マラルメ 牧神の午後 Mallarmé L’après-midi d’un faune 2/6 人工のインスピレーション

牧神は、8行目から22行目にかけて、夢で見たニンフについて具体的に語り始める。
その内容は二つに分かれ、8-13行では、泉と風よる五感の刺激から二人のニンフが生まれたのだと空想する。しかし、14-22行ではその考えを否定し、牧神の持つ笛(ma flûte)の二つの管から発する音=息吹に思いをはせる。

こうした考察を開始する8行目の詩句は、前の4音節(Réfléchisson)と続く8音節と分断され、その間に「余白」が挿入されている。

Réfléchissons…

                        ou si les femmes dont tu gloses
Figurent un souhait de tes sens fabuleux !
Faune, l’illusion s’échappe des yeux bleus
Et froids, comme une source en pleurs, de la plus chaste :
Mais, l’autre tout soupirs, dis-tu qu’elle contraste
Comme brise du jour chaude dans ta toison ?

よく考えてみよう・・・

                              もしもお前の悪く言う女たちが
お前の驚くべき感覚の願望を形にしているのだとしたら!
牧神よ、幻が逃れ出ていく 青く
冷たい目から、涙の泉のように、このうえなく清らかな女の目から。
だが、もう一人の女はため息ばかり、お前はこう言うのか? 彼女は対照をなす、
日中の風のように、お前の体毛の中で熱を発する風のように、と。

(朗読は、46秒から)

よく考えてみよう(Réfléchissons)と言った後、フォーヌよ(Faune)という呼びかけがあり、お前(tu)とは牧神自身であることが明示される。

その中で、夢に出てくる女たち、つまりニンフが、五感の刺激によって生まれる官能を形にした(figurer)ものではないかと考える。
というのも、牧神の感覚(tes sens)はとりわけ鋭く、驚くべき(fablueux)ものだからだ。

その感覚の刺激によって生み出される官能の形象化されたものを、マラルメはここでニンフ(nymphes)と言わず、女たち(femmes)と呼ぶ。
その理由は音色にある。
詩における音楽性を何よりも重視する詩人は、この一節で [ f ]の音の子音反復(アリテラシオン)を用い、ポイントとなる言葉を音によって結び付けるからだ。
réFléchissons – Femmes – Figurent – Fabuleux – Faune

次に、二人のニンフについて語られる。
このうえなく清らかな女(la plus chaste)の目(yeux)の青さ(bleus)と冷たさ(froids)は、泉(une source)を連想させる。

もう一人の女(l’autre)は対照的であり(contraster)、日中のそよ風(brise du jour)が暑い(chaud)なのは、牧神の体をおおう体毛に触れたためだと考えられ、強い官能性が感じられる。
l’autre tout soupirs(もう一人はため息ばかり)という表現は文法的には不自然だが、女性が激しく息をする様子がtoutによって強調され、tout soupirsとla plus chasteとのコントラストが明確にされている。

いずれにしても、こうした形象が幻かもしれないという疑いは、清らかなニンフの目から逃れ去る(s’échappe)幻影(l’illusion)という言葉によって暗示されている。


次に官能が生み出す幻影という考えを否定し、14-22行にわたり、牧神の持つ笛の二つの管から発せられる息吹きではないかという考えが提示される。

Que non ! par l’immobile et lasse pâmoison
Suffoquant de chaleurs le matin frais s’il lutte,
Ne murmure point d’eau que ne verse ma flûte
Au bosquet arrosé d’accords ; et le seul vent
Hors des deux tuyaux prompt à s’exhaler avant (18)
Qu’il disperse le son dans une pluie aride,
C’est, à l’horizon pas remué d’une ride,
Le visible et serein souffle artificiel
De l’inspiration, qui regagne le ciel.

そんなことはない! じっと動かず疲れ果ててぼうっとなり、
灼熱に息がつまる、清々しい朝、たとえその朝が戦うとしても、
水のざわめきを立てることはない、おれの笛が注ぐことのない水の音を、
和音の撒かれた木立に。一陣の風が、
笛の二本の管の外へと、大急ぎで吹き出る、(18行目)
乾いた雨の中に、音を撒き散らす前に、
その風は、一筋の皺も動くことのない地平線の彼方で、
目に見える静謐な人工の息吹なのだ、
インスピレーションの息吹、天に再び達する。

そんなことはない(Que non)と強く否定した後、笛(flûte)や風(vent)や息吹(souffle)という言葉を中心にして、詩的なインスピレーションへと連想が進んでいく。

まず14-17行の詩句を理解するために、主語と動詞を取り出すと、le matin frais ne murmure point (新鮮な朝がざわめきを立てることはない)。

その朝(le matin)は清々しい(frais)はずなのに、たとえ戦ったとしても(s’il lutte)、par la pâmoison(ぼうっとして、気を失って)、suffoquant de chaleurs(暑さで息がつまり)という状況にある。
pâmoisonにつく二つの形容詞、immobile(動かない)とlasse(疲れた)は、pâmoisonした時の様子を示している。

その後、ne murmure point d’eau que ne verse ma flûteと否定が二つ重ねられ、私の笛(mon flûte)が注がない水のざわめきはない、つまり、清々しい朝に聞こえるざわめきは笛の音だけ、という説明が付け加えられる。

そして、笛の音が森の木立に(au bois)注がれる(verse)ため、木立には調和した音(accords)がふり撒かれ(arrosé)、美しいハーモニーが聞こえる。

すでに(1/6)で記したように、マラルメの詩句を理解するためには、字面を追うのではなく、一つ一つの言葉を辿り、読者一人一人の感受性と想像力によって、空白を埋めていくことが求められる。
言葉と言葉をつなぐのは、まず第一に音楽であり、意味はその後から生み出されると言ってもいいかもしれない。

清々しい朝、まだ牧神の目が覚めやらない中で、泉の水の音が森の木立に美しいハーモニーを響かせているのが聞こえる。牧神にはそのハーモニーが、自らの笛の演奏によるものだと思われる。
そうした内容を語る詩句が、水を意味するeauの音([ o ])の母音反復(アソナンス)を通して綴られていく。ちょうど、詩句に水が流れていくように。
immObile – suffOquqnt – EAU – bOsquet – accOrds

。。。。。。。

17行目の後半からは、笛の二つの管から出る息吹=音に焦点が当てられ、その音楽が地上を越えたものだという説明がなされる。

構文は、Le seul vent (…), c’est (…) le souffle (…).(一陣の風、それは息吹。)

le seul ventに続く2行の詩句は、その風が牧神の笛の二つの管(deux tuyaux)から吹き出し(s’exhaler)、雨の中に音(le son)を撒き散らす(disperse)ことを説明する。
その際、18行目の詩句では独特のリズムが刻まれ、牧神の笛の音楽の魔法の力を表している。

       … / le seul vent (4)
Hors des deux tuyaux (5) / prompt // à s’exhaler (5) / avant (2)
Qu’il disperse le son (6) // dans une pluie aride (6)

意味的に見ると、avantは次の行のqu’il disperseとつながり、avantの2音節だけが前の行に置かれている。
こうした区切れはコントル・ルジェと呼ばれ、そのリズムにより、avantの意味にアクセントが置かれることになる。
つまり、一陣の風が2つの管から外に(hors des deux tuyaux)出てくるのは、音を撒き散らす「前」だという前後関係が、詩句のリズムによって明確に示される。

笛の音が撒き散らさせるのは乾いた雨(une pluie aride)の中。
雨は水であり、乾いたと矛盾するが、そうした言葉を結び付ける語法は、撞着語法(オクシモロン)と呼ばれる。
撞着語法の効果についてはそれぞれの文脈の中で考える必要があるが、ここでは、降り注ぐ音を雨と見なすために、それが本当の雨ではないことを示すため、乾いている雨と表現したのではないかと考えることもできる。

次に、c’est以下で、その風が詩的インスピレーション(inspiration)の息吹(le souffle)であると明かされる。

その息吹の説明からは、マラルメの抱く詩の概念が、シャルル・ボードレールやエドガー・ポーの詩論に基づいていることを示している。
ポー、そしてボードレールは、詩は神からのインスピレーションを受けた詩人が直感的に書くものではなく、徹底的に構成を考え創造するものだと考えた。それが詩の原理なのだ。
(参考:マラルメ「蒼穹」初期マラルメの詩法

souffle artificiel de l’inspiration(インスピレーションの人工的な息吹)という表現は、インスピレーションが最初は神から下されるものだとしても、牧神の笛の中でart(アート)として構成されることを示している。
そして、人工的な(artificiel)息吹となることで、再び天へと上って行く(qui regagne le ciel)。

ここで、本来は目に見えない息吹にvisible(目に見える)という形容詞が付けられ、撞着語法(オクシモロン)が再び使われるのは、その息吹が詩においては文字によって表現されるからだろう。
文字は目に見えながら、しかも目に見ない音を秘めている。

では、息吹が静謐(serein)なのはなぜか?
霊感(インスピレーション)のままに創造するタイプの芸術観では、情熱のままに表現される激しい(violent)作品が生み出されるだろう。
それに対して、ポーやボードレール的な詩の原理に基づく作品は、理性的な構築物であり、牧神(マラルメ)の目には静謐なものと映るに違いない。

だからこそ、乾いた雨の中に音を撒き散らす一陣の風=息吹が吹く地平線(l’horizon)には、皺一つ(une ride)なく、じっと動かない(pas remué)。
他方で、地平線を表現する詩句は、それが伝える意味とは反対に、不安定なリズムを刻む。
C’est (1) / à l’horizon (4) / pas // remué (4) / d’une ride (3)
その矛盾が、この詩句の面白さや魅力でもある。

。。。。。。。。。。

以上で見てきたように、8行目から22行目では、牧神が夢で見た(と思う)ニンフに関して、二つの視点が示される。
最初、牧神は、ニンフたちは感覚の刺戟によって生まれた幻であり、一人は清浄で、もう一人は官能性を感じさせる存在だと想像する。
次に、その考えを打ち消し、二人は牧神が息吹を吹き込む笛の2本の管から出る音であり、それこそが詩(ポエジー)の源泉であると考える。

最初の思いは牧神の中では Que nonと否定されるが、しかしどちらか一方が肯定されるものではなく、どちらの可能性も残されている。決して一方が他方を排除するものではなく、どちらでもあると考える方が、詩句の解釈としては豊かなものになる。

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