マラルメ 牧神の午後 Mallarmé L’après-midi d’un faune 1/6 詩という音楽

ステファン・マラルメの「牧神の午後 田園詩(L’Après-midi d’un faune / Églogue)」は、1876年にエドワード・マネの挿絵入りで出版され、1894年にはクロード・ドビュッシーが「牧神の午後への前奏曲」を作曲した。
そうした状況は、この詩が、言語の持つ絵画性と音楽性の結晶であることを明かしている。

この田園詩(églogue)は、一人の牧神(un faune)の独白だけで構成されている。その牧神は、二人のニンフの夢を見ていたような感覚を抱きながら、今まさに目覚めようとしている。

その夢は、辺りを取り囲むバラの花々から生まれたなのか? 冷たい泉と温かいそよ風に刺戟された五感の官能による幻影なのか?
そうした半ば目覚め半ば眠った状態で思い描く映像が、音楽性豊かな詩句によって語られていく。
その詩句は、「音楽から富を取り戻す」ことを熱望したマラルメの主張の実例だといえる。

実際のところ、マラルメの詩句はフランス語を母語とする読者でも理解するのが難しく、それ以外の読者が読むためには非常に大きな困難が伴う。あまりに難しくて、途中で投げ出したくなることもある。
しかし、翻訳では、詩句の音楽性を感じる喜びを味わうことは、決してできない。
分からないことがあったとしても、フランス語でマラルメの詩を読み、言葉1つ1つを掘り下げながら、同時に言葉の音楽を聞く体験は、努力の報いとして十分なものだ(と思う)。

まず最初に、牧神の独白の最初の3行を読んで見よう。
12音節からなる詩句の区切りを「余白」が強調することで、3行が5行になっていることがはっきりと示され、視覚的にもリズムが強く刻まれることに気づくだろう。

Le Faune


Ces nymphes, je les veux perpétuer.

                      Si clair,
Leur incarnat léger, qu’il voltige dans l’air
Assoupi de sommeils touffus.

              Aimai-je un rêve ?

牧神


あのニンフたちを、永遠のものにしたい。
               
                  あんなに明るい、
彼女たちの軽やかな肉体の色、それが空中をひらひらと舞う
生い茂る夢でまどろむ空中を。

               おれは一つの夢を愛したのか?

12音節の詩句の区切れは6//6が基本であり、その上に様々な区切れが入れられることで、多様なリズムが作り出される。

Ces nymphes (3) / je les veux // perpétuer (7) / Si clair (2) (per/pé/tu/er – 4)
Leur incarnat léger (6) // qu’il voltige dans l’air (6)
Assoupi de sommeils // touffus (8) / Aimai-je un rêve (4) (j(e) un – 1)

このように、2行目の6/6を10(3/7)/2と8/4の詩句が挟むことで、独特のリズム感が生まれる。
しかし、それだけではなく、si clairは、1行の余白を入れた後で、独立した行として書かれる。
また、最後のaimai-je un rêveも、1行の余白を入れて書かれ、次にまた余白が入れられて4行目に続く。

そのリズムによって、1行目のces nymphes / je les veux perpétuer(10)と、3行目の最後の4音節(aimai-je un rêve)にアクセントが置かれる。
そのリズムは、ニンフを目覚めてからも見続けていたいという牧神の願いが、一つの夢を愛したことではないのかという問いかけと意味的に対応することを強調する。

しかも、願いを示す動詞の時制は現在(je veux)に、愛したのかと問いかける動詞の時制は単純過去(aimai)に置かれ、「現在とは繋がりのない過去」の出来事を「現在」に再現し、永遠なものとして(perpétuer)継続させたいという願いが、この3詩行の中で接続される。

詩句の構文に関しては、« si clair, leur incarnat léger qu’il voltige »は動詞が欠けたに非文法的な文だが、しかし、si…queがはっきりしているために、« leur incarnat est clair »のestを省いても、理解はそれほど難しくはない。

ここで構文よりも問題になるのは、単語と単語の意味のつながりだろう。
ニンフたちの肉体の色(incarnat)がクルクルと舞う(voltiger)ことや、空中(l’air)がまどろむ(assoupi)とはどういうことか? 生い茂る夢(sommeils touffus)とは何か?

こうした部分には一つの正解があるわけではなく、読者が自らの感受性や想像力によって自分なりの意味を見つけていくことが求められる。
ニンフたちの瑞々しいバラ色の肌を思い描き、そこに軽さ(léger)を付け加える。つまり、どっしりとして、重々しくはない状態。
その色がたいへんに明るい(si clair…que)ので、肌の色が空中を旋回している(voltiger)ように見える。

その一方で、空中は、目覚めつつある牧神の半醒半睡の状態を反映しているかのように、まどろんでいるように感じられる。
その眠り(sommeils)は、木々が生い茂るように繁っている(touffus)。touffusという形容詞は、牧神の状態が覚醒よりも、まだ眠りに近いことを示すと考えられる。

このようにして、単語一つ一つをたどりながら、一人一人の読者が各自でイメージを描き出していくことが求められている。


牧神にとって、目覚めつつある今は現在であり、現実。それに対して、これまで見ていた夢は過去に属し、現実性が疑わしい。
その二元論を前提にして、牧神は、夢に現れるニンフを永遠の存在にしたいと望む一方で、「夢を愛したのだろうか (Aimai-je un rêve)?」と自問する。
その問いは、4行目になり、Mon doute(おれの疑い)と言い換えられる。

Mon doute, amas de nuit ancienne, s’achève
En maint rameau subtil, qui, demeuré les vrais
Bois mêmes, prouve, hélas ! que bien seul je m’offrais
Pour triomphe la faute idéale de roses —

おれの疑いは、太古の夜のような塊だが、それがいま終わろうとしている、
数多くの細かな葉の茂みとなって。その茂みは、まさに真実の
木々のままであり、証明している、何と悲しいことか! おれ一人が自らに捧げたということを、
勝利の印として、バラたちの理想化された過ちを。

疑い(mon doute)が数多くの枝(maint rameau)の状態(en)になって終わる(s’achève)。それは何を意味するのか?
表現を字面だけを追っただけでは、理解困難と言わざるをえない。

牧神(faune)は、ニンフとの戯れが夢だったのではないかと疑いながら、目を覚ましつつある。そして、覚醒が進むにつれて、彼を取り囲む木々が目に入ってくる。細かな(subtil)葉の茂み(rameau)だ。
そうした状況を思い浮かべると、「疑いが茂みに変わって終わる」とは、意識が外に向かい、自分の周囲を取り囲む世界を認識する過程を指していることがわかる。

では、douteと同格に置かれたamas de nuit ancienneとは何か?
先ほど見たように、覚醒時が現在であり、その前に見ていた(と思われる)夢は過去に属する。そこで、nuit ancienne(太古の夜)とは夢を指していると推定できる。

もしそうした夜が何度もあり、それが積み重なるのであれば、(amas de) nuis anciennesと複数になるはずだが、ここではde nuit ancienneと無冠詞の単数。
従って、nuitは具体的な夜を指すのではなく、amas(集積)の性質を示していると考えられる。つまり、夢を愛したのではないかという疑いは、夜の間に見た夢の重さをずっしりと感じさせるのだ。

このように、4行目と5行目の前半部分は意味的に一つの流れを形作っているのだが、その統一は、amasを初めとして、[ a ]の音の反復(アソンアンス)によって、耳にも届けられる。

Mon doute (3) / amas de // nuit ancienne (7) / s’achève (2)
en maint rameau subtile (6) //

。。。。。。

続く5行目の後半から7行目の最後では、現実の木々と観念的な世界の二元性がクローズアップされる。

牧神に見える木々が現実であることは、les vrais bois(本物の木々)という表現で示される。
それに対して、細かな枝(rameau subtil)が証明する(prouve)という表現は、観念の次元での出来事を暗示する。

そこでは、牧神は自分一人だけ(bien seul)、バラたちの理想化された過ち(la faute idéale de roses)を、勝利の印として(pour triomphe)、自らに贈った(je m’offrais)のだという。
木立がそのことを証明するとはどういうことだろう?

半醒半睡の状態で過ち(faute)を犯すとすれば、それは、現実の木々をバラだと空想することだろう。そのバラたちは、夢の中ではニンフの姿で目にしたかもしれない。
牧神は、現実の木々をバラと見なすという錯誤(faute)を犯す。さらにはニンフを夢見ることは、現実を理想化(idéal)したといってもいいだろう。

牧神とは理想化という過誤を犯す存在なのだ。ちょうど詩人が日常の言語を詩的言語に変えるという過誤を犯すように。

確かな現実が存在するという認識は、夢を非現実な存在として現実の外に押しやり、夢など偽りだと訴える。
牧神も完全に目覚めた後には、そうした認識に達するだろう。

ニンフとの夢は、その直前の状態にある。


クロード・ドビュシーの「« 牧神の午後 »への前奏曲」は、マラルメの詩を前提に作曲されているだけに、夢と現実の間のゆらめきを見事に表現している。
エルネスト・アンセルメ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団の演奏(1957年)で聴いてみよう。

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