おくのほそ道の旅に出発する前、芭蕉が旅への思いに誘われた時、最初に思い浮かべたのは、白河の関(しらかわのせき)だった。
「やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、(後略)。」
白河の関とは、奈良時代に、大和朝廷が、「陸奥(みちのく)」(=現在の東北地方)との境に設置した関所で、その関を超えることは、蝦夷(えぞ)の人々が暮らす地域に入ることだった。
平安時代以降になると、朝廷の北方進出が進み、軍事的な役割は減少した。その一方で、都から遠く離れた北方の地「陸奥」を象徴するものとなり、鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)とともに「奥州三関」の1つとされ、数多くの和歌の中で詠われる「歌枕」になった。
最初に白河の関を和歌に詠んだのは、平安時代中期の平兼盛(たいらの かねもり)だとされる。
みちのくにの白河こえ侍(はべ)りけるに
たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと
(「拾遺和歌集」)
(もしも遠く離れた都まで知らせる手段があるなら、今日、白河の関を超えたと、知らせたいものだ。もしかすると、もう都には戻れないかもしれないのだから。)
兼盛にとって、白河を超えることは、「みちのくに」に入ることを意味していた。陸奥(みちのく)は、都から距離的に遠く離れた地というだけではなく、心理的には、「未知の国」だったことがわかる。
諸国を旅して歌を詠む漂泊の歌人として知られた能因(のういん)法師は、春の季語である「霞(かすみ)」と「秋の風」の対比を通して白河の関を詠った。
都をば 霞(かすみ)とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
(「後拾遺和歌集 」)
(都を出発した時には春霞が立っていたが、白河の関に着いた時には秋風が吹いている。それほど、遠くまでやってきた。)
芭蕉はこうした伝統を踏まえた上で、白河の関を思っては「心くるわせ」、旅への思いを募らせた。
そして、実際にその地を訪れた際にも、歌枕の中に込められた古人(こじん)たちの心と自らの心を通わせたに違いない。
そして、その心を、俳句ではなく、散文によって詠ったのだった。
朗読に耳を傾けながら、詠う散文を読んでみよう。
心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便(たより)求めしも、ことわりなり。中にもこの関は三関(さんかん)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。
秋風を耳に残し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢なおあはれなり。卯(う)の花の白妙(しろたえ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。
古人(こじん)冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔(きよすけ)の筆にもとどめ置かれしとぞ。
卯の花を かざしに関の 晴着かな 曽良(そら)
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