地獄下りの物語は様々な神話として残されている。
その中で、オルフェウスとイザナキは、亡くなった妻を求めて地下世界に下るという点で共通している。
その一方で、違いも大きい。
オルフェウスは地獄の王の許可を得て、愛するエウリュディケを地上に連れ戻そうとする。

イザナキは闇の中でウジ虫がたかったイザナミの姿を見、恐怖のあまり一目散に逃げ出す。

妻を求めての地獄下りという同一のエピソードに基づきながら、全く違う展開をたどるギリシア神話と日本の神話を通して、どのようなことが見えてくるのだろうか。
神話の枠組み
イザナキ ー 創造神話
『古事記』の冒頭、天と地が別れ、次々と神が成る。最初に3神、次に5神、次いで7神が成った。その最後の神が、イザナキとイザナミの兄妹神だった。
この二人は、まだ漂っている状態の国土を固めて島とし、そこに下りたって、数々の島を作り、神を生み出していった。
世界の成り立ちに関して、三つの型が指摘されている。
1)「つくる」。人格的な創造者が一定の目的で世界と万物を作る。
2)「うむ」。 生殖行為によって産む。
3)「なる」。 世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現化する。
https://bohemegalante.com/2019/02/26/genese-de-la-beaute-japonaise/5/
『古事記』では、イザナキ・イザナミ以前が「なる」型であるのに対して、彼等以降、男女の交わりから創造が行われる「うむ」型になる。
実際、生殖についてはあえて強調される会話が二人の間に交わされる。男神が「おまえの身体はどのようにできているのか」と問い、女神は「私の身体はだんだん成り整っているが、成り合わない所が一カ所ある」と応える。そこでイザナキは、「自分の身体には成り余った所が一カ所ある。それで、私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そう」と提案する。
このあからさまな会話は、創造が生殖行為による「うむ」型であることを強調するものである。
そのことを強調するかのように、男女の役割の明確化が一つの挿話にエピソードによって示されている。
彼等は最初におのごろ島に下り、天の御柱とお屋敷を建てていた。
イザナギは生殖行為として、その柱の回りを回りって「みとのまぐはひせむ」と誘い、イザナミは右から回り、自分は左から回って会おうと付け加える。その約束の後、最初にイザナミが口を開き、「なんという素晴らしい男性だこと。」と言い、男神が「なんという素晴らしい女性だろう。」と続ける。
この前後関係が正しいものではなかったために、産まれた子どもは水蛭子(ひるこ)であり、葦の船に乗せて流してしまう。次の淡島(あわしま)を産むが、その子も誕生した子どもの数には入れられなかった。
この挿話には中国の夫唱婦随の思想が反映しているという説もあるが、ヨーロッパとの比較で興味深いのは、男性が左に回るという点である。ヨーロッパ的な二元論思考の中では、男性は太陽、光、上、右と同列になり、女性は月、闇、下、左に分類される。それに対して、古事記神話において、男性が左に、女性が右に回る点は、日本文化の一つの型を知る上で大変に興味深い。
しかし、その点については別の機会に検討するとして、ここでは、イザナキ、イザナミの創造(国産み、神産み)は「うむ」型であることが、男女の違いを際立たせることで、さらに強調されていることを指摘しておきたい。
オルフェウス ー 起源神話
オルフェウスの神話は様々な側面を持っているために一言で定義するのが難しい。ここでは、オルフェウス教という宗教集団の起源を語る物語と捉えることにする。
オルフェウス教の教義では、霊魂の不滅を説き、肉体は輪廻転生の運命を追わされているとする。その運命から解脱するには、秘儀的な通過儀礼(イニシエーション)の試練を経ることが必要になる。
こうした教義の根本には、肉体=現実、霊魂=天上を区別する二元論がある。
オルフェウスの父は、トラキアの王オイアグロスとされるが、アポロンが後ろ盾になっている。母は、叙事詩と雄弁のミューズであるカリオペー。
オルフェウス自身、竪琴(リラ)の名手として名高い。彼が竪琴を弾くと、動物だけではなく、木々や岩までも集まり、耳を傾けたといわれている。

オルフェウスは修行時代エジプトに赴き、そこで古代エジプトの秘儀的宗教を学んだ。その儀礼は死と再生に基づき、新参者は死者の世界に下り、厳しい試練を経なければならない。そして、その試練に成功した者だけが、神の姿に接し、元の世界に戻ることが許される。
オルフェウスの地獄下りは、その試練を象徴している。彼は妻のエウリディーチェを連れ戻すことには失敗するが、しかし彼は地獄から地上へと戻ることができる。
その後、オルフェウスは、妻を失ったことに心が慰められないまま、他の女たちに関心を示さなかった。
酒の神ディオニソス(バッカス)に使える女達(マイナス)は、オルフェウスの無関心な態度に腹を立て、トラキアの地で彼を八つ裂きにする。そして、彼の首を竪琴と一緒にヘブロス川に流してしまう。
オルフェウスの首はレスボス島に流れ着き、その地に葬られた。

竪琴(リラ)は天上に昇り、琴座(constellation de la Lyre)になったという伝説も残されている

このように、オルフェウスの神話は、教団の始祖の生涯を通して、その宗派の起源を語る物語と考えることができる。
二つの地獄下り
イザナキの向かう黄泉(よみ)の国と、オルフェウスが下った地獄では、全く様子が違っている。
また、同じように「見ることの禁止」が二人に課されるが、その種類も結果も違っている。
妻の死
『古事記』の中で、イザナミは、イザナキと交わり次々に島と神を産んでいく。その最後に産んだ子どもが、火の神カグツチ。その火に陰部を焼かれ、イザナミは病の床に伏せ、死んでしまう。
火が死をもたらすエピソードは、日本的な事物の生成において、水の果たす役割の大きさを示している。
天と地が成った最初の時、国は水に浮いている脂の状態で、クラゲのように漂っていた。そこから、葦の芽が泥沼から萌え出るように出てきた神の一人が、ウマシ/葦カビ/ヒコジの神。葦は、水を根源とする植物の象徴であり、日本的思考における水の根源性を暗示している。
カグツチが象徴する火は水と対応し、日本においては、死をもたらす要素である。
その点で、プロメテウスが神から盗んだ火が文明の起源とされる西欧文明とは、対照的である。
ギリシア神話の中で、オルフェウスの妻エウリディーチェは、婚礼の日に、蛇に足を噛まれて死んでしまう。
この挿話は簡潔に語られ、エウリディーチェに大きな役割は与えられていない。
ただし、蛇は大地の象徴とも考えられる。そこで、大地母神デメテールの娘ペルセボネーが地獄の王ハデスによって略奪され、地獄に連れて行かれた神話と関連しているともいえる。
実際、地獄でオルフェウスを迎えるのは、ハデスとペルセポネーである。
死者の国
1)この世とあの世の距離
イザナキは妻に会いたいと願い、黄泉の国に行く。その際、何の試練も、困難もない。『古事記』では、「イザナミに会いたいと思い、後を追って黄泉国に行かれた。」と記されているだけである。
生者の世界と死者の世界には何の境もなく、隣の家に行くかのように簡単に行くことができる。
それに対して、ギリシア神話では、現実世界と死者の国は最初からはっきりと分かれている。
二つの世界の境界にはステュクス川あるいはアケロン川が流れ、渡し守カロンが死者たちを小舟で向岸に渡すのだった。

オルフェウスは、渡し守カロンや獰猛な犬ケルベロス、さらには木々や岩たちを、竪琴の音楽で魅了し、地獄を下って行く。そして、最後に、冥界の王ハデスや女王ペルセポネーをも音楽の力で説得し、エウリディーチェを地上に連れ戻す許可を得る。
ここでの死者の世界は、生者には行くことのできない、全く別の世界である。オルフェウスが地獄下りをすることができるのは、アポロンに由来する竪琴の紡ぎ出す音楽の魅力(=魔力)によってである。
日本では生者と死者の世界は隣の家ほど近く、次元の差はほとんどない。それに対して西欧では、二元論的世界観に基づいて、この世とあの世がはっきりと隔てられている。
2)見るなの禁止の違反
イザナミの住む死者の国には誰もいない。最初、彼女は御殿の扉から出てきて、イザナキと会話を交わす。
夫は言う。「まだ国造りが終わっていないので、この世に戻って来て欲しい。」と。それに対して、妻はこう応える。「もっと早く来てくれれば戻れたが、黄泉の国の食べ物を食べてしまったため、神と相談しなければなりません。」
その会話の後、イザナミは、神と相談する間、「自分の姿を見てはいけない」という条件を、イザナキに課す。そして、御殿の中に戻る。
長い間待ったイザナキは、最後にとうとう我慢しきれなくなり、火をともして館の中に入る。このようにして、「見るなの禁止」を犯してしまう。

オルフェウスの違反は、妻を地上に連れ戻すまで、決して振り返って妻を見てはいけないというもの。
なぜ彼は振り返ったかについては、様々な説がある。足音が聞こえなくなり、本当について来ているか心配だったから。足音はしていたけれど、坂を登る彼女のことを心配して。等々。
ここでは、別の側面から考えてみることにする。
オルフェウスは音楽によってハデスやペルセポネーを魅了し、エウリディーチェを連れ帰る許可を得た。つまり、それは聴覚による。音は目で見ることができず、星々が天上を運航する時に作り出す「天球の音楽」のように、魔法的な力を持つ。
それに対して、見るなの禁止は視覚と関係している。視覚は現実的な次元で力を発揮する。
とすれば、冥界での出来事は音楽という目に見えない力によって可能だったのであり、視覚が介入することによって、その魔力は失われてしまうと考えてもいいだろう。
オルフェウスが「見るなの禁止」を犯し、振り返ってエウリディーチェを見たことで、音楽の魔力は消滅し、妻は再び冥界へと引き戻されてしまう。
妻を取り戻しに地獄に下るという試練に失敗したオルフェウスは、しかし、妻への愛を失わず、地上に戻ってからも彼女を思い続ける。
その点で、イザナキとは正反対である。彼は、ウジ虫に覆われたイザナミの身体を見て恐れおののき、大急ぎで逃げ出す。そして、彼女の追求を逃れるために、黄泉の国とこの世の間に巨大な岩を置き、二つの世界を隔てる。
こうした違いを通して、妻を求めて地獄に下った二人の夫の物語が、西欧と日本で違う意味を持っていることを見て取ることができる。
葦原の中つ国 日本
西欧世界では、現実と超現実(天国、地獄)などの次元には明確な差がある。その中で、視覚と聴覚の違いが禁止の核として用いられていると考えることができる。その次元の違いは絶対的なものであり、例外的な人間だけが地獄から戻ることができる。
その代表的な人物が、オルフェウスである。
彼が地上に帰還後もエウリディーチェを思い続けることは、現実を超えた次元が常に意識の中にあり、超越的世界への憧れを持ち続けることを意味している。
それに対して、日本の伝統的な意識は一元的な世界観に立脚していると考えてもいいだろう。
暗い闇の中にいる姿を見ないという約束に違反するイザナキのエピソードは、日本の民話「ツルの恩返し」やフランスの伝説「メリュジーヌ」、ローマ神話のプシケーの物語を思わせる。
しかし、見るものはまったく違っているし、その後の主人公の行動も違う。
イザナキが見たものは、ウジ虫がたかり、8つの雷がごろごろと鳴っているイザナミの身体。彼はその姿を見て恐れおののき、大急ぎで逃げ出す。
イザナミの方は、「私によくも恥をかかせた」と怒り、黄泉の国の醜女たちに夫を追わせる。そして最後は自分でも夫を追いかけ始める。
それは愛のためではない。「私によくも恥をかかせた」と怒り狂い、その恥をそそぐためである。
イザナキ・イザナミ神話の特色は、妻の身体がウジ虫で覆われていること、妻が消えるのではなく夫が恐れて逃げ出すこと、そして、「恥」に言及されることである。日本文化の伝統の最初に恥の意識が存在していることは、興味深い。

最後、イザナキは、妻に追いつかれそうになり、黄泉比良坂(よみひらさか)に巨大な千引(ちびき)の岩を置く。そこで夫婦は別離の言葉を交わす。
イザナミ、「私はあなたの国の人々を、一日に千人絞め殺す。」
イザナキ、「私は一日に一千五百人の産屋を建てる。」
このようにして、死と生の区別が二人の口から語られることで、黄泉の国がこの世から完全に隔てられることになる。
イザナキ逃走のエピソードの中でとりわけ重要なことは、植物や果実の誕生神話であるという点である。
黄泉の国の醜女たちに追われたイザナキは、まず髪に挿した黒いかずらを取って、投げつける。するとそこに山ぶどうの実がなる。次に、右のかずらに挿している櫛を投げ捨てると、タケノコが生えてくる。
現世と黄泉の国の境にある黄泉比良坂のふもとで、大勢の軍勢に追いつかれそうになった時には、桃の実を3つ投げつけて、軍勢を退散させる。そして、桃の実に感謝して、これからは葦原(あしはら)の中国(なかつくに)に生きている青人草(あおひとくさ)、つまり人間がつらい目に遭うときには助けてあげてくれ。」と言い、桃にオホカムズミノ命という神名を与える。
ここでは、山ブドウ、タケノコ、桃が産まれ、人間が草と同一視される。
思い起こせば、逃走の最初は、イザナミの身体がウジ虫に覆われているところから始まっており、高温多湿な環境が前提となっている。
さらに、天地の始まりのの時、国土は水に浮く脂のようで、葦原を思わせた。
こうした全てが暗示するのは、国土も植物も人間も、同一の起源である水から成り立っているということである。
死者の国でさえ生者の国とは隣合わせで、隣人の家のように感じられる。
そこに超越的な存在はなく、全てが葦のように萌え出てくる存在。
イザナキとイザナミが激しいやり取りを交わし、二つの世界を区切る巨大な岩を坂に置くのは、そうしなければならないほど、二つの世界が近いことの反証に他ならない。イザナミに愛を保ち続けたりしたら、彼女はいつでもこの世にやってくる。
天も地も海も全ては一元的につながっている世界。それが日本的世界観といえる。そして、その根本には水がある。
竪琴の詩人オルフェウス
ヨーロッパの文化的伝統の中で、オルフェウスは秘儀集団の始祖である以上に、竪琴を持った詩人と見なされるようになる。
古典主義を代表するニコラ・プサンの絵画「詩人のインスピレーション」には、その様子が見事に描き出されている。

この詩人は、アポロンのインスピレーションを受けたローマの大詩人ウェルギリウスと言われている。しかし、アポロンの背後にいるのはオルフェウスの母カリオペーであり、竪琴(リラ)を持つところも含め、詩人の原型はオルフェウスと考えてもいいだろう。
音楽の分野でも、オルフェウスは大きな役割を担っている。最初に作られたオペラは1600年に作られたヤコポ・ペーリ作曲による「エウリディーチェ」と言われている。
その7年後、1607年には、モンテヴェルディの「オルフェオ」が上演された。
18世紀には、1762年にグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」が上演される。
オルフェウスの竪琴(リラ)は、この世と超越的な世界を共鳴させる聖なる楽器であり、オルフェウスは理想的な詩人と見なされた。
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