ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 3/4

第10詩節から第19詩節にかけて、墓地に眠る死者たちに関する瞑想を中心に、現実と不在、個と普遍、肉体と精神に関する問いかけが行われる。
10詩節60行に及ぶ詩句は安易に理解できるものではなく、理解するためには精神の集中が必要になる。

まず最初に、詩句の音楽性を感じるため、もう一度youtubeで朗読を聞いておこう。(第10詩節は、4分35秒から。)

第10詩節では、再び、「私=海(統一体)」の場が取り上げられ、墓のある風景の中で、死と生を巡る思索が繰り広げられる。

Ferme, sacré, plein d’un feu sans matière,
Fragment terrestre offert à la lumière,
Ce lieu me plaît, dominé de flambeaux,
Composé d’or, de pierres et d’arbres sombres,
Où tant de marbre est tremblant sur tant d’ombre;
La mer fidèle y dort sur mes tombeaux !

堅固で、神聖、非物質的な火に満ち、
光に捧げられた、地上の断片、
この地を私は好きだ。松明に覆われ、
黄金と石と暗い木々で構成され、
多くの大理石が、多くの影の上で震えている。
忠実な海が、私が目をやる墓の上で眠っている。

最初の2行は、この地(ce lieu)と同格になる断片(fragment)が、どのようなものか提示する。
神聖(sacré)であり、そこに当たる火(feu)は、物質性を持たない(sans matière)。
こう言ってよければ、天の光(lumière)に捧げられている(offert)。

他方で、その墓地は地上的でもある。松明の炎(flambeaux)のような地上の光、石や木々がそこここにある。黄金も墓の装飾の金箔かもしれない。
そして、数多くの大理石の像がその数だけの影を作り出している。

Tant de marbre, tant d’ombreと’tant’の音と’bre’の音を繰り返すことで、数の多さと同時に、像の数だけ影があると、音が伝えている。
しかも、’t’, ‘r’, ‘en’, ‘b’の音は、tremblantにも含まれ、反復がさらに強調される。
tant de marbre, tremblant, tant d’ombreを声に出してみると、その効果がはっきりと感じられる。

そうした多くの墓の向こうには、常に海が見えている。
海が忠実というのは、墓地の彼方に常に見えるというだけではなく、« La mer, la mrer, toujours recommencée »(海、海、常に繰り返される海)という極めて美しい詩句を参照し、波の絶え間ない動きを思い起こさせる役割も果たしている。

その反復によって、現実=時間が非現実=永遠と一つになる。

第11詩節では、突然、雌犬が姿を表す。

Chienne splendide, écarte l’idolâtre !
Quand, solitaire au sourire de pâtre,
Je pais longtemps, moutons mystérieux,
Le blanc troupeau de mes tranquilles tombes,
Éloignes-en les prudentes colombes,
Les songes vains, les anges curieux !

光に満ちた雌犬よ、偶像崇拝者を遠ざけよ!
一人、牧人の微笑みを浮かべ、
私が、長い間、神秘の羊たち、
静謐な墓の白い群に餌を与えている時、
そこから遠ざけよ、用心深い鳩たちを、
虚しい夢を、知りたがり屋の天使たちを。

墓の間に、突然、雌犬(chienne)が姿を現す。
この犬を海のことだと深読みする読者もいるが、素直に、墓地を徘徊する犬だと考えたい。

墓石(tombes)が不動であれば、犬は動く存在。
「私」は、墓石を羊(moutons)に見立て、群(troupeau)を牧草につれて行き、草を食べさせる(paître)牧人(pâtre)。

羊たちはメーメーと鳴くが、墓石は静かに佇んでいる。そのために墓石という羊は神秘的に感じられる。
その羊(=墓石)たちの間を、牧羊犬が動き回る。

「私」はその牧羊犬に、最初、偶像崇拝者(idôlatre)を遠ざけるように命じる。
偶像崇拝とは、太陽や山、海など自然の事物だけではなく、キリストやマリアの像などの現実の事物を神として崇めること。

羊の群から偶像崇拝者を遠ざけるとは、現実と神の世界の二元性を認めた上で、現実を神に見立てる思考を捨てるようにという意味に解することができる。

Emmanuel Durant, Dieu-Trinité

鳩(colombe)、夢(songe)、天使(ange)を遠ざけるとは、何を意味するのか?
鳩は用心深く(prudent)、夢は虚しく(vain)、天使は好奇心が強い(curieux)。

現実的なレベルで考えると、鳩は、墓に舞い降り、餌をついばみながら墓の間を歩き回る。犬が寄ってくれば、さっと飛び立つ用心深さを持っている。

「海辺の墓地」の冒頭でのように、目の前の海を神殿の屋根と見なせば、鳩は海に浮かぶ帆船の隠喩だと考えられる。

空から舞い降りる鳩を見ながら、天使を思い浮かべることも可能だろう。colombeという言葉は、キリスト教では精霊のシンボルでもある。
好奇心が強いという形容は、鳩たちがあちこちと歩き回る様子を連想させる。

では、鳩とともに、天使とともに、なぜ虚しい夢が群から遠ざけられないといけないのか。

ポール・ヴァレリーは「テスト氏」に関する文章の中で、「信念と偶像とに対する軽蔑、安易に対する嫌悪」(小林秀雄訳)について語っている。
「虚しい夢」とは、目の前に置かれた物質的な像を、安易に神と思い込むこと=信念だろう。
「テスト氏」の作者は、「正確に対する限りない欲望、己れの極限を嗅ぎつける感覚力」を持つことを自負している。
とすれば、目に見える次元と目に見えない次元を二元論的に分割し、その前提に立って見えるものを見えないものの象徴として見立ててる夢も、虚しいものと見なされるだろう。

第12詩節。全てが精気(essence)となり、生(vie)がむき出しにされる。

Ici venu, l’avenir est paresse.
L’insecte net gratte la sècheresse;
Tout est brûlé, reçu dans l’air
À je ne sais quelle sévère essence…
La vie est vaste, étant ivre d’absence,
Et l’amertume est douce, et l’esprit clair.

ここに来ると、未来は怠惰だ。
純粋な昆虫が、乾燥をひっかく。
全ては燃え、空中に受け取られる、
何かわからない厳密な精気となり。。。
生は広大で、不在に酔いしれている。
苦さは甘く、精神は明瞭だ。

南フランスの墓地。正午の太陽に全てが焼かれ、たとえ海辺だろうと、からからに乾燥している。そんな中、ゼミが激しく鳴き、「私」の精神が共鳴する。
そんな場面を思い描くと、第12詩節の詩句を理解しやすくなる。

ここ(ici)、つまり海辺の墓地は、死者たちが眠る処。彼等の時間は止まっている。現在も未来(avenir)も変わることはない。従って、怠惰(paresse)ということになる。

停止した時間は、あえて言えば、正午ジャスト(Midi le juste)。
その時、昆虫が乾燥をひっかく。どういう意味だろう?

昆虫(insecte)がどの虫なのか必ずしも特定する必要はないかもしれないが、南フランスであれば、セミを思い浮かべるのが自然だろう。
空気が乾燥し、海辺とはいえ、墓地の乾いている。そこにセミの鳴き声が響く。
ひっかく(gratter)は、弦楽器の弦を弾いて出す音を連想させる。
昆虫を形容する、純粋な、混じりけがない(net)という言葉は、虫が奏でる明瞭な音、晴朗な音楽を思わせる。

正午の太陽はそこにあるもの全てを焼きつけ、現実の物質が目に見えない生気(essence)の中に蒸発していく。

そうした状態こそがまさに「生(vie)」である。
物質は世界の半面であり、精神も世界の半面。生はその二つの面から成り立つ。存在は不在(absence)に裏打ちされている。
だからこそ、生は広大であり、有限であると同時に、無限の広がりを持つ。

そこでは、矛盾は矛盾ではない。苦いは甘い。
それを意識できる精神(esprit)は、明晰(clair)だ。


第13詩節において、詩人は墓石の下の死者たちに意識を向ける。

Les morts cachés sont bien dans cette terre
Qui les réchauffe et sèche leur mystère.
Midi là-haut, Midi sans mouvement,
En soi se pense et convient à soi-même…
Tête complète et parfait diadème,
Je suis en toi le secret changement.

隠された死者たちが、この大地の中にいる。
大地は彼等を温め、彼等の神秘を干上がらせる。
高みにある正午、不動の正午が、
それ自身の中で自らを思考の対象とし、自らに相応しくなる。
完全な脳髄よ、完璧な王冠よ、
私は、お前の内部における、密かな変化だ。

正午の太陽は、地上の真上に位置し、影は最小限に限定される。
墓地の中で眠る死者たちも、日差しを浴びた大地(terre)の中で温められ、影によって象徴される神秘(mystère)を失う。

すでに正午には「正確(le juste)」という属性が付与されていたが、ここでも正午に、高み(là-haut)、不動(sans mouvement)という属性が付与され、超越性、絶対性の存在が示される。
その時は、他者によって相対化されるものではなく、自己が自己を思考するだけの意識を指すものと考えられる。
その意識を、詩人は、完全な脳髄、完璧な王冠を呼ぶ。

それに対して、「私」の存在は、変化(changement)である。
正午が絶対的な時間であり、不動の空間であるとすれば、「私」は、その中で唯一の動きとなる。

このように、第13詩節を構成する6行の詩句によって、不動と動き、絶対と相対、死と生の対照が、再び示されている。
そして、第14詩節になると、生の側の「私」と、死者たちとの対比がより具体的に示される。

Tu n’as que moi pour contenir tes craintes !
Mes repentirs, mes doutes, mes contraintes
sont le défaut de ton grand diamant…
Mais dans leur nuit toute lourde de marbres,
Un peuple vague aux racines des arbres
A pris déjà ton parti lentement.

お前には私しかいない、お前の恐れを収めるものは!
私の後悔、私の疑い、私の束縛は、
お前の巨大なダイアモンドの傷。。。
しかし、死者たちの夜、大理石がずしりと重くのしかかる夜に、
ある朧気な一群が、木々の根下で、
すでにお前の味方になっていた、ゆっくりと。

お前と呼ばれる絶対的な意識あるいは精神にさえ恐れ(craintes)があるとしたら、それは「私」=「変化」を内包しているからだろう。
そして、それは絶対性(お前のダイアモンドdiamant)にとっては欠陥(défaut)になる。
動き=生を有する「私」には、人間的な感情である、後悔(repentir)も、疑い(doute)も、束縛(contrainte)もあるのだから。

「お前」と「私」の重なり合いは、恐れと束縛が豊かな韻を踏んでいることから、音として表現されている。Craintes-contraintes.

死者たちは墓石の中。従って、彼等は永遠の夜にいる。その夜は、墓の大理石の重さでますます暗く押しかかる。

その闇の中で、死者たちの味方になっているおぼろげな一群(un peuple vague)とは、次の詩節に出てくるウジ虫のことだろう。
遺体はすでに腐乱し、虫がたかり、個体として姿を保たなくなっている。
そのイメージは、ボードレールの有名な詩「腐った屍(Une Charogne)」を連想させる。
https://bohemegalante.com/2019/10/05/baudelaire-une-charogne-poeme-amour-insolite/

死者たちは、地上にいた時の個別的な肉体を失い、絶対の側に位置する。その際、地上に残してきたものがある。第15詩節で示されるのは、そうした数々の物。

Ils ont fondu dans une absence épaisse,
L’argile rouge a bu la blanche espèce,
Le don de vivre a passé dans les fleurs !
Où sont des morts les phrases familières,
L’art personnel, les âmes singulières?
La larve file où se formaient des pleurs.

彼等、死者たちは、厚みのある不在の中に溶け混んだ。
赤い粘土は、白い種族を飲み混んだ。
生きるという贈り物は、花々の中に移った!
死者たちの親しげな言葉、
個人的な技術、独自の魂達は、どこにあるのか。
幼虫は糸を紡ぐ、かつて涙が形作られた場所で。

大地の中で、死者たちの肉体は消滅してしまう。そのイメージは、大地の赤色と人間の肉体の白色を対照させた、この詩節の二行目の詩句で鮮やかに印象付けられる。赤い粘土が白い肉体を呑み込んでしまったのだ。

その一方で、死者たちと離れた生命は、地上の花々に引き継がれ、地上を彩り続ける。それは、彼等からの贈り物(don)なのだ。あるいは天賦の才(don)と言ってもいい。
その才は、レオナルド・ダ・ヴィンチのような天才だけが持つのではなく、普遍的に人間が有するもの。それが現実世界では、肉体という限界によって、個として区切られ、個人の中に存在している。

生前、一人一人の人間は、よく使う言い回し(des phrases familières)を持ち、個人的な(personnel)行為を行い、独自の魂(âme singulière)に動かされていた。

葬儀の際には、墓石の前で、人々が故人(個人)のために涙を流しただろう。
今は、その場所に虫の幼虫がはっている。

そして、墓地で遊ぶ少女たちの姿も見え隠れする。その様子が、第16詩節で描き出される。

Les cris aigus des filles chatouillées,
Les yeux, les dents, les paupières mouillées,
Le sein charmant qui joue avec le feu,
Le sang qui brille aux lèvres qui se rendent,
Les derniers dons, les doigts qui les défendent,
Tout va sous terre et rentre dans le jeu !

くすぐられた娘たちの鋭い叫び、
目、歯、濡れた睫、
魅力的な胸が、火と戯れる、
血が輝くのは、降伏する唇。
最後の贈り物、指がそれを守る、
全てが地下に進み、遊戯の中に戻って行く。

暗い地下の死者たちの世界と打って変わり、地上の少女たちの世界は明るく、動きに溢れている。
詩人は、とりわけ肉体の細部に注意を向ける。目、歯、瞳、胸、唇、指。

太陽の光を浴びた彼女たちの血液は温められ、生の喜びに満たされ、愛する人と口づけを交わすこともあるだろう。
唇は時に降伏し、指で守ろうとしたりもする。そんな恋愛の遊戯が繰り広げられる。

全てが地下に(sous terre)入るという表現は、死者たちが埋められた地下を思うのではなく、人目を忍んでこっそりと行われることだと考えたい。
くすぐられた娘たちは、不在に溶け込んだ死者たちと対極の存在であり、生の贈り物=才能(le don de vivre)を享受する、花咲く乙女たち(filles en fleurs)だ。

Claude
Monet, Jeunes filles au jardin

第17詩節。突然、偉大な魂に対する問いかけが始まる。

Et vous, grande âme, espérez-vous un songe
Qui n’aura plus ces couleurs de mensonge
Qu’aux yeux de chair l’onde et l’or font ici ?
Chanterez-vous quand serez vaporeuse ?
Allez ! Tout fuit ! Ma présence est poreuse,
La sainte impatience meurt aussi !

あなた、偉大な魂よ、あなたは夢を希望するのか、
いつか偽りの色をなくす夢を。
その色を、肉体の目に対して生み出すのは、波長と黄金。
あなたは歌うのか、おぼろげになる時に。
さあ、全てが逃げ去って行く!私の存在は穴だらけだ。
神聖な焦燥も、死を迎える!

あなた(vous)と呼びかけられる偉大な魂(grande âme)とは何だろう。

その魂と対比的に語られるものが、肉体の目。それは、ここ(ici)に存在する。
とすれば、物質的な肉体とは対立する精神性であり、これまで死者たちとして複数で表現されてきたものの集合体だと考えることができる。
目に見えない超越的な存在。例えば、神のような。

Puvis de Chavannes, Le Rêve

その魂に対する問いかけは二つ。
一つは、夢(songe)を望むのか。もう一つは、歌うのか。

夢(songe)に関しては、偽り(mensonge)と韻を踏み、人を欺く可能性があることが示される。
しかし、その源泉は、ここ=現実の波長と黄金という魅力的なもの。

二つ目の問いである歌は、詩の本質的な側面。そして、歌われるとしたら、魂自身が蒸気のように消え去る時。

二つの問いとも、怪しげだけれど、人をあの世に誘うのに十分なものを含んでいる。

実際、「私」も抗いがたく惹かれれ、こう叫ぶ。「さあ!(Allez !」
出発の合図だ。
その存在(ma présence)はすでに気孔が開いている(poreuse)。
彼方に向かいたいという抑えきれない気持ち、焦燥(impatience)も、もう必要ない。なぜなら、すでに出発が開始されているのだから。

第18詩節では、不死をお前(toi)と呼び、母性と偽りの両面が示される。

Maigre immortalité noire et dorée,
consolatrice affreusement laurée,
Qui de la mort fais un sein maternel,
Le beau mensonge et la pieuse ruse !
Qui ne connait, et qui ne les refuse,
Ce crâne vide, et ce rire éternel !

痩せ細り、黒く、黄金の不死よ、
人を慰め、恐ろしい様子で月桂樹を被り、
死を母の胸にしてしまう不死よ、
美しい噓、神聖な策略!
誰が知らず、誰がそれらを拒絶しないのか、
この空の頭蓋骨を、この永遠の笑いを!

前の詩節で偉大な魂と呼んだものを、今度は不死(immortalité)と呼び、別の側面を明らかにする。その違いを際立たせるため、あたな(vous)という読みかけも、お前(tu)に変えられる。
ちなみに、tuに変わったことは、動詞の活用によって示される。(immortalité… Qui … fais…)

knabengoff Alexandra, crâne futur

ここでは、不死の矛盾した側面が次々に暴かれる。
痩せ細り(maigre)、黒く(noir)、かつ黄金(dorée)。
人を慰める(consolatrice)が、月桂樹を被った様子(laurée)は恐ろし気(affreusement)だ。
死(la mort)を母の胸(un sein maternel)にする。
偽り(mensonge)は美しく(beau)、欺瞞(ruse)は敬虔(pieuse)。

偉大な魂を求めて、「さあ(Allez !)」とうかつに死に向かえば、頭蓋骨の中は空になる。それ知らない者がいようか(Qui ne connaît)、と詩人は言う。だからこそ、それを避けないもの者はいない。(Qui ne … refuse)。

では、笑い(ce rire)は誰のものか?
ファウストを先導するメフィストフェレスのような嘲笑の笑いなのか。それとも、焦燥にかられて不死を求めた者が自分を揶揄する笑いなのか。
いずれにしろ、その笑いは永遠(éternel)であり、不死に属する。

偉大な魂から痩せた不死への変遷を経て、思索は再びより具体的な死者たち、墓地の眠る死者たちに戻ってくる。(第19詩節)

Pères profonds, têtes inhabitées,
Qui sous le poids de tant de pelletées,
Êtes la terre et confondez nos pas,
Le vrai rongeur, le ver irréfutable,
N’est point pour vous qui dormez sous la table,
Il vit de vie, il ne me quitte pas !

奥深い父達よ、誰も住まない脳髄たちよ、
シャベルで何度もかけられた、これほど多くの重さの下で、
あなたたちは、土であり、私たちの足取りを混乱させる。
本当にがつがつとかじる存在、反論の余地のないうじ虫は、
墓の銘板の下に眠るあなたたちのために存在するのではない。
うじ虫は生を生き、私から離れない!

墓に死者を埋めるときには、上から多くの土をシャベルでかける(pelletées)。
そして、地中で死者たちは土になり、個体性を失う。
人々は、墓を見ればどこに誰が埋まっているのかわかると思い込んでいるが、しかし、地下の中では誰が誰かわからず、私たちはどこに自分の祖先が眠っているのか、本当は判断がつかない。
そのために、土(la terre)である死者たちは、私たちの足取り(nos pas)を混乱させるのだ。

このように、土になり個別性を失った死者たちと、彼等を弔おうとする生者たちの関係に言及した後、詩人の意識は、「私」へと向かう。
その時に中心となるのは、ウジ虫(ver)。

Le vrai rongeur, le ver irréfutableと並列された詩句は、[v] と[ r ]の二つの子音が反復され(アリテラシオン)、ウジ虫が何かをかじる存在であることが音の点からも強調されている。

それは、地中の死者たちにとっては、彼等の肉体をかじり、分解し、土にしてしまうもの。第14詩節では「一群(un peuple)」、第15詩節では「幼虫(la larve)」と呼ばれた。
墓石の下で、死者たちの個体性を失わせ、普遍にと変えるのが、それらの働きだった。

しかし、ここでは、ウジ虫は死者たちのためにあるのではないと言われる。
それは、生の側に属し、私と共にある。

では、それは何か。
第20詩節から、私をむしばむものへの問いかけが始まる。

Auguste Rodin, Le Penseur

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