ジブリ・アニメ(宮崎駿監督作品)の中の自然

ジブリのアニメの中で、自然が大きな役割を果たしていることはよく知られている。そこで、日本における自然の概念と合わせて、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」を通して、宮崎駿監督の描く自然について考えてみよう。

宮崎監督は、「海外の記者が宮崎駿監督に問う、『もののけ姫』への四十四の質問」と題されたインタヴューの中で、アニメの中の自然はについて、次のように答えている。

現実の森を写生したものではなく、日本人の心の中にある、古い国が始まる時からあった森を描こうとした。(『ジブリの教科書10 もののけ姫』)

心の中にある森は、日本人の信仰とも関係している。

日本人の神様ってのは悪い神と善い神がいるというのではなくて、同じひとつの神があるときには荒ぶる神になり、あるときには穏やかな緑をもたらす神になるというふうなんですね。日本人はそういうふうな信仰心をずっと持ってきたんですよ。しかも、現代人になったくせにまだどこかで、いまだに足を踏み入れたことのない山奥に入っていくと、深い森があって、美しい緑が茂り、清らかな水が流れている夢のような場所があるんじゃないかという、そういう感覚をもっているんですね。そして、そういう感覚を持っていることが、人間の心の正常さにつながっているような気がしています。(・・・)それは一種の原始性かもしれませんが、人間が生きるために自然環境を保護しようという以前に、自分たちの心の大事な部分に森の持つ根源的な力みたいなものが生きている民族性でもあるんですよ。(『清流』1997年8月号)

そうした森や自然が、ジブリ・アニメの中ではどのように描かれているのだろうか。

日本的自然

元来、日本人の自然観は、ヨーロッパ的な自然観とはまったく違っていた。

Natureは、自己に対する客体であり、私という存在と対比的・相対的に存在する。それは人間にとってソトの世界である。従って、私と他との二元論の上に成り立ち、人間と対峙するものである。

他方、日本人の自然観に対立意識はあまりない。むしろ、人と自然は親しい関係にあり、母なる大地という表現で言い表させるような、身内的な存在と感じられる。
自然は決して対立する存在ではなく、共生する存在。もっと言えば、人間は自然の中に住まわせてもらっている。そんな感覚がある。

Natureと自然のこうした違いには、はっきりとした理由がある。
実は、日本には、海や山、花や木々、空や山等を総括する言葉は存在していなかった。古くから、山川草木、山河大地という言葉が用いられ、花や草等が和歌や俳句の中で歌われてきたのだった。

その後、明治時代になり、英語のNatureを翻訳する際に、自然という言葉が選ばれ、様々な風景が自然という概念で理解されるようになった。現在私たちが当たり前だと思っている自然という言葉の意味は、外来語の意味に近い。

では、本来の日本語では、自然はどのような意味なのだろうか。
禅研究の専門家である鈴木大拙によれば、自然とは「自ずから然る」という意味だった。その言葉は、他からの働きかけによって動かされるのではなく、自分本来のものがそのままなるようになる、ということを示していた。
主体と客体の対立も、相対主義も、二元論的な区分もなく、自他の対峙を超克した自があるだけで、主客が対立した世界におけるソトの世界=自然ではないということになる。(『東洋的な見方』)

現在でもそうした日本古来の自然観が、翻訳語の自然という言葉に内在し、私たちは自然(しぜん)を前にして、「自ずから然る」的な感じを感じ続けていると思われる。つまり、私たちの中に内なる自然を感じると同時に、自然と共生しているようにも感じている。

その現れとして、日本人が思わずしてしまういくつかの行動がある。

高い山に登山をし登頂したとき、ヨーロッパ人であれば山を征服したと言い、頂上に国旗を立てたりするだろう。
それに対して、日本人であれば、無事に登頂できたことを山の神に感謝し、持っている食料をお供えものとして捧げたりするかもしれない。そのことは、自然が命をもっているように、私たちが感じていることを示している。
キリスト教徒は神に食物を捧げることはないし、自然の事物に生命を感じ取り、人間に対するのと同じように接することはない。

フランスの詩人ポール・クローデルは、日本に大使として数年間滞在し、その印象を綴り、日本人が自然の至る所に神を見出すことに驚いている。(『朝日の中の黒い鳥』)
実際、山の中のちょっとした岩の裂け目とか、神社の木とか、至る所にお供え物があったりする。また、小さなお地蔵様も数多く、お菓子やみかん、リンゴなど、お供え物が常に添えられている。

上野誠によれば、多神教ではあらゆる事物が神となりえ、日本は無限に神が生まれ続ける文化構造を持つとしている。木があれば木が神になり、森があれば森が神になる。そこにある自然は、人為や精神と対立するnatureではなく、「モノにも心があると考える古代思想」に基づく、生きた自然なのである。(『日本人にとって聖なるものとは何か』)

宮崎駿監督も、森が精神的な意味を持っていた時代が日本にはあったという。そうした時代の森では、踏み込んだときに不思議な感じがし、誰かが後ろから見ているような、どこかから音が聞こえてくるような「気配」を感じるという。その気配は、自然が生きている印、自然の生命力の現れにほかならない。

日本的自然には、人間と同じ生命が息づいているといっていいだろう。

ジブリ・アニメの中の自然

ジブリ・アニメには自然の姿が美しく描かれているが、とりわけ「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」では、中心的なテーマになっている。

それに対して、「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」になると、美しい風景は重要な舞台にはなっているが、物語の中心ではなくなっている。

「千と千尋の神隠し」



千尋とハクの出会いはコハク川であり、龍となったハクの背中に乗りながら、その時の記憶が急に甦る。ハクの本当の名前はニギハヤミコハクヌシであり、川の神様なのだ。

それ以外にも、このアニメでは、水が大きな役割を果たしている。
https://bohemegalante.com/2019/03/02/sen-to-chihiro/

「ハウルの動く城」

荒野の中に巨大な花園と湖が出現し、ソフィは心を休めることができる。

ハウルとソフィーの出会い、ハウルとルシファーの関係は、記憶の中にあるハウルの秘密の庭の場面で解明される。

風の谷のナウシカ

ナウシカの世界の最も中心部にあるのは、清浄な水をたたえた地底世界である。

世界の表面は、毒を撒き散らす腐海の森に侵略され、徐々に死の世界への変わろうとしてる。その毒は、「火の7日間」と呼ばれる最終戦争によって滅んだ巨大産業文明の残滓であり、わずかに残った都市や人の住む谷を破壊するオウムの群は、その象徴としての働きをしている。

その腐海の森の最深部に、「青き清浄の地」が横たわる。澄んだ空気が漂う、美しい森と水の風景。

この地に滑り込んだナウシカとアスベルは、腐海の植物群が、大地の毒を体内で結晶化し、清浄な水と砂を生み出していることを知る。オウムは、自然の清浄化の番人なのだ。

この地底世界の自然こそ、宮崎駿監督が「もののけ姫」のインタヴューの中で言及している自然の姿だといえる。

「自分たちの国の一番奥に、人が足を踏み入れてはいけない非常に清浄なところがあって、そこには豊かな水が流れ出て、深い森を守っている。」

監督は、こうした自然に対する日本人的な感性が崩壊しつつあると感じ、それを映像化したのだということもできるだろう。

ナウシカは、「青き清浄の地」を司る巫女とも考えられる。彼女は、風の谷にある秘密の地下室で、腐海の植物を育てている。そこで、毒は発散されない。

秘密の地下室の植物たちが毒を出さないのは、清浄な水と砂のおかげだとナウシカは言う。その水と砂は、腐海の森の最深部から来ているものに違いない。

「風の谷のナウシカ」が描く世界の根底にあるのは、宮崎監督が今失われつつあると感じている自然なのだ。そのことが、二つのエピソードを通して見えてくる。

もののけ姫

「青き清浄の地」は、「もののけ姫」になると、「しし神の森」として描かれる。

アシタカが最初に「しし神の森」に向かう時、数多くのこだまが現れる。

透明な身体をし、姿を現しては消えるこだまたちは、森が精神的な意味を持っていた時代に人が感じた「生命の気配」を体言しているのだろう。木や草しか見えず、誰も、何もいないはずなのに、何かがいる感じがする。

そうした気配を感じながら、森の小径を進み、しし神が姿を現す泉に到着する。

そこで、アシタカの助けた村人のキズが回復する。そのエピソードによって、しし神の不思議な力が暗示される。

次に泉が出てくるのは、深く傷ついたアシタカをサンが助ける場面。
アシタカは瀕死の重傷を負い、死を目前にしている。そのアシタカをサンはしし神の森に運び、泉の水に浸ける。そして、最終的には、生死を司るしし神が、彼を死から甦らせ、新しい命を吹き込む。

しし神が生だけではなく、死も司ることは、ディダラボッチという夜の姿であるによって示される。

しし神は、死と生、創造と破壊という、二つの側面を持つ。自然が人間に恵みをもたらすと同時に、災害も引き起こすことと対応していると考えると、そのことが実感できるだろう。

エボシの放った銃の弾丸によって首を跳ね飛ばされた神は、ディダラボッチの姿で全てのものを破壊し始める。照葉樹林の深い森はひとたまりもなく消滅していく。

しかし、自然が死に絶えることはない。自然は生命そのものであり、ディダラボッチが首を取り戻し、平穏が訪れるとともに、再生を始める。
その自然は、草原の緑に覆われた穏やかな山並みであり、かつての深い森の自然ではない。

宮崎監督は、かつての自然をそのまま再生させるのではなく、新しい自然の姿を描き出す。そのことで、自然とは生きているものであり、絶えず姿を変えながら、生をつないでいくことを見事に示している。

「もののけ姫」で示される自然観は、現実の自然を再現しているように見えながら、実は日本人が心の奥に潜ませている自然を描き出しているといえるだろう。
日本人にとって、自然は生命を持ち、神として敬われる。しし神はその象徴であり、しし神の森は様々な姿に姿を変えながらも、私たちの心の中に存在し続けている。

となりのトトロ

ナウシカの「青き清浄の地」や山犬のモロの住むしし神の森は、心の奥底に隠れた場所にあり、現実では出会うことがないように描かれている。それに対して、「となりのトトロ」の自然は、身近な場所にあり、少し昔であればどこにでもあった自然である。
では、その自然がどのように描かれることで、心の奥に潜む自然に匹敵するものとなっていくのだろうか。

最初にトトロとは何か考えてみよう。
メイが最初にトトロと出会うのは、大きな木のほこらの中に落ち込んだ時だった。トトロはうとうととまどろみ、メイはふかふかのお腹の上で眠ってしまう。
その後で、お父さんとサツキはメイの通った道を見つけようとするが、その道は存在していない。そこでお父さんは、いつでもトトロに会えるわけではないとメイを諭す。

その木は水天宮のある塚森の巨木だと、後からお父さんに教えられる。そして、お父さんはトトロを木の主だと言う。言葉を換えれば、トトロは木の精霊だとも考えられる。
ごく身近な一本の木の前で手を合わせる日本的な感性からすれば、巨木に精霊の気配を感じるのは、不思議なことではない。

「となりのトトロ」では、この出会い以前、一家が新しい家に引っ越して来た最初の時から、現実世界の隣には目に見えない世界があり、二つの世界が並行していることが何度も示されてきた。

まず、家に入る前に川がある。それは、三途の川のように、この世からあの世に移行する印だといえる。

その川を越えたところにある家の中には、不思議な生き物がいる。お父さんはどんぐりというのだが、メイとサツキにはまっくろくろすけががざごそと動いている姿が目に入る。こうして、大人の現実と子どもの空想世界が重層化する。

メイがトトロと出会う前、庭で不思議な白い生き物が目に入る。そして、その親子を追いかけているうちに草のトンネルに入ってしまう。それは、現実からトトロのいる聖なる世界へと続く通路に違いない。

こうして、トトロに遭遇する前、様々な仕掛けで、現実ともう一つの世界がつなげられていた。

トトロが木の精としての力を最大限に発揮するのは、メイとサツキの夢の中である。

二人はトトロたちが木の実を芽吹かせているのを見て、庭に飛び出す。そこでトトロと一緒に大きくなれと念じる。すると、若芽はすくすくと大きくなり、巨大な木へと成長する。二人の姉妹はトトロの胸に抱かれて空を飛び回り、最後は枝の上でオカリナを吹く。

このエピソードはそれだけでは終わらない。翌朝目が覚めた二人は、前日に撒いた木の実が芽を出している。夢が現実になっているのである。

そこで二人は、大喜びしながら花壇の周りを回り、こう言う。

夢だけど夢じゃなかった。

二人の唱える言葉こそ、トトロの世界を説明するキーセンテンス。現実と夢は対応している。だからこそ、夢が現実になる。
現実と夢が重なり合う世界では、樹木も単なる物質的な存在ではなく、生命を持ち、精霊を宿す。日本人の心の奥に潜む自然とは、本来こうした自然に違いない。

「となりのトトロ」の中では、写実的な田舎の風景と思われる自然が映像化されているが、その自然の中にトトロが住んでいることを、観客はメイとサツキを通して教えられる。
そのトトロの気配のする自然は、人間にとって客体として対立するNatureではなく、人間と共に自ずからそこにある。私たちはそこに何かの気配を感じ、神として崇めたりもする。
それは、現実の自然でありながら、心の中にある自然でもある。

ジブリの自然

宮崎駿監督は、「もののけ姫」のインタヴューの中で、ジブリの自然について次の様に述べている。

 スタジオジブリの作品の最大の特徴は、自然の描写の仕方なんです。登場するキャラクターに従属して、そこに舞台として自然があるのではなく、自然があって、その中に人間がいるという考え方をしているからなんです。
 それは世界が美しいと思っているからです。人間同士の関係だけが面白いんじゃなくて、世界全体、つまり風景そのもの、気候、時間、光線、植物、水、風、みんな美しいと思うから、出来るだけそれを自分たちの作品の中に取り込みたいと思って努力しているからだろうと思っています。

ジブリ作品の中で自然が美しく描かれる理由が、ここで正直に明かされている。
監督の考えは、人間対自然の対立があり、自然と対立するか、あるいは文明を悪として自然を保護すると考える、単純なエコロジー思想とは違っている。
人間が自然の中に生き、生命の気配を感じることで、自然を恐れ、敬う。ジブリの自然は、こうした人間が共生する自然である。そして、その自然は生命を宿し、美しい。

トトロの田舎の風景は、サンが住む新しい森がさらに姿を変えた自然の光景のように見える。

深い森から里山へ、里山から田園へ、自然の姿は変化する。しかし、それらは日本的な感性が常に感じ続けてきた内的な自然であり、たとえ死んでも再び生き返る生命を有している。

ジブリ・アニメの自然の美は、そうした日本の自然観を観客に伝える役割を立派に果たしている。


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