
芭蕉と曽良は江戸を出発して以来、歌枕の地を数多く訊ねながら、仙台までやって来る。そして、「おくのほそ道」と呼ばれる小道を通った後、多賀城で壷碑(つぼのいしぶみ)を目にする。
それは多賀城の由来が刻まれた石碑で、歌枕として多くの和歌に詠み込まれたものだった。
壷碑を実際に目にした時の感激を、芭蕉は次のように綴る。
むかしよりよみ置(おけ)る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ川流て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。
芭蕉は、壷碑が「疑いなき千歳の記念」、つまり1000年前から続く姿をそのまま留めているに疑いはないと確信し、これこそが長い旅の恩恵であり、生きていてよかったと痛感し、旅の苦労を忘れるほどに感激し、涙を流しそうになる。
その歌枕が古の時代に詠われた姿のままであるのを前にし、心を深く動かされるのはごく自然なことに違いないが、感激が大きいのにはもう一つの理由があった。

その理由とは、「千歳の記念」とは正反対の、「時移り、代変じて、その跡たしかならぬ事」の存在がはっきりと意識されたこと。
その対比があるからこそ、芭蕉はますます感動したのだった。
芭蕉の俳句論の用語を使えば、「流行」があるからこそ、「不易」がますます尊くなる。
ここでとりわけ興味深いのは、多くの歌枕に関して、昔の姿を留めていないと、芭蕉が強調していることである。
時間の経過とともに変わってしまったものが数多くある。山が崩れ、川の氾濫などで道も変化し、巨石もひっくり返り、老木も若い木に取って代わられる。
芭蕉は山や川に言及し、実際に立ち会った歌枕を思い浮かべるかのようにして、「流行」を強調する。
しかし、実際にそうした地を旅していた時の芭蕉は、どうだっただろう?

例えば、しのぶの里では、しのぶもぢずりの石という大きな石が、山の上から谷に落とされ、裏表がひっくり返っている姿を目撃する。
「はるか山陰の小里に石半なかば土に埋もれてあり。」
その時の芭蕉の心持ちは、「さもあるべき事にや」。つまり、そうしたこともあるだろう、というに留まる。
笠島では、藤中将(とうのちゅうじょう))の塚を見ようと思っていたのだが、雨が強く降っているために、遠くから眺めるだけにして、とりわけこだわる様子はない。
その後、塚のある笠島を尋ねてみたいが、五月雨のために道がぬかるんで行くことができないと詠った、「笠島はいづこ五月(さつき)のぬかり道」という俳句を詠む。

武隈(たけくま)の松を訪れる時には、平安時代中期の歌人、能因法師の時代には切られてしまっていて、「松は此たび跡もなし」と詠われたことを思い出す。
しかし、その後、植え直されたり、刈られたりを繰り返し、芭蕉の時代には、「今まさに千歳の形ととのほひて、めでたき松のけしきになんはべりし」と言われ、かつての姿を回復していた。
「武隈の松にこそ、めさむる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。」
この3つの例を見ると、仙台までの旅の中で、歌枕の地の変化を目にしたとしても、芭蕉が「流行」にひどく失望した様子は描かれていない。
それにもかかわらず、多賀城の壷碑での感激を語るに際には、「失われたもの」をことさらに強調する。
そこには、「永遠なもの」に触れた時の喜びをより高めようとする意図が働いていることは明らかである。
芭蕉の弟子である向井去来(きょらい)が、師の教えの根本として次の教えを書き記している。
「蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有。是を二 ツに分つて教へ給へども、其基は一ツ也。不易を知らざれば基立がたく、流行をわきまへざれば風あらたならず。」
「千歳不易」と「一時流行」は対立するものではなく、根源は一つだという。
そのことを頭に置いた上で、「おくのほそ道」の旅の仙台までの旅程をたどると、「失われたもの」と「永遠のもの」が別々に認識されていたことがわかってくる。
平泉 — 兵(つわもの)と光堂
『おくのほそ道』の中で、「失われたもの」が最も明確に表現されるのは、平泉。
平泉は、冒頭で目的地として名前を挙げられた松島を過ぎ、太平洋側から日本海側へと向かう旅程の展開点となる場所に位置する。
歴史的に見ると、11世紀後半から12世紀後半までの約100年の間、奥州藤原家の支配の下で栄華を極め、中尊寺に象徴される優美な文化が花開いた北の都。
藤原秀衡(ひでひら)は、源頼朝(よりとも)に追われた源義経(よしつね)を保護することができるほどの勢力を誇った。
しかし、次の代の藤原泰衡(やすひら)になると、頼朝の要求を拒みきれず、義経の居館である衣川館(ころもがわのたて=高館)を襲い、義経を自殺に追い込んだ。だが、結局、頼朝軍の攻撃を受け、1189年に奥州藤原家は滅亡する。
芭蕉は、そうした歴史を、「三代(さんだい)の栄耀(えいよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして」という表現で、一気に示した。百年の栄華も一瞬の夢のようなものだ、と。
その後、秀衡と泰衡を通して、この世の「流行」の姿を具体的に伝えていく。
秀衡が跡(あと)は田野(でんや)になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形(かたち)を残(のこ)す。
金鶏山とは、秀衡が築いた富士山に模した小山で、その名称は、金でできた雄雌一対の鶏を山頂に埋めたことに由来する。
京都にも劣らないと言われた平泉の文化の中で、残っているのはその山の形だけ。
芭蕉の目に映ったのは、それだけだった。
まづ高館(たかだち)に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関(ころもがせき)を隔てて、南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
さても義臣(ぎしん)すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落としはべりぬ。
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

衣が関は、南の方向から攻撃してくる蝦夷(えみし)の侵入を防ぐため、衣川の近くに造られた関所で、歌枕の地でもあった。
また、源義経が居住した高館も近くに位置していた。
弁慶のような忠実な家来たちが城に立て籠もり、最後まで義経を守ったが、しかし、そんな名声も長くは続かない。
全ては過ぎ去ってしまう。
そんな思いを芭蕉は、杜甫(とほ)の「春望(しゅんぼう)」の一節を引用して印象的に表現する。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」
そして、最後は次の詩句で終わる。
「白頭(はくとう)掻(か)いて 更に短かし / 渾(す)べて簪(しん)に 勝(た)えざらんと欲す」
(白髪になった頭を掻けば、髪は一層薄くなる / 髪がすべて、簪(かんざし)にたえきれないように なろうとしている)
現代の私たちが注意しないといけないのは、国や城といった人間の手になるものは失われるが、その一方で山河や草に象徴される自然は永遠に残るといった、近代的な解釈をしてはいけないということ。
そうではなく、国と山河、城と草の対比は、人間が作り上げたものが決して永続することはなく、結局は無に帰してしまうことを強調するものとして理解しなければならない。

芭蕉の有名な俳句で詠われる「夏草」も、決して自然の美しさを詠ったものではなく、夢が消え去った後の空しさを強調する役割を果たしている。
義経が自害を強いられた高館の跡に、今では夏草が生い茂っている。
その情景が生き生きとしていればしているほど、奥州藤原家の栄華や義経と忠臣たちの美しい絆が儚い夏の夢のように消えてしまったことが、強く心を打つ。
高館のある高台に上った芭蕉は、かぶっていた笠を脱ぎ、そこに腰を下ろして、いつまでも涙を流した。
その姿を描くに際して、「時のうつるまで」と記す。
そのことで、今芭蕉がいる時間と、平泉の栄光の時が移り去ってしまったという時間の経過が重ね合わされ、「失われたもの」を芭蕉が実感していることが、読者にもはっきりと感じられることになる。
。。。。。
全ては時間の経過とともに失われてゆく。その認識が「夏草や」の句によって強く印象付けられた後、それとのコントラストを強めるかのように、「光堂」の句が置かれる。

五月雨(さみだれ)の 降(ふり)のこしてや 光堂
この句で最も重要な言葉は、「のこして」。
五月雨は全ての物に降りかかり、押し流したり、朽ち果てさせたりする。
しかし、目の前の光堂、つまり中尊寺金色堂だけは、雨に降られなかったのか、降られても朽ちなかったのか、今でも美しい姿のまま残されている。
この句に至るまでの散文においても、金色堂が風雨にさらされ、本来は朽ちるべき物であることに言及されていた。
七宝(しっぽう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽て、すでに頽廃(たいはい)空虚(くうきょ)の叢(くさむら)と成るべきを、四面新たに囲て、甍(いらか)を覆いて雨風をしのぐ。
しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
五月雨(さみだれ)の 降(ふり)のこしてや 光堂

散り、破れ、朽ち、退廃し、空虚な草むらになるはずだったというところまでは、「夏草や」の句と同じ認識が示されている。
ところが、周囲を新しく囲いで囲み、、屋根を覆って風雨を防ぐことで、しばらくの間のことかもしれないが、「千歳の記念」となる。
平泉の紀行文の中で、芭蕉の意識は常に「失われたもの」に向かってきた。過去の栄華が華やかな物であっただけに、「兵たちの夢の跡」の無常が際立って感じられたに違いない。
その最後に至り、「千歳の記念」に触れる。
その言葉は、多賀城で壷碑を目にした時に用いたもの。その時には、「行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落つるばかりなり」というほど、感激した。
平泉においては、逆に、涙を流すのは「流行」を痛感させる夏草の前であり、「不易」に触れた時の感激は一言も記さない。
それはなぜか?
全てを「光堂」の句の中に閉じ込めるためではないだろうか?
「のこしてや」の言葉、「力ありてきこゆ。」 日光で曽良の句を評した芭蕉の表現を借りて、そんな風に言ってみたい気もする。
光堂の光は永遠の輝きを放っている。

『おくのほそ道』の前半を締めくくる平泉までの旅の中で、場所は、「失われたもの」と「永遠のもの」、「流行」と「不易」を別々に捉えてきたことがわかる。
それらが一体化し、「不易流行」という蕉風俳諧の基本的な美学になっていく過程は、日本海側を辿る後半の旅の中で描かれることになる。