
太平洋側の旅と日本海側の旅という二つの側面からなる『おくのほそ道』の中で、「象潟(きさがた)」は「松島」と対応し、芭蕉は、「松嶋は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」とした。
その対比は、決して、太平洋側(表日本)の松島が「明」で美しく、日本海側(裏日本)の象潟が「暗」で美しさが劣るといった、近代的な固定観念に基づいているわけではない。
そのことは、芭蕉が敬愛する西行の和歌を読めば、すぐに理解できる。
松島や 雄島の磯も 何ならず ただ象潟の 秋の夜の月 (「山家集」)
(確かに松島や雄島の磯の光景は美しいが、しかし、それさえも何でもないと思えてくる、象潟の秋の夜の月と比べれば。)
旅立つ前の芭蕉が何よりも見たいと思った「松島の月」でさえも、象潟の月に比べたら何のことはない。そう西行は詠った。
ここに、明暗、表裏に基づく美的判断はない。
象潟を描くにあたり芭蕉の頭にあったのは、もしかすると、吉田兼好の『徒然草』の一節かもしれない。
花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方も知らぬも、なほあはれに情け深し。
満開の花や満月だけが美しいのではなく、雨のために見えない月を見たいと望み、垂れ込めて(=家の中にこもっているために)、春が過ぎていく様を見ることができないということも、日本人の美意識に強く訴えかけてくる。
芭蕉と曽良が酒田から象潟に向けて出発したのは、旧暦の6月15日、現在の暦だと7月31日のこと。
朝から小雨が続き、昼過ぎには強風になり、その日は吹浦(ふくうら)に宿泊した。そして翌日、象潟に向かったが、到着した時も雨の中だった。
雨の象潟もまたいいものだ、と芭蕉は思ったことだろう。
『おくのほそ道』を執筆するにあたり、芭蕉は松島に匹敵する散文で象潟を描き、さらに最後に二つの俳句を置いた。
(1)雨もまた奇なり
象潟は数多くの和歌で詠われた「歌枕」だが、芭蕉はまず漢詩を頭に置き、漢文調の文でその地への接近を語り始める。
江山(こうざん)水陸(すいりく)の風光(ふうこう)数尽して、今象潟(きさがた)に方寸(ほうすん)を責(せ)む。
酒田(さかた)の湊(みなと)より東北の方(かた)、山を超え、礒(いそ)を伝ひ、砂(いさご)をふみて、その際(きわ)十里、日影ややかたぶくころ、汐風(しおかぜ)真砂(まさご)を吹上げ、雨朦朧(もうろう)として鳥海(ちょうかい)の山かくる。
闇中(あんちゅう)に莫作(もさく)して、「雨もまた奇なり」とせば、雨後(うご)の晴色(せいしょく)またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝(ひざ)をいれて雨の晴るるを待つ。

最初の文は、ほとんど漢詩といってもいい。
「江山水陸風光数尽 /今象潟方寸責」
これまで、江(=海)や山、水辺や陸地の美しい風景を数多く見てきた。今まさに象潟に向かいながら、それらを超えるほど美しい風景を見ることができると思うと、胸の中の小さな一寸四方の「方寸」(=心)が締め付けられ、心がはやる。
こんな間延びした私の散文と比べ、芭蕉の漢文調の文はぎゅっと引き締まり、テンポよく進む。

続く酒田からの行程は、芭蕉たちの足取りをまとめたもの。
二人は、酒田を出発して北に向かい、吹浦(ふくら)の港で一泊しする。翌日は、有耶無耶(うやむや)の関を超え、昼のうちに塩越に着く。そして夕暮れになった頃、「象潟橋迄行きて、雨暮気色を見る。」と、曽良は旅日記に書いている。
その時に見た風と雨の象潟を、芭蕉は再び漢詩を思わせる対句で表現する。
漢詩的に書けば、次のようになる。
「汐風真砂吹上、雨朦朧鳥海山隠」
海の風が海岸の砂を吹き上げている。激しい雨のせいで辺りは朦朧となり、鳥海山さえ隠れて見えない。

こうした漢詩的な表現を使う理由を、芭蕉は、「雨もまた奇なり」と書き、当時の読者であれば誰にでもわかるようにする。
この言葉は、蘇軾(そしょく、別名、蘇東坡)の詩から来ている。
水光(すいこう)瀲灔(れんえん)晴(はれて)方(まさに)好(よく)
山色(さんしょく)空濛(くうもう)雨亦奇(あめもまたきなり)
欲(ほっすれば)把西湖(せいこをもって)比西子(せいしとひせんと)
淡粧(たんしょう)濃抹(のうまつ)總相宜(すべてあいよろし)
(水面にさざなみが揺れ、キラキラと輝いている。晴れた日の西湖は素晴らしい。
山の景色は霧雨が降って薄暗い。雨の日の西湖も、また珍しくいいものだ。
西湖の様子を、絶世の美女、西子(=西施)と比べて言うと、
薄化粧の時も厚化粧の時も、(晴れでも雨でも)、全て綺麗でよろしい。)
この詩を通して、晴れの松島と雨の象潟と、どちらも美しいという芭蕉の思いをすぐに読み取ることができる。
そして、先回りして言えば、なぜ「象潟はうらむがごとし」なのかや、最後に置かれた俳句の中で「雨に西施が」と詠う芭蕉の意図も、その詩によって明らかになる。
ただし、ここではすぐに西施へと話を進めるのではなく、日本の和歌の世界に戻り、「蜑(あま=漁夫)の苫屋(とまや)」という言葉で、能因法師を思い出させる。
世の中は かくても経けり 象潟の 海人(あま)の苫屋を わが宿にして (「後拾遺醜」)
(人の一生は、こんな風にして過ぎていく、象潟にある、苫(=むしろ)で囲った粗末な家に住みながら。)
芭蕉たちが訪れる能因島には、能因法師が三年間暮らしたという伝説が残り、象潟は歌枕として数多くの歌人たちによって詠われてきた。
芭蕉は、松島訪問の際と同様に、ここでも、歌枕の伝統と漢詩とを融合させ、現実にも風光明媚な情景を、言葉の力によって永遠の美として昇華させたのだった。
(2)能因、西行、神功后宮
その朝(あした)、天よく晴れて、朝日(あさひ)花やかにさし出づるほどに、象潟(きさかた)に船をうかぶ。
まず能因島(のういんじま)に船をよせて、三年幽居(ゆうきょ)の跡をとぶらひ、向(むか)ふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。
江上(こうじょう)に御陵(みささぎ)あり。神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓(みはか)といふ。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)といふ。このところに行幸(みゆき)ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。

実際の旅では、翌日の朝はまだ小雨が降っていたし、船で沖に出たのは夕方だった。しかし、紀行文の中では、朝から天気がよく、船で出かけたと書かれている。
こうしたズレからも、『おくのほそ道』が旅の忠実な記録ではなく、旅を通して芭蕉の考える俳諧がどのようなものかを表現する書であることがわかってくる。
芭蕉は、雨の象潟から晴れの象潟へと話題を移行させ、漢詩の世界から、能因の和歌を経て西行の桜へ、さらに日本の古代へと意識を向ける。
その際には、まず能因法師が3年間を過ごしたと言い伝えられる島=能因島に船で向かい、次に、西行法師作とされる和歌に言及する。
象潟の 桜は波に 埋(うず)れて 花の上漕ぐ 海士(あま)の釣り舟 (「継尾集」)

(桜の季節、象潟の海は花で一杯になる。その間を私は粗末な船で渡っていく。)
こうした和歌によって、松島に劣らぬ歌枕である象潟がまだ存在することを伝えると同時に、晴れた日も雨の日と同じように美しいという印象を作り出すことになる。
その後、水辺にある坩満寺(かんまんじ)という寺の境内で、神功后宮(じんぐうこうぐう)の墓を見るのだが、芭蕉は、この地にその皇后が訪れたということは聞いたことがなく、なぜその墓があるのかと、不思議がってみせる。
ここでのポイントは、「いかなることにや。」
芭蕉はあえて、神功后宮と干満珠寺の関係を謎めかせる。その目的は何か?

日本書紀によると、神功皇后は、三韓(新羅・百済・高句麗)への遠征の際、下関に宮を置き、戦勝祈願した。その時、海の中から神が現れ、潮の満ち引きを自由に操ることのできる「干珠・満珠」を龍神に借りるよう告げたという。
蚶満寺(かんまんじ)に伝わる伝説によれば、遠征の帰路、船が大シケにあい、象潟の沖合で漂着した。その時、神功皇后は臨月に近く、象潟で皇子(後の応神天皇)を産み、約半年をその地で過ごした。
寺の名前、「干満珠寺」は、「干珠・満珠」を皇后が持っていたことに由来する。
実際に寺を訪れた芭蕉と曽良が、その伝承を耳にしなかったとは考えにくい。
しかも、曽良は旅日記の中で、寺の名前を「蚶満寺」と記しているのに対して、芭蕉は「干満珠寺」と書き、神功皇后の「干珠・満珠」と関係付ける。
そのことからみても、芭蕉は、寺の名前の由来を知りながら、あえて、「このところに行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。」と、謎めいた言い方をする。
従って、実際に訪れた歌枕の地である象潟に、神秘的な雰囲気を付け加え、さらなる魅力を生み出すことを芭蕉は意図した、と考えていいだろう。
(3)魂をなやます美
この寺の方丈(ほうじょう)に座して簾(すだれ)を捲(まけ)ば、風景一眼(いちがん)の中に尽て、南に鳥海(ちょうかい)、天をささえ、その陰うつりて江にあり。
西は有耶無耶(うやむや)の関、路をかぎり、東に堤(つつみ)を築(きづき)て、秋田にかよふ道遥(はるか)に、海北にかまえて、浪打ち入るる所を汐越(しおこし)といふ。
江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、また異なり。
松嶋は笑(わろ)ふがごとく、象潟はうらむがごとし。
寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花
汐越(しほごし)や 鶴(つる)脛(はぎ)ぬれて 海涼(すず)し

干満珠寺の一室に座り、そこから辺り一帯の風景を眺める。そこでは、「風景一眼の中に尽て」、南、西、東、北と四方の情景が一気に広がる。
ここで注意したいことは、その風景が実写ではないということ。
鳥海山(ちょうかいさん)も、有耶無耶の関も、秋田に続く道も、汐越も、すべて実在する。しかし、当然のことながら、寺の一室から全てを見ることはできない。
さらに、芭蕉が南と記す鳥海山は南東にあり、有耶無耶の関は南、秋田は北東、汐越は西と、位置関係は実際とは違っている。
つまり、この風景描写は目の前に広がる風景を描いたものではなく、芭蕉が頭の中で思い描いた、理念的な図だということになる。
そのようにして東西南北に広がる雄大な光景を浮かび上がらせた後で、象潟の入り江に視点が絞り込まれ、「江の縦横一里ばかり」と大きさが示される。
その記述は、松島において「江の中三里」と対応し、松島の描写を思い起こさせる。
松島では、月が出た後で宿に入り、二階の窓から風景を眺め、「あやしきまで妙(たえ)なる心地」を味わうことができた。
それに対して、象潟では、「寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやます」といった感慨を持つ。
その違いの理由は、「松嶋は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」。
このように記す芭蕉は、象潟の美が松島の美よりも劣るものと見なしているのだろうか?
そうではないことは、「雨もまた奇なり」という漢詩の表現ですでに暗示されていたし、次に置かれた俳句によってさらに一層明らかになる。

象潟や / 雨に西施(せいし)が ねぶの花
(雨に煙る象潟で、雨に濡れる合歓(ねむ)の花は、愁いに沈む西施が眠っている姿のようで、なんとも美しい。)

西施は、「雨もまた奇なり」という詩句を含む蘇軾(別名、蘇東坡)の詩の中で詠われた絶世の美女。
彼女には胸の病があり、時に顔をしかめることがあったのだが、その姿が非常に魅力的で、美しかったと言われている。
また、西施は美しさのために、越の王によって敵国である呉の王の許に送られた。その結果、呉の王は彼女に溺れて国政を怠り国が滅びた、という伝説が残されている。
芭蕉は、顔をしかめる姿が美を引き立たせたと言われる西施を象潟と重ね合わせることで、象潟の美が、松島の美とは異なる、寂しさや悲しみを思わせる美であるとした。
その上で、蘇軾の詩で言われるように、薄化粧の時も厚化粧の時も、晴れでも雨でも、どちらも美しいということを、暗にほのめかしたのだった。
そうした美に対する評価は、『徒然草』で言われる、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」という日本的な美の伝統とも対応している。
明るい美もあれば、愁いを帯びた美もある。
二つ目の俳句では、汐越(しおこし)に舞い降りた鶴の姿を描く。
汐越や / 鶴脛(はぎ)ぬれて 海涼し
(汐越の浅瀬では、鶴の長いすねが海水に濡れていて、いかにも涼しそうだ。)
この鶴は、曽良が松島を読んだ俳句の中で、ホトトギスに呼びかけた時の鶴ではないだろうか?
松島や / 鶴に身をかれ ほととぎす 曽良
(松島はあまりに美しい。ホトトギスよ、松島を訪れるときには、そのままの姿ではなく、美しい鶴の姿を借りてこい。)
曽良が空想する美しい姿の鶴を受けて、芭蕉が汐越の潮だまりに鶴を招いたとしたら、象潟は美しい鶴が飛来するに値する風向を呈する地ということになる。
松島の「あやしきまで妙なる心地」をもたらす景観も、象潟の「魂をなやます」心地をもたらす景観も、どちらも美しく、心惹かれる。
『おくのほそ道』の二重構造に基づく松島と象潟の対比は、そのことを最も明確に示している。