アンデルセン童話の美しさ 1/2

アンデルセン童話は、安心して子どもに与えることができ、しかも、その美しさは大人の読者をも惹き付けてやまない。
どこの国のいつの時代の読者も、ハンス・クリスチャン・アンデルセンが1805年に生まれ、1875年に亡くなったデンマークの作家、などということは気にせずに、彼の創作した物語に親しんでいる。

「人魚姫」「マッチ売りの少女」「裸の王様」「みにくいあひるの子」等は、読んだことはないにしても、名前を聞いたことはあり、なんとなく話の筋は知っているに違いない。

「雪の女王」は、ディズニーの「アナと雪の女王」によって、全世界で大流行する物語になった。

では、アンデルセン童話のどこに、それほどの魅力があるのだろうか。

アンデルセン童話の近代性

アンデルセン童話は、ペローから始まった児童文学の到達点である。
性的なほのめかしも、残酷な暴力もない。世界中でよく知られているという面ではグリム童話に匹敵するが、グリムとは違って、眉をひそめるような残酷な部分はない。

子どもに隠しておきたいと思う記述が見当たらない理由は、アンデルセン童話の大部分が創作童話であることと関係している。民話には性的な記述や暴力的な行為が許されている。
グリム童話は民話を語り直したものであり、民話的な側面を色濃く残している。
他方、アンデルセン童話は、民話をベースにした物語がないわけではないが、大部分は彼の創作である。原作がないだけに、民話からより遠ざかることができたといえる。
そのことが、グリムとアンデルセンの大きな違いになっている。

民話的でないということから、もう一つの特色も見えてくる。
「昔々あるところに」という言葉によって、非現実の世界に一足飛びに入り込むことはなく、読者に身近な世界で物語は展開する。
「みにくいアヒルの子」や「親指姫」のように人間が主人公でない場合にも、舞台は人間の住む世界の片隅に置かれている。
それは、「人魚姫」でも同じであり、私たちが目にする海の中での出来事なのだ。
空想の国を舞台にした「はだかの王様」のような例外もあるが、基本的には、現実世界が前提とされている。

その中でももっともはっきりしているのは、「マッチ売りの少女」。
物語は都会を舞台とし、主人公もどこにでもいる女の子である。しかも彼女が売っているのは箱に入ったマッチ。それは一九世紀前半に発明された品物で、アンデルセンは自分の生きた時代の新しい風俗を物語に取り入れたことになる。
その文明の利器と近代都市の貧困との対比から、当時の読者に強く訴えかける切ない物語を作り出した。

こうした近代性が、アンデルセンの世界に、色鮮やかでどこか洗練された味わいを与えている。

子どもの可能性

アンデルセンの物語は基本的に子どもを読者として想定している。
1835年に最初の童話集が出版されたとき、『子どものための童話集』と題されていた。それは、1842年の『子どものための新しい童話集』まで続く。
その後は、「子ども」という言葉が取られ、『新童話集』となり、さらには『物語集』、『新しい童話と物語集』となるが、あくまでも子どもを読者として考えていたことに変わりはない。

では、アンデルセンは子どもをどのような存在として見ていたのだろう?
ペローやグリムと同様に、子どもが無垢で純粋な存在とみなされていたことは間違いないが、それ以上に彼は、子どもの中に成長のための可能性を見いだしていたようである。

「雪の女王」の中で、少女ゲルダは、雪の女王にさらわれたカイ少年を助けるため、長く苦しい試練の旅に出る。その試練の最中に出会ったフィン人の女性はトナカイに向かって、ゲルダのことを次のように言う。

私にはね、ゲルダがいま持っているよりも、大きな力をつけてやることはできないよ。ゲルダの力がどんなに大きいか、お前にはわからないのかい? 人間でも動物でも、あの子のためなら、どうしても助けてやりたくなるじゃないか。裸足でこんな世界の果てまで、どうしてこられたのか、お前にはわからないの? あの子は、私たちなんかから、力を教わるにはおよばないんだよ。その力はあの子自身の心の中にあるんだもの。つまり、あの子のやさしい罪のない心が、とりもなおさず力なんだよ。

この素晴らしい言葉は、昔話や民話の主人公たちの試練に則りながら、アンデルセンが、自分の作り出した主人公に真の人間性を与えていることを示している。
ゲルダはどこにでもいる可愛い少女で、とりわけ優れた力があるようには見えない。しかし、罪のない心を持っていて、その純真さがすでに大きな力をゲルダに与えている。

昔話の主人公たちには、必ずといっていいほど「援助者」がいる。その「援助者」のおかげで、様々な試練を乗り越えることができる。
小さな子どもが一人で全ての試練を乗り越えられるわけではない。誰かに助けてもらうことも必要になる。自分で実行する能力だけではなく、助けたいと思ってもらえるのも主人公の力の一部といえる。
例えば、シンデレラは妖精にドレスや馬車を与えてもらうからこそ、舞踏会に行くことができる。このように、援助者から助けてもらうことができるのも、シンデレラの善良さのおかげなのであり、彼女の力なのだ。

フィン人の女性は、大きな力がゲルダの中に宿っていて、その力とは「あの子のやさしい罪のない心」なのだと言う。その心が援助者を出現させる魔法の力となるのだが、実は、その心とは、彼女の中から湧き上がり、試練を乗り越えるエネルギーの源に他ならない。

ゲルダを子どもの代表だと考えると、アンデルセン童話は、読者である子どもたちにゲルダのような心を養うことを目指していると考えてもいいだろう。
その心が援助者を呼び寄せ、様々な試練を乗り越え、子どもの持つ様々な可能性を実現するための基礎となる。

アンデルセンは、こうした子ども観に基づき、子どもの中にある可能性をさらに伸ばすために、童話を作り続けたのだと考えられる。

悪の起源

では、可能性を持たない子どもはいるのだろうか?

無限の力の源が「やさしい罪のない心」だとすると、そうした心を持たない子どもには可能性がないことになる。別の言葉で言えば、悪い心を持って生まれてきた子どもはいるのだろうか。

アンデルセンは、その問いに、ノーと答えるだろう。

「雪の女王」は、アンデルセンの考える悪の起源について教えてくれる。物語は、悪魔の登場から始まる。

 ある日のこと、そいつはたいへんな、ごきげんでした。なぜかというと、不思議な性質をもっている鏡を一つ、作ったからです。つまり、なんでもないものや、美しいものが、その鏡に映ると、たちまち、くちゃくちゃにちぢこまって、ごくごくつまらないものになってしまうというのです。それにひきかえ、ろくでもないものや、醜いものはかえってでしゃばってきて、いっそうひどくなるというのです。どんなに美しい景色でも、この鏡に映すと、ゆでたホウレン草みたいにみえ、どんなにいい人間でも、醜くなったり、または、胴がなくて、さかだちに映ったりするのでした。顔なんかは、ねじれて見わけがつきません。ソバカスが一つあっても、それが鼻や口の上までひろがることは、かくごしなければなりませんでした。
 こりゃ、めっぽうおもしろいぞ、と「悪魔」はいいました。人間の心のなかに、なにかいい考えや、信心深い考えが浮かぶと、鏡の中には、しかめつらが、あらわれるのですから、小びとの魔ものは、このすばらしい発明に思わず笑わずにはいられませんでした。

悪そのものが存在するのではなく、悪とは善と反対のものにすぎない。
確かにソバカス程度のものはあるかもしれない。しかし、本当の悪が最初から存在しているわけではなく、いいものが悪魔の鏡によって逆転されると、悪が生まれてくることになる。
やさしかったカイが悪い子になってしまう理由もそこにある。

悪魔は、天に昇り、天使や神様を自分の鏡を使いからかおうとする。しかし、その途中で鏡は恐ろしい勢いで震え出し、地上に落下して、無数のかけらに砕け散る。
そのかけらがカイの胸と目の中に入る。その時、カイはゲルダと動物や鳥の絵本を見て仲良く遊んでいた。

 可哀想に、カイは、その一つぶ(悪魔の鏡のガラスの破片)を心臓にまともにうけたのです。もうすぐ、心臓は、氷のかたまりのようになってしまうでしょう。今では、もういたくはありません。けれども、それはちゃんとそこは入っていたのです。
 「なぜ、泣いているの?」と、カイはたずねました。「そんないやな顔をしてさ。ぼくはもう、なんともないんだよ。チェ!」
 そして、急に叫びました。
 「そこのバラの花は、虫にくわれているよ。ほら、あっちのは、すっかりねじれている。まったく、胸くそのわるいバラだった。植わっている箱みたいだな。」
 こういって、足で箱を乱暴にけり、バラの花を二りんむしりとりました。
「カイちゃん、なにをするの!」と、女の子はさけびました。カイはゲルダの驚くのを見ながら、もう一つのバラの花をむしりとりました。そして、かわいらしいゲルダのそばをはなれて、自分のうちの窓の中に飛び込んでしまいました。

やさしかったカイの心はこうして凍りつき、乱暴で思いやりのない子どもに変わってしまう。そして、雪の女王のソリに乗って遠くに行き、冷たく凍った宮殿の中で無感覚で過ごすことになる。

このことは、逆に言えば、悪魔の鏡の破片さえ取り除くことができれば、子どもはもう一度最初の状態に戻ることができるということを意味している。つまり、悪に捉えられた子どもでも、本来善良なはずであり、決して可能性は閉ざされていない。

アンデルセン童話が読者の子どもたちに伝える最も基本的なメッセージがここにある。

相対的なものの見方

子どもあるいは人間は本来善良なものであり、悪は外からやってくると、アンデルセンは考えていた。このような思想に立つと、物事に対して少し距離を置いて見ることができるようになる。一つのことに対して、絶対に正しいとか間違っているとか言うのではなく、相対的な見方をする。

相対的な見方が、ある時には、皮肉として描かれることもある。
「はだかの王様」では、みんなの正しいと見なすことがどのように作られていくか、その過程が描かれる。
町にやってきた二人の詐欺師は、まず自分たちが腕のいい機織り職人だと町の人々に信じさせる。しかも、その嘘がばれないように、彼らの服は、「自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人にはとうめいで見えない布」でできていると言う。
その噂を耳にした王様は、自分の服を作らせることにする。そして、二人が布を織っているところを見に行ったりする。もちろんそこでは何も見えない。しかし、見えなければ自分がばかだということになってしまうので、見えるふりをする。

しかし、不安に思った王様は、頭のいいと評判の大臣や正直な役人を、仕事場に向かわせる。大臣も役人も何も見えないとは言えず、最後は詐欺師たちの言うままに、美しい服だと言ってしまう。
こうして、王様は、誰にも見えない美しい服を着て、パレードをすることになる。召使いたちはすそを持つふりをし、見物人たちも口々に服の美しさをほめたたえる。
そのようにして、一つの嘘が人々にとって正しいことだとされていく。

そのとき、突然、一人の子どもが、「でも、王様は裸だ。」と叫ぶ。すると、その言葉に促されるように、人々も「王様は裸だ」と言い始める。
そして、物語の中で作り上げられた一つの常識 —美しい服— が、実は間違っているということが明らかになる。
ただし、王様の一行をのぞいては。彼らは、今さらパレードをやめるわけにはいかないからという理由で、そのまま歩き続けていく。

この物語の中でアンデルセンは、二人の職人が詐欺師だと最初から明かすことで、読者に嘘と真実を提示している。しかし、現実の社会で同じことが起こった場合、それとは気づかずに、間違ったことでも正しいこととして通ってしまうことがある。
真実と嘘を見分けるのはとても難しい。そこで、正しいと思われていることでも、すぐに信じてしまうのではなく、少し距離を置いてながめて見ることが大切なのだということを、「裸の王様」は教えてくれる。

常識は相対的なものであり、自分の思いよりも他の人々の言葉によって作られていくということは、「おやゆび姫」でも描かれる。

おやゆび姫はとてもかわいい人間の女の子だけれど、ヒキガエルやこがね虫から見ると、不格好に見える。例えば、こがね虫たちは、おやゆび姫には、足が二本しかない、ひげもない、体もほそくて人間みたいにみっともない等と口々に言う。

でも、おやゆび姫はやっぱり、かわいらしかったのです。おやゆび姫を連れてきたコガネムシもそう思っていたのですが、他のものがみんな、みっともないと言うものですから、とうとうしまいに自分もそう思うようになり、手もとに置きたくなくなりました。どこへでも、好きな所に行くがいい!    みんなは、おやゆび姫をかかえて、木から飛びおりると、ヒナギクの上に置き去りにしました。おやゆび姫は、コガネムシのお友だちにもなれないほど、自分が醜いのかと思って、泣き出しました。

ここでも、個人と集団の対比が見られ、集団の意思が一般的な考えとして流通していく過程が描かれる。
しかし、決してそれが常に正しいというわけではない。

アンデルセンは、この物語の中でも、「裸の王様」と同じように、みんなの決める価値判断の他に正しいことがあるということを、最初から示している。
とりわけ、「おやゆび姫」の子どもの読者は、主人公の姫と自分を同一視てしているはずなので、子どもたちが安心して本を読み進めるためには、おやゆび姫を不安のままに残すわけにはいかなかったはずである。そこで、「泣き出しました。」という記述の後に、すぐに次のような言葉が続く。

けれども、ほんとうは、(おやゆび姫は)それはそれはかわいらしくて、この世でいちばん美しいバラの花びらみたいに、上品で清らかだったのです。

ヒキガエルやコガネムシや野ねずみやモグラ等がみんなおやゆび姫を醜いと言えば、姫も自分を醜いと思ってしまう。アンデルセンは、そうした思い込みが間違いであることを示すために、「裸の王様」や「おやゆび姫」では、最初から真実は何かを提示した上で、物語を進めている。
それは、必ずしもアンデルセンが絶対的な真実を知っているというのではなく、一般に信じられていることが人々の思い込みかもしれないということを、はっきりと示そうとしたからである。

同じ構図に則りながら、「みにくいアヒルの子」では、その子が白鳥であるということは最後まで隠されていて、サスペンスが残されている。
子どもは最後に美しい白鳥の姿にかわり、それまでは自分の美しさに気づかずにいる。そのために、物語としての面白さがより大きくなっている。

この物語では、まわりと違うといじめの対象になるという点がクローズアップされる。

主人公は生まれたときからみんなとは違っている。他の子どもたちが卵からかえっても、一つだけ大きな卵はふ化しない。その間に他の子どもたちはもう母親のまねをして、グワゥグワゥと鳴く練習をしている。こうして、みんな同じことができるようになっていく。


しかし、最後に生まれたひなは、ピーピーと鳴きながら卵からはいだし、体はみんなよりずっと大きく、醜い様子をしている。そのために、兄弟たちからだけではなく、毋鳥からもいじめられるようになる。

 かわいそうに、アヒルの子は、みんなから追いかけられ、しまいには、兄さんや姉さんたちからさえ、いじわるをされました。そして、いつも「おまえみたいに、みっともないやつは、ネコに捕まってしまえばいいんだ!」と言われました。とうとう、お母さんまで、「いっそどこか遠いところに行ってくれたらねえ!」と言うようになりました。こうして、ほかのアヒルたちにはかみつかれるし、ニワトリたちにはこづかれるし、餌をやりにくる女の子には足げにされました。
 とうとう、アヒルの子は逃げ出して、いけがきを飛びえました。茂みにいた小鳥たちがびっくりして、ぱっと舞いあがりました。「これも、ぼくが、醜いからなんだ。」と、アヒルの子は思いました。そして、目をつぶりました。

主人公は、みんなの視線を受け入れ、自分が醜いものだと思うようになってしまう。しかも、ここでは、自分でもアヒルの子どもだと思っているし、まだ美しい白鳥の姿に変わっているわけでもないので、マイナス要素を逆転する保証は何もない。
ただ、その子の「善良さ」、「雪の女王」で言えばゲルダの「やさしい罪のない心」だけが、将来の可能性を準備している。

最後に、さまざまな困難を乗り越えた醜いアヒルの子は、白鳥たちに出会い、自分の体も灰色のヒナから真っ白な白鳥に変わっているのを知る。
今まで醜いと思われていたものが、あるとき突然、最も美しいと思われるようになる。
こうして、人の視線も自分自身の視線も変化するということが、具体的に示される。

以上のように、アンデルセン童話の中ではしばしば、価値の逆転が描かれ、読者である子どもたちに、相対的なものの見方を伝えている。

——— 続く ———

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中