
ボードレールの「腐った屍(Une Charogne)」は、とても奇妙な恋愛詩。
恋人と二人で道を歩いているとき、一匹の動物の腐った死骸を見る。蛆がたかり、肉体は崩れかけている。
そのおぞましい光景を描きながら、愛の歌にする。
どうしてそんなことが可能なのだろう?
死について語り、時間が限られているのだから、まさに今、私の愛に応えてくれと訴える恋愛詩の伝統がある。
それは、16世紀に作られたバロックの詩。
古代ローマの時代から、メメント・モリ(memento mori)という思想があった。「自分が死ぬことを忘れるな」とか「死を思え」という意味。
骸骨の描かれている絵画があるが、その骸骨は人生の儚さを象徴し、死を常に思い出させるものだった。

こうしたメメント・モリの思想は、今を楽しみ充実させろという、カルペ・ディエム(Carpe Diem)の思想と繋がる。
カルペ・ディエムは、古代ローマの詩人ホラティウスの詩句「明日のことは考えず、その日の花を摘め」に由来する。
16世紀フランスの詩人ロンサールも、「愛しい人よ、さあ、バラを見に行こう。」などの詩の中で、朝美しいバラも夕方には枯れてしまうと歌いながら、愛する人に、今、彼の愛に応えてくれるように懇願する恋愛詩を書いている。
https://bohemegalante.com/2019/03/09/ronsard-mignonne-allons-voir/
「腐った屍」は、バロック的な恋愛詩の伝統に基づき、街路に野ざらしにされ、腐ってボロボロになった動物の屍を見て、愛する女性に向け、君もいつかこうなるだろうと、臆面もなく書く。
その上で、その姿を詩の中に留めることで、自分の愛の精髄が永遠になると歌う。つまり、究極の愛の歌。
美しい対象を美しい言葉で綴る伝統的な詩に反逆し、醜い対象を取り上げ、詩の美を作り挙げる新しい美学を創造する。それが、「腐った屍」におけるボードレールの挑戦だった。
まず、全体を音声でたどってみよう。
「腐った屍」は、4行詩が12詩節連なって成立している。
内容的に分類すると、5つのブロックに分けることができる。
1−4:死体の外見的な様子
5−7:ハエや蛆などがたかる様子
8: 美学の提示
9: 雌イヌの視点
10−12:愛する人へのメッセージ
まず、第1−4詩節を読んでみよう。
Rappelez-vous l’objet que nous vîmes, mon âme,
Ce beau matin d’été si doux :
Au détour d’un sentier une charogne infâme
Sur un lit semé de cailloux,
あれを思い出してくれ、二人で見たあれ、我が魂の人よ。
美しく、穏やかな夏の朝のこと。
小径の曲がり角にあった、おぞましい死体、
小石を敷き詰めた舗道の上の。
Les jambes en l’air, comme une femme lubrique,
Brûlante et suant les poisons,
Ouvrait d’une façon nonchalante et cynique
Son ventre plein d’exhalaisons.
足を空中に投げ上げ、淫らな女のよう。
身を焦がし、毒気の汗をにじませ、
無頓着でありながら、皮肉っぽく開くのは、
臭気に満ちた腹。
Le soleil rayonnait sur cette pourriture,
Comme afin de la cuire à point,
Et de rendre au centuple à la grande Nature
Tout ce qu’ensemble elle avait joint ;
太陽が、腐敗した遺骸の上で輝いていた。
食べ頃に焼くかのように。
そして、偉大な「自然」に、百倍にして返すためであるかのように、
自然が一緒にした全てのものを。
Et le ciel regardait la carcasse superbe
Comme une fleur s’épanouir.
La puanteur était si forte, que sur l’herbe
Vous crûtes vous évanouir.
空がじっと眺めていた。素晴らしい死体が、
一本の花のように花開くのを。
あまりのひどい臭いのため、草の上で、
お前は気を失うと思うほどだった。
二人が見たのが見たのは、何の死体なのだろうか。
ボードレールと同時代の画家オノレ・ドーミエは、犬を描いている。

詩人は愛する女性に、一緒に見たもの(l’objet)を思い出してくれと呼びかける。それを見たのは、夏の美しい朝。
本来であれば、それは美しい対象であるはず。しかし、彼が口にするのは、屍。そこには「おぞましい(infâme)」という形容詞が付けられている。
腐って、悪臭を放っているのだろう。
その醜い屍に、ボードレールはエロティシズムの要素を付加する。
倒れ、足を上げている姿が淫らな(lubrique)女に似ているとし、熱や汗、臭気など、触覚や臭覚を通して、人間の肉体を刺激する要素を言葉にしていく。
汗として発汗する毒(poisons)は、人間を酔わせ、興奮させ、人工楽園に導く薬物を思わせる。
その屍を、ボードレールは、腐敗物(pourriture)、骨の塊(carcasse)と呼び、臭いのひどさのために、愛する人は気絶したと思えるほどだったと、思い出を綴る。
この連想で興味深いのは、二人で見た対象に向けられた視線である。
最初は「おぞましい屍(une charogne infâme)」と名指されたものが、淫乱な女と比喩された後、腐ったもの(pourriture)ではあるが、偉大な自然の被造物の一つであることが暗示される。つまり、その屍も元をたどれば自然の産物であり、腐敗して分解されれば、元の自然へと戻って行く。
そして、最後に、「素晴らしい死体(la carcasse superbe)」と呼ばれ、花開く。
美しい対象であれば、人をその香気で酔わせる。他方で、屍は、腐った臭いで、彼女を失神させた。そのいずれにせよ、臭覚が働き、人を忘我へと導く。
醜も、美と同様に、人を酔わせ、恍惚へと導くことが、このようにして暗示される。
第5ー7詩節では、腐敗の様子が詳細に描かれる。
Les mouches bourdonnaient sur ce ventre putride,
D’où sortaient de noirs bataillons
De larves, qui coulaient comme un épais liquide
Le long de ces vivants haillons.
蠅たちがブンブンうなっていた、腐った腹の上で。
そこからウジ虫の黒い大群が湧き出、
濃い液体のように流れていた、
生命あるボロ着に沿って。
Tout cela descendait, montait comme une vague,
Ou s’élançait en petillant ;
On eût dit que le corps, enflé d’un souffle vague,
Vivait en se multipliant.
そこに見える全てが、波のように、下り、上り、
ぴちぴちと飛び跳ねていた。
それはちょうど、肉体が、おぼろげな息吹で膨れ上がり、
増殖しながら、生きているかのよう。
Et ce monde rendait une étrange musique,
Comme l’eau courante et le vent,
Ou le grain qu’un vanneur d’un mouvement rhythmique
Agite et tourne dans son van.
その世界は、奇妙な音楽を奏でていた、
流れる水のような、風のような、
穀物の粒のような。リズミカルな動きで、
箕の中、動き、回転する粒。

犬の死体にハエやウジ虫がたかり、腐敗し、分解していく。
そのぞっとする光景を描きながら、この3つの詩節は躍動感に溢れ、生き生きとし、リズミカルである。
命のないはずの屍でありながら、生あるぼろの服(vivants haillons)と名指され、生きていた(vivait)と明言される。
なぜなら、ハエやうじが動き、死に生を与えているからである。
ハエはブンブンと音を立て、聴覚を刺激する。
ウジ虫は、横に流れるように動くだけではなく、上下に動き回る。しかも、ピチピチと音を立て、視覚だけではく、聴覚の刺激にも加わる。
詩人はそこに、水の流れ、風の音、穀物を箕で選り分ける時のようなリズミカルな音楽を聞き取る。
これは、第3詩節で言及された偉大な自然に被造物を100倍にして返すことを意味するだろう。
普通はおぞましく醜いと捉えられるものも、美しいものと同様に、生命が宿り、運動し、音を奏で、自然の生命の一部であることに変わりない。
第5ー7詩節は、屍に命を与え、醜を美に変換する視点を見事に表現している。
第8詩節では、ボードレールの美学が提示される。
Les formes s’effaçaient et n’étaient plus qu’un rêve,
Une ébauche lente à venir,
Sur la toile oubliée, et que l’artiste achève
Seulement par le souvenir.
物の形は消え去り、もはや一つの夢にすぎなかった。
素描はなかなか描かれない、
画布の上に忘れられ、芸術家が完成に至るのは、
ただ思い出によってのみ。
物の形は消える。
その意味するところは、時間の経過とともに全てのものは消滅し、現実の次元で永遠に続くものはないということだろう。
もし芸術の対象とするものが事物の形体であり、それを再現することが芸術の目的だとしたら、芸術は虚しい。
対象が最高の美だとしても、逆に醜悪なものだとしても、ボードレールはそれらを美化することも、あるがままの姿で再現することも目指さない。
美化し、理想化するとすれば、それは古典主義芸術になる。
あるがままであれば、レアリスムの芸術観になる。
ボードレールの芸術館は、そのどちらでもない。
事物の形体が消え去り、忘れられるとき、それらは一つの夢になると彼は言う。
では夢とは何か?
夢の世界は、現実を反映していることも多いが、全ては私の主観の中で展開する。夢の中に出てくる事物も人物も、そして自己も、全ては「私」の思いの反映であり、想像力が生み出す空想の世界と変わるところがない。
忘れられることで、全てのものが一旦主観の世界の中に取り込まれる。その際に、ボードレールの用語で言えば、「私」の気質(tempéramant)の色彩を帯びることになる。
そして、対象を芸術作品として描くときには、その形体を再現するのではなく、思い出の中から呼び覚ますことになる。
その時、描かれた対象は、元のままの形体をしているとしても、芸術家の気質を通して見られた際の変形を受ける。
同じ対象を描きながら、芸術家によって異なる作品になる。一人の芸術家でも、その時その時で異なった作品を創作する。
たとえ目の前の対象を写生しているとしても、芸術家は対象を夢見、思い出を呼び出す。
ポール・セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山を思い出そう。
彼は同じ山を飽きることなく、描き続けた。対象は同じであり、画家セザンヌの気質も同じ。しかし、描かれる度に、山の姿は違っている。




ボードレールと恋人が街路で目にした腐敗した死体には、ハエやウジ虫がたかり、見た目にもおぞましく、悪臭が漂っていた。
詩人がそれを詩の対象(objet)にするとき、思い出によって呼び出された屍は、醜悪な姿はそのままに、生を感じさせる躍動感、リズム感を持ち、不思議な音楽を奏でる。
そして、そこに美が誕生する。

こうして屍の美学が提示された後、詩人は再び現実の世界に戻る。それが第9節の雌イヌへの言及。
Derrière les rochers une chienne inquiète
Nous regardait d’un œil fâché,
Épiant le moment de reprendre au squelette
Le morceau qu’elle avait lâché.
岩の後ろでは、一匹の不安げな雌イヌが、
私たちを怒った目つきで見つめ、
機会を狙っていた、骸骨から、
先ほど離してしまった肉片を取り戻す機会を。
犬は、ボードレールと恋人を、獲物を奪い合う敵と見做したのだろう。不安げで、怒った目つきをしているのは、敵を前にしているからに違いない。
この現実的な場面を詩に描いているのは、ボードレール的な美が現実の対象を無視して生成するのではなく、逆に、現実に基づいていることを暗示するためだと考えられる。
現実から夢に、夢から思い出へ、そして現実に戻る。この過程がモデルニテの美学の基本概念である、美の二面性(束の間と永遠)と対応している。
第10詩節になると、「腐った屍」がメメント・モリに基づいた恋愛詩であることが明らかになる。
— Et pourtant vous serez semblable à cette ordure,
À cette horrible infection,
Étoile de mes yeux, soleil de ma nature,
Vous, mon ange et ma passion !
ーー でも、いつか君はこの汚物に似てくるだろう。
このおぞましい汚染源に。
わがの目の星よ、わが自然の太陽よ、
君、わが天使、わが情熱よ!
Oui ! telle vous serez, ô la reine des grâces,
Après les derniers sacrements,
Quand vous irez, sous l’herbe et les floraisons grasses,
Moisir parmi les ossements.
そうだ! 君はこんな風になるだろう、優美さの女王よ、
臨終の秘蹟の後、
君が、草や肥沃な葉の下で、
骨の間で腐っていく時に。
今のあなたは美しい。しかし時が経てばその美しさは消えてしまう。だから、今、ぼくを愛して。このレトリックは、まさにバロック的恋愛詩そのものといえる。
ただし、一方では、星、太陽、天使、情熱、優美さの女王と褒め称えながら、その行く末として、腐敗した死体を挙げるのは悪魔趣味と言われても仕方がない。
1857年の『悪の華』当時、ボードレールは「腐った屍」の詩人として知られ、59年に友人に出した手紙の中では、そうした呼称はもううんざりだと書いたりしている。

最終の第12詩節は、第8詩節で表明された美学を受け、この詩でボードレールが目指したものが明示される。
Alors, ô ma beauté ! dites à la vermine
Qui vous mangera de baisers,
Que j’ai gardé la forme et l’essence divine
De mes amours décomposés !
その時、おお、美しい人よ、ウジ虫に言ってくれ、
口づけで君を食い尽くすウジ虫に、
ぼくは、形象と神聖な本質を保ったのだと、
分解されたぼくの愛の!
ぼくの愛は分解されている。としたら、腐敗し崩れ落ちた屍は、その愛を具現化していることになる。
そして、その姿を歌う詩は、愛の形象(forme)と神聖な本質を保管しているといえる。
ここで言う形象は、第8詩節の物の外形的な形体(les formes)ではなく、ものを形作る原理としての形象と考える必要がある。外形が束の間の存在であり、消え去ることを必然としているのに対して、形象は時間を超え、永遠の存在である。
一匹のメス犬が見る屍が単なる動物の肉であるとすると、詩人の見る屍は生命力に富み、奇妙な音楽を奏でる美の源泉。
その二つの側面が、モデルニテの美を構成する。
「腐った屍」は、恋愛詩でありながら、自己の美学を明かす詩法でもある。
最後にもう一度朗読を聴いてみたい。
『ポンヌフの恋人』の俳優ドニ・ラヴァンの声は、この詩に相応しい。
レオ・フェレの歌。勢いが生を感じさせる。
フランス語での詩の解説。
「ボードレール 「腐った屍」 Baudelaire « Une Charogne » 奇妙な恋愛詩」への3件のフィードバック