ?
よく考えてみよう・・・
もしもお前の悪く言う女たちが
お前の驚くべき感覚の願望を形にしているのだとしたら!
牧神よ、幻が逃れ出ていく 青く
冷たい目から、涙の泉のように、このうえなく清らかな女の目から。
だが、もう一人の女はため息ばかり、お前はこう言うのか? 彼女は対照をなす、
日中の風のように、お前の体毛の中で熱を発する風のように、と。

ステファン・マラルメの「牧神の午後 田園詩(L’Après-midi d’un faune / Églogue)」は、1876年にエドワード・マネの挿絵入りで出版され、1894年にはクロード・ドビュッシーが「牧神の午後への前奏曲」を作曲した。
そうした状況は、この詩が、言語の持つ絵画性と音楽性の結晶であることを明かしている。
この田園詩(églogue)は、一人の牧神(un faune)の独白だけで構成されている。その牧神は、二人のニンフの夢を見ていたような感覚を抱きながら、今まさに目覚めようとしている。

その夢は、辺りを取り囲むバラの花々から生まれたのか? 冷たい泉と温かいそよ風に刺戟された五感の官能による幻影なのか?
そうした半ば目覚め半ば眠った状態で思い描く映像が、音楽性豊かな詩句によって語られていく。
その詩句は、「音楽から富を取り戻す」ことを熱望したマラルメの主張の実例だといえる。
実際のところ、マラルメの詩句はフランス語を母語とする読者でも理解するのが難しく、それ以外の読者が読むためには非常に大きな困難が伴う。あまりに難しくて、途中で投げ出したくなることもある。
しかし、翻訳では、詩句の音楽性を感じる喜びを味わうことは、決してできない。
分からないことがあったとしても、フランス語でマラルメの詩を読み、言葉1つ1つを掘り下げながら、同時に言葉の音楽を聞く体験は、努力の報いとして十分なものだ(と思う)。
まず最初に、牧神の独白の最初の3行を読んで見よう。
12音節からなる詩句の区切りを「余白」が強調することで、3行が5行になっていることがはっきりと示され、視覚的にもリズムが強く刻まれることに気づくだろう。
Le Faune
Ces nymphes, je les veux perpétuer.
Si clair,
Leur incarnat léger, qu’il voltige dans l’air
Assoupi de sommeils touffus.
Aimai-je un rêve ?
牧神
あのニンフたちを、永遠のものにしたい。
あんなに明るい、
彼女たちの軽やかな肉体の色、それが空中をひらひらと舞う
生い茂る夢でまどろむ空中を。
おれは一つの夢を愛したのか?