日本語はウチの言葉であり、お互いが同じ共同体にいることを前提としている。
https://bohemegalante.com/2019/04/17/japonais-langue-interieure/
そのことから二つの特色が派生してくる。
1)モノローグ的言語
2)臨場感
池上嘉彦の『日本語と日本語論』の助けを借りて、この二つの点について考えてみることにする。
モノローグ的言語 ー 省略の復元可能性
言葉を使うときには、話すときでも書くときでも、3つの視点が存在する。
1)話し手、書き手:発話主体
2)話された言葉、書かれた言葉、その内容
3)聞き手、読者
モノローグ型の言語文化の中では、発話主体と受信者は同一の共同体に属し、両者はほぼ同じ知識を共有していることが前提となる。
そして、お互いにわかっていることは、言わずに済ませる傾向が強くなる。
ディアローグ型の言語文化の中では、発話主体の持つ知識と受信者の持つ知識には違いがあることが前提にされ、言葉の内容を伝えるためには、前提となる事柄を明示することが必要になる。
このことを、省略された要素の復元可能性という視点から考えてみよう。
このうちに相違ないが、どこからはいっていいのか、勝手口がなかった。
この幸田文の『流れる』の冒頭の一節は、日本人にとってはごく普通に理解できるが、外国人には意味不明だという。
主語がなく、文の中で何が主題化されているのかもわからない。そこで、何との相違なのかも、誰が入るのかもわからない。
しかし、日本語母語者であれば、例えば、「私が探しているのは」といった内容を自然に補い、文の内容を容易に理解するだろう。
池上嘉彦は、こうした省略された要素を復元する可能性に関して、二つの見方を提示する。そして、そこから、モノローグ的言語とディアローグ的言語という分類をしている。
モノローグ的言語では、話者は聞き手の側が復元するために最大限の努力をすることを前提としている。言わなくてもわかってくれるはず。そうした前提で文を発する。
この型の言語では、受信者が理解のための努力をし、発信者の意図をくみ取られなければならない。
『流れる』の例で言えば、「私が探しているのは」を復元するのは、受信者であることが期待されている。
うまく意図が理解できない場合、受信者は勘の悪い人、鈍い人とみなされかねない。
その意味で、聞き手に責任がかかっている。
ディアローグ型言語では、自体は逆になる。
発信者は、受信者が言葉の内容を理解できるように、省略部分の復元可能な要素を予め付け加えておくことが要請される。
『流れる』の冒頭は、次のような要素を明示することになるだろう。
(私が探しているのは)この家に相違ないが、(私が)どこからはいっていいのか(わからなかった。)(この家には)勝手口がなかた。
書き手からするとわかっていることでも、読み手には前提となる知識がないかもしれない。その場合、省略の復元可能性を準備するのは、書き手でなければならない。
責任を持つのは、発話主体ということになる。
日本語はウチの言語であり、発信者と受信者は同じ共同体の一員であり、知の共有が前提とされている。従って、言語的な省略が多く行われても、受信者は復元可能であるとみなされる。その意味で、人と話すときも、モノローグに近いと言える。
臨場感
日本語では、主語を言わないで済ますことも多く、文の中に発信者の存在を書き込まない傾向にある。
しかし、発話主体は言葉によって明記されないだけで、常に発話や文に内在化し、主観性を付与している。言い換えると、客観的な記述と見える言葉にも「私の思い」が反映している。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
これは、日本語と英語を比較し、主語の存在・不在を論じるときにしばしば登場する川端康成の『雪国』の冒頭の文である。
英語にする場合、主語なしで済ますことはできない。
The train came out of the long tunnel into the snow country.
The trainを主語にした英語の文は、汽車がトンネルから出てくる客観的な状況を描写している。
しかし、日本語の文はそうではない。
ここで重要なことは、同じ状況を描いているように見える日本語文と英文との間に、決定的な違いがあることである。
英語文の著者は、この状況をソトから眺めている。決して、描かれている場面に身を置いてはいない。語り手は「見る主体」であり、汽車がトンネルから出る場面は「見られる客体」である。主体と客体が一致することはありえない。
読者も著者と同じように場面から距離を置き、the trainを眺めている。その意味では、「見る主体」と「見られる客体」の区別は、読者の側でも保たれている。
では、日本語文ではどうだろう。
主語が明示されていないために、トンネルを抜けたのが汽車でありながら、その汽車に乗る主人公であるようにも思われる。
主人公は暗いトンネルの中に長くいて、ようやく明るい場所に出る。と、真っ白い雪に覆われた美しい景色が目に入る。
その印象が、川端の日本語からは生き生きと感じられる。
日本語の文では、情景の描写であるとともに、情景の印象が伝わってくるのである。
では、誰の印象なのか。
最初に考えられるのは、文の中の主人公の印象。それと同時に、著者の思いでもある。さらに、読者もその思いを感じ、共有するかもしれない。
池上嘉彦は、その状態を臨場感覚という言葉で説明する。
語り手は心の中で、言語化している状況をソトから見るのと同時に、その状況の中にも身を置き、主人公と一体化する。
読者も列車の中に身を置いている。
そこでは、「見る」と「見られる状況」という対立が弱まり、体験的な臨場感覚が発生している。
その臨場感は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という文に、主語が明示されていないところから生まれる感覚だろう。
わかり切ったことは言わない日本語の特質を活かし、作者は密かに文の中に自分の主観性を印象付ける。読者に対しても、省略された要素の復元の責任を負わせ、何も描かれていないはずの印象を共有させることができる。
『雪国』の冒頭は、そうした日本語の効果を最大限に活かしているといえる。
主観性
ここでも池上に従い、表示がされないことで、文に作者の主観性が付与される例を見ていこう。
ヴァネッサがテーブルの(私の)向かい側に座っている。
(1) Vanessa is sitting across the table from me.
(2) Vanessa is sitting across the table.
二つの文の違いは、from meがあるかないかだけ。
では、from meという表示がされる場合とされない場合で、何か違うのだろう。
(1)のように« from me »と明示される場合、発話者が受信者に対して、それを言わなければ理解されない、と考えているからである。
もしヴァネッサと実際に向かい合っている状況にいるならば、(2)のように、私がどこにいるか言わなくてもいいはずである。
従って、« from me »という表示は、「発話主体の私」が「発話内容の私」の属する状況のソトにいることを示す。
(2)の場合、私が座るテーブルの反対側にヴァネッサが座って、その状況を対話の相手に伝えている。つまり、文に表示されないことで、逆に、話者がそこにいることが明らかになるのである。
池上嘉彦によれば、こうした言語のあり方が、「主観化」「主観的把握」と呼ばれるという。
文が存在する限り、必ず発話者がいる。その発話者が、文の中の語り手として「私」という表示を行うと、その「私」は発話者が文の内容のソトにいることを示すことになる。
その場合、文で描かれる状況は、発話者によってソトから見られ、客観的な状況の描写となる。
それに対して、「私」が明示されないと、話者はその状況の場にいて、発話していることになる。そこにあるのは私の目に映る状況であり、主観的に把握された現場である。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という文の臨場感も、そうした言語のあり方から生まれる。「汽車」とか「私」が表示されないことで、作者の主観性が感じられるのである。
このように、省略が多い日本語では、発話された文に発話者の存在が強く反映される。また、受信者は復元の責任を負わされているため、発信者と同じ地平に身を置くことになる。
この状況も、ウチの言語である日本語の一つの特色である。