
「エロディアード 舞台」の第86行目から117行目までの32行の詩句は、エロディアードが自己のあり方を4つの視点から規定する言葉から成り立っている。
まず、彼女が花開く庭から出発し、黄金、宝石、金属に言及されることで、個としてのエロディアードの前提となる、普遍的な美が示される。
次いで、乳母から見える彼女の姿。
3番目に、彼女自身が望む彼女の姿。
最後に、「私を見る私」という構図の種明かしがなされる。
H.
Oui, c’est pour moi, pour moi, que je fleuris, déserte !
Vous le savez, jardins d’améthyste, enfouis
Sans fin dans de savants abîmes éblouis,
Ors ignorés, gardant votre antique lumière
Sous le sombre sommeil d’une terre première,
Vous, pierres où mes yeux comme de purs bijoux
Empruntent leur clarté mélodieuse, et vous
Métaux qui donnez à ma jeune chevelure
Une splendeur fatale et sa massive allure !
H. (エロディアード)
そう、犠牲者なのです。私のために、私のために、私は花開くのです。不毛な私!
そのことをあなたたちは知っているのです。紫水晶の庭たちよ、限りなく
葬られている庭、光輝く知の深淵の中に。
人に知られぬ黄金よ、古代の光を、
最初の大地の暗い眠りの下に保ち続けている黄金。
あなたたち、宝石よ、私の目が、汚れなき宝のように、
調べのいい光を借用している宝石。そして、あなたたち、
金属よ、私の若々しい髪に与えてくれるのは、
宿命的な輝きと堂々とした身のこなし!

「私のため(pour moi)」という言葉は、乳母がエロディアードに向かい、「誰のために、あなた様は人に知られぬ輝きと虚しい神秘を保っているのか」と問いかけた時、すでにエロディアードの口から発せられていた。
そして、彼女の「私のため」という言葉を聞き、乳母は、彼女のことを「悲しい花(triste fleur)」であり、「水の中の影(ombre dans l’eau)」と見なしたのだった。
この乳母の言葉は、エロディアードを乳母の視点、つまり現実の実在とその影とを峻別する2元論的な視点に基づいたもの。
それに対して、ここでは、エロディアード自身が、彼女の視点、つまり実在と影の相互性と虚無性に基づいた視点から、自己のあり方を描いてみせる。
そうした乳母と彼女の言葉の対比を明確にするために、マラルメは「私のため」という表現をあえて反復したのだと考えられる。

まず最初に、エロディアードは、自身が不毛だと言う。それは、自分のために花開くから。
そのことによって示されるのは、今鏡の前に座る彼女の実在は、鏡に映る彼女の像によって成り立ち、その根底は虚無であるということ。
これまでに何度も話題にしてきたこの関係を再び取り上げた後、4つの物質に語り掛ける。
紫水晶の庭、黄金、宝石、金属。
それらは何を意味しているのだろうか。
鏡の前のエロディアードは、自己とその鏡像の中で閉じていて、不毛であるように見える。その上、その関係の基盤は「虚無」なのだ。
しかし、エロディアードは、その普遍的な関係性を内包していることで、個でありながら普遍でもある。
その普遍性は、「私は自身を鏡の中に現す(Je m’apparut en toi (miroir)」というエロディアードの言葉によって明かされていた。動詞が単純過去に置かれていることで、私(je)が話者の体験ではなく、三人称的な体験として語られる。
https://bohemegalante.com/2020/04/22/mallarme-herodiade-scene-4/3/
同様に、今エロディアードが呼びかけている4つの物質も、彼女の普遍的な属性だと考えることが出来る。
ここで思い出したいのは、最初に乳母が彼女の髪に香料をかけようとした時のこと。エロディアードは自分の髪が花ではなく、黄金(de l’or)であり、その黄金は金属の不毛な冷たさ(la froideur stérile du métal)を持っていると述べた。
4つの物質は、その言葉をさらに展開するものと見なしてもいいだろう。

まず、紫水晶(améthyste アメシスト)の庭が呼びかけの対象になる。
それらは深淵(abîmes)の中に葬られている。
深淵には、知識がある(savants)と光輝く(éblouis)という二つの形容詞が付いている。
葬られるには、限りなく(sans fin)という副詞句が付く。
こうした表現から、エロディアードの美が、知的な輝きと無限の深みを持っていることが暗示される。

黄金(ors)には、人に知られぬ(ignorés)という形容が付されている。
この形容詞は、乳母がエロディアードに向かって、「あなた様は誰のために人に知られぬ輝き(splendeur ignorée)を持っていられるのですか」と問いかけた時に、すでに使われていた。
さらに遡れば、最初に乳母が彼女を見、生きているのか亡霊なのかと自問した時、「人に知られぬ時代(âge ignoré)を歩くのは止めてください」と願った際にも使用された。
人に知られぬ美も、エロディアードの美の属性なのだ。
そして、人に知られぬ黄金は、最初の大地を照らした光、つまり事物が生成する瞬間の輝きを保っている。
時間の流れに押し流されて古びていく美ではなく、見られる度に新鮮な美。
だからこそ、毎回、見知らぬものに思われる。
宝石は混じりけがなく(pur)、調べのいい光(clarté mélodieuse)を、エロディアードの目に授けている。
調べがいい(mélodieuse)、つまり音楽的ということは、調和が取れ、リズミカルな印象を生み出す。
「音楽から富を取り戻す(reprendre à la musique notre bien)」と考えるマラルメにとって、音楽性は美の本質に他ならない。

金属は髪に「宿命的な輝き(splendeur fatale)」と「堂々とした身のこなし(massive allure)」を与える。
金属に関しては、すでにその冷たさ(froideur)に言及されていた。しかも、不毛な(stérile)冷たさ。
そうした属性が、見る者を惹きつける宿命的な美の一つのあり方だといえる。
マラルメは、こうして、エロディアードが体現する美の4つの属性を喚起した。
次に、乳母の視点から見た美を、エロディアードの口から語り直す。
Quant à toi, femme née en des siècles malins
Pour la méchanceté des antres sibyllins,
Qui parles d’un mortel ! selon qui, des calices
De mes robes, arôme aux farouches délices,
Sortirait le frisson blanc de ma nudité,
Prophétise que si le tiède azur d’été,
Vers lui nativement la femme se dévoile,
Me voit dans ma pudeur grelottante d’étoile,
Je meurs !
お前は、邪悪な時代に生まれた女、
古代の巫女たちの洞窟の意地の悪さゆえに、
お前は、ある死すべき人のことを口にする。その人によれば、私の衣の萼から、人慣れしない至福の香り、
私の素肌の白い震えが、発せられるのだという。
さあ、予言しなさい。もしも、夏の生暖かい蒼穹、
それに向けて、女性は生まれつきヴェールを脱ぎ捨てるものです、
その蒼穹が、星に震えて恥じらう私を見るとしたら、
私は死ぬのだ、と。
エロディアードにとって、乳母は邪悪な時代の巫女たちにつながる存在。
ではなぜ古代の巫女の神託を意地悪く思うのか。

エロディアードは、鏡に映る自分の姿を見つめている。
それは、古代の神話で語られるナルシスと同じ姿勢である。
ナルシスは泉に映った自分の姿に恋をし、そこから動けなくなり、死んでしまう。

こうしたナルシスの神話は、自己愛を語るものであり、鏡に映った姿を見つめるエロディアードも、同様の解釈を受けかねない。
実際、乳母は、彼女のことを「悲しい花」と呼び、水に映った影(ombre dans l’eau vue)と言い換える時には、無気力に(avec atonie)という言葉を使っていた。
そして、その言葉に対して、エロディアードは、皮肉だ(ironie)は止めるようにと命じた。
この無気力さこそ、ナルシスが自分の姿を見つめ、動けなくなった状態に他ならない。
エロディアードが、古代の巫女の洞窟に言及し、巫女たちが邪悪な予言をすると考えるのは、「自分を見る自分」の姿勢を、ナルシスなものと見なすからに他ならない。
乳母の視点からすると、エロディアードの衣の襞=花の萼から発せられる甘美な香り(délices)も、荒々しく人慣れしない(farouche)。
彼女の白い素肌は、おののき、震えている。

本来は理想を示すはずの「蒼穹(azur)」も、生暖かい(tiède)。
その理想の前で、本来であれば、女性はためらうことなく、ヴェールを持ち上げ(se dévoiler)、素顔を見せる。古代の女神の像のように。
しかし、「生温かな蒼穹(tiède azur)」に対しては、生まれながらの(nativement)素顔を現すことはできず、エロディアードは、羞恥の感情を抱き、震えるしかない。
たとえそれが、星のわずかな光の下であろうと。
言うならば、ミロのヴィーナスが裸体を恥ずかしいと思うようなもの。
乳母の視線は、ヴィーナスの美を殺してしまう。

こうしたことは、21世紀の世界観、芸術観を予言している。
アメリカでは、クールベの「世界の起源」を猥褻な絵画であると判断し、展示を禁止したことがあったという。
芸術に、現実世界の価値判断を持ち込めば、全ての裸体画は、猥褻画像ということになってしまう。
エロディアードが言うように、美は死んでしまう。
彼女は、乳母に、その死を予言せよと、命じた。
それは、当時のブルジョワたちの芸術観に対する揶揄であったのかもしれない。
J’aime l’horreur d’être vierge et je veux
Vivre parmi l’effroi que me font mes cheveux
Pour, le soir, retirée en ma couche, reptile
Inviolé, sentir en la chair inutile
Le froid scintillement de ta pâle clarté,
Toi qui te meurs, toi qui brûles de chasteté,
Nuit blanche de glaçons et de neige cruelle !
私は処女であることの恐怖を愛します。私が望むのは、
私の髪が作り出す恐怖の中で、生きることです、
そして、夕べには、寝床に退き、犯されない
蛇として、無益な肉体の中に感じるのです、
お前の青白い光の冷たい輝きを。
死にいこうとするお前、純潔に燃えるお前、
小さな氷の塊と残酷な雪でできた白い夜よ!
この詩句でまず目に付く、というよりも、耳に訴えかけてくるのは、[ v ]の音の反復。(アリテラシオン)
Vierge, Veux, ViVre, cheVeux, そして、少し離れたところにあるinViolé。
[ v ]の音は、詩の冒頭に置かれた乳母の言葉、« Tu Vis ! ou Vois-je »の中で反復し、「生きる」と「見る」を音によって関係付けた。
ここでは、処女性(vierge)と不可侵性(inviolé)が遠くで共鳴しながら、「望む(veux)」「生きる(vivre)」「髪(cheveux)」を繋いでいる。
[ oi ]の音も、キーとなる単語の中で、響き合う。
effrOI, sOIr, frOId, tOI.
この音が、冷たい水(eau frOIde)と鏡(mirOIr)を繋いでいたことを思い出すと、夕べ(soir)、恐怖(effroi)、寒さ(froid)によって導かれるお前(toi)とは誰か、わかってくる。
エロディアードがここで「お前(toi)」と呼ぶのは、乳母ではなく、鏡に映った自分。
主体である「私」が客体である「私」に話しかけるという、この詩の最も基本的な構図が、ここで明白なものとなる。
では、その構図の中で、「処女であることの恐怖(l’horreur d’être vierge)」とは、何を意味するのか。
彼女は、「犯されない蛇(reptile inviolé)」とか「無益な肉体(chair inutile)」といった言葉を口にする。

ここで、エロディアードが詩の最初に発した、彼女の髪と肉体に関する言葉を思い出そう。
« Le blond torrent de mes cheveux immaculés / […] le glace (mon corps solitaire) / d’horreur […]. »
汚れのない髪の金色の爆流が、私の孤独な体を凍らせる、恐怖によって。
彼女が愛する恐怖とは、金髪に覆われて凍結した体、あるいはその凍結なのだ。
だからこそ、彼女は「私の髪が作り出す恐怖(effroi que me font mes cheveux)」の中で「生きること(vivre)」を願う。
そして、エロディアードは、今、その姿を、誰にも触れられていない蛇のように感じている。
「お前」と呼ばれる彼女の鏡像も、純潔(chasteté)で燃えている。
このように、処女、犯されない、純潔と、他者から触れられないことを強調するのは、エロディアードの存在のあり方を強調するためだろう。
彼女の存在は、他者との関係によって成立するのではなく、主体の「私」と客体の「私」の錯綜した関係の中で成立する。

その関係は、「私」が鏡の前を離れれば、明白なものではなくなってしまう。
「お前」はすぐにでも死んでしまう(toi qui se meurs)存在。
その「お前」に向かい、エロディアードは、「白い夜(nuit blanche)」と呼びかける。
夜は暗く、白色と夜とは相容れない。その二つを繋げることを、オクシモロン(撞着語法)という。
その語法によって「お前」との複雑な関係を暗示し、さらにそこに「小さな氷の塊(glaçons)」と「残酷な雪(neige cruelle)」が付け加えられることで、冷たさや儚さの効果が生み出される。
しかし、その特性は、鏡の中のエロディアードのものなのか。鏡の前のエロディアードのものではないのか。
Et ta sœur solitaire, ô ma sœur éternelle
Mon rêve montera vers toi : telle déjà,
Rare limpidité d’un cœur qui le songea,
Je me crois seule en ma monotone patrie
Et tout, autour de moi, vit dans l’idolâtrie
D’un miroir qui reflète en son calme dormant
Hérodiade au clair regard de diamant…
O charme dernier, oui ! je le sens, je suis seule.
お前の孤独な姉妹よ、おお、私の永遠の姉妹よ、
私の夢はお前に向かい昇っていくだろう。もうこんな風に、
それを夢見た心の、ありえないほどの透明さとなり、
私は一人だと思っている、私の単調な祖国の中で、
そして、私を取り囲む全てが、鏡を崇拝し、生きている、
鏡は、眠るような静けさの中、映し出す
エロディアードを、ダイヤモンドの明るい眼差しをした。。。
おお、最後の魔法の魅力よ、そう!私は感じている。私は一人なのだ。
エロディアードは、鏡に映るエロディアードに向かい、こう言う。
「私の(ma)」永遠の姉妹よ。
その姉妹とは、鏡に映る映像のこと。
他方、鏡の像に向かって、「お前の(ta)」孤独な姉妹と言えば、その姉妹とは、鏡の前にいるエロディアード自身のことを指すことになる。

しかし、この時、二人の姉妹のどちらがどちらに話しかけているのか、区別できるだろうか。
鏡の中のエロディアードも、こちら側のエロディアードと同時に相手に呼びかけ、まった同じ身振りをする。
実在と鏡像の区別が曖昧になり、根拠を持たないものになる。
どちらが先で、どちらが後ということもない。どちらが姉で、どちらが妹ということもない。
マラルメは、フランス語の姉妹(sœur)という言葉が、姉と妹を区別しないことを、巧みに利用している。
二人はほとんど同一であり、その相互関係の中に生きる存在。
とすれば、二重化しているように見える「私」も、実のところ一人であり、孤独である。

さらに言えば、二人の間には鏡(miroir)があり、「私」はそれを見つめる。
その時、鏡は「虚無(le Néant)」であり、それ自体に動きはない。眠ったように静か(calme dormant)だ。
それは、氷=ガラス(glace)として姫の前に置かれ、私の回りの(autour de moi)「あらゆるもの(tout)」を映し出す。
その際に、あらゆるものが、鏡の崇拝の中(dans l’idolâtrie)で生きる(vit)ととしたら、あらゆるものも鏡に映ることで、生を得ることになる。
生きる(vivre)は見る(voir)と[ v ]の音によって共鳴し、見るための媒介が鏡(miroir)。voirとmiroirが[ oi ]の音で響き合う。
エロディアードは、孤独でありながら、鏡に映る自己の姿との間に全てを映し出す。つまり、全てはエロディアードの中にある。
従って、全て(tout)も、エロディアードと同じように、孤独(solitaire)でありながら永遠(éternel)。過去、現在、未来を含み込む。
私の夢(視線)は、これからもお前に向かう(montera)。その際、動詞は未来形が使われる。(未来)
その夢をかつて夢見た(songea)心(cœur)がある。動詞は、単純過去形。
すでに見てきたように、単純過去は、話者とは切り離された行為を示す。
従って、夢見た心は、エロディアード個人の心というよりも、どの人間にもある普遍性に基づいた心ということになる。
その時、マラルメは、夢見た時点(songea)を過去に位置させている。(過去)

そして、今、エロディアードは、自分を孤独だと見なしている(Je me crois seule.)。(現在)
このように、過去、現在、未来が、鏡の前で自分の姿を見るエロディアードの中に重層化されている。
その時、彼女の眼差しは、ダイヤモンドのように澄んでいる。
その眼差しをしたエロディアードは、魅力(charme)に富む。
それこそ、マラルメが思い描く「美」そのものの姿だ。
マラルメのエロディアードは、聖書で語られた出来事や歴史的な事実に基づき、洗礼者ヨハネの首をはねさせたサロメあるいはその母親をモデルし、その再現として描き出された女性ではない。
エロディアードという名前が発散する印象に導かれ、「エロディアード 舞台」の中でのみ生き、読者の心に美を生み出す効果を期待された詩句によって形作られている。
だからこそ、彼女は孤独でありながら、永遠なのだ。