
ヴィクトル・ユゴーが1831年に出版した『ノートルダム・ド・パリ』について語る時、忘れてはいけない一つの事実がある。それは、ユゴーの小説がノートルダム寺院の復興のために果たした役割。
フランス革命の間に破壊や略奪にあった大聖堂は、ワインの貯蔵庫として使われたことさえあり、19世紀の初めにおいても荒れ果てたままの状態にあった。
1804年、ナポレオンの戴冠式のため、外観が石灰で白く塗られたり、破壊の跡を隠す装飾が多少施されたが、式典が終わった後で完全に取り壊すことも検討されたという。
そうした状態が続く中、ユゴーが小説の舞台として、もっと言えば小説の主人公として、ノートルダム寺院に脚光を当てた。
その小説が大変な人気を博したために、復興の気運が高まり、建築家ヴィオレ・ル・デュクを中心に、1845年から1863年にかけて復興工事が行われ、2019年4月の火災の前まで見られたような優美な姿を取り戻すことができた。
(ただし、ヴィオレ・ル・デュクは、中世の聖堂そのままの姿ではなく、19世紀から見た中世建築の要素を付け加えた。中央にそびえる塔がその象徴。)
従って、ノートルダム大聖堂が生命を取り戻したのは、『ノートルダム・ド・パリ』という小説のおかげだといえる。
小説が出版された直後の1832年、ジェラール・ド・ネルヴァルは「ノートルダム・ド・パリ」と題した詩の中で、次のように綴った。
地球上の全ての国の人々が
この厳めしい廃墟を見るためにやってくるだろう
夢見がちに、ユゴーの本を読み返しながら。
2024年のパリ・オリンピックに間に合うことを目指して、急ピッチで復旧工事が行われている現実は、ネルヴァルの予言が実現したことを示している。ただし、廃墟ではなく、壮麗な姿を取り戻すであろう大聖堂を、人々は賞賛するだろう。




あえてこうした事実を指摘するのは、小説が決して登場人物たちの恋愛を語るだけではなく、むしろ歴史小説であり、その中心にはノートルダム大聖堂があることを確認するためである。
「あらすじ」からの脱線?

実際のところ、『ノートルダム・ド・パリ』は、カジモド、エスメラルダ、司教補佐フロロ、軍人フェビュスたちが複雑に絡み合う恋愛小説として読まれることが多い。
芝居、バレエ、映画、アニメとして取り上げられる時にも、醜いカジモドの純愛、聖職にありながら欲望に燃えるフロロ、婚約者がありながらエスメラルダを手に入れようとするフェビュス、そのフェビュスを愛する美女エスメラルダといったキャラクターの織りなす恋愛模様にスポットライトが当てられる。
時には、ユゴーがギリシア語で書き記している「宿命」という言葉を念頭に置き、うまくかみあわない恋愛を、宿命に翻弄される人間たちの切ない物語、人間の持つ普遍的で根源的な葛藤の物語などといった解釈を下し、そこに面白さを見出そうとすることもある。
しかし、そうした解読をしてしまうと、『ノートルダム・ド・パリ』の多くの部分を占める歴史的、政治的な考察、パリを俯瞰的に眺める描写、とりわけノートルダム寺院に関する記述などは、「脱線」「余談」と見なされ、小説を読みにくくする余分な要素と見なされることになる。
あらすじと関係のない部分は、読み飛ばすか、我慢して読むしかないという読書法。
こうした読み方は、19世紀の半ば以降、小説という文学ジャンルが、近代の人間中心主義に基づき、人間の「性格」と「心理」を描き出すことによって人々の共感を集め、詩と演劇から文学の中心的地位を奪っていったことと関係している。
面白いキャラクターを配し、恋愛の成就を妨げる様々な障害を設定することで、キャラクターたちの心理を浮き上がらせる。
ガジモドとフロロの愛は、純愛と肉体的な愛で対照的。どちらの愛も受け入れないエスメラルダは、美男子のフェビュスを愛する。しかし、フェビュスには婚約者があり、エスメラルダとの肉体的な関係は望んでも、それ以上は望まない。
ユゴーも「小説的」面白さを拒否せず、読者の興味を引くと考えたからこそ、こうした人間模模様を設定したのだろう。
カジモドとエルメラルダが、「美女と野獣」のキャラクターに基づいていることは明らかである。(ただし、野獣は最後まで美男子には変身しない。)
聖職者フロロが美しい娘を執拗に追い求める物語は、19世紀前半にイギリスで大流行したゴシック小説に由来する。
そうした物語を組み合わせ、登場人物たちの性格描写や心理を描くことで、波瀾万丈の面白い小説になったに違いない。
しかし、『ノートルダム・ド・パリ』が恋愛物語という側面だけに還元されるとしたら、莫大な費用と時間のかかるノートルダム大聖堂の復旧作業を促すほどの熱狂を引き起こすことはなかっただろう。
現代の小説の読み方からすると「脱線」や「余談」でしかなく、冗長と感じられる部分は、実際には歴史小説の中心を占める部分であり、出版当時の読者を惹きつけたのも、そうした側面だったに違いない。
歴史・小説
フランス革命によって王政が倒れ、共和制になる。しかし、その後すぐにナポレオンが登場し、帝政の時代が到来する。ナポレオンの後は、ブルボン王朝が権力の座に復帰し、王政復古の時代が来る。
わずか30年あまりの間にこうした激しい政治体制の変化が起こったのと並行して、歴史に対する新しい感受性が発生した。
それ以前には、歴史とは王侯貴族の「年代記」として捉えられ、しかもそれは啓蒙的な教訓を含んでいるべきものとされた。つまり、過去の事実を記述するのは教育的な目的のためであり、歴史とは王侯貴族に模範的な行動の指針を与えるものと考えられていた。
そこで対象とする時代も、古代ギリシア・ローマが中心だった。
しかし、時代が激しく変化する中で、普遍的な歴史ではなく、自分たちの時代の動きを捉える歴史意識が生まれてくる。時間の流れの中で、今を理解するためには過去を振り返ることが必要になり、それが今後を見据えることにも繋がる。
こうして自分たちの時代の意味や方向性を知ろうという意識が、「歴史学」という学問を誕生させることになった。
その学問の対象は、必然的に、自国の歴史、つまりフランスの歴史になる。
17巻に及ぶ『フランス史』の著者ジュール・ミシュレは、歴史学について次のように語っている。
フランスにはそれまで年代記はあったが、一つの歴史もなかった。すぐれた人々はフランスを、とりわけ政治的観点から研究していた。だが誰一人、フランス人の活動(宗教的、経済的、芸術的、等)の種々さまざまな面での発展を微細に検討していなかった。また誰一人フランスを、それが形成された自然的および地理的諸要素の生きた統一体として総括しようとは、まだしていなかった。私が最初にフランスをひとつの塊として、ひとつの人格として眺めたのだ。(小倉孝誠『19世紀文学を学ぶ人のために』所収「文学と歴史学」からの引用)
歴史に関する新しい学問の誕生とともに、文学においても「歴史小説」というジャンルが登場した。
16世紀の聖バルテルミーの虐殺を扱うメリメの『シャルル9世年代記』、17世紀前半の政治的な陰謀事件を中心にしたアルフレッド・ド・ヴィニーの『サン=マール』、フランス革命中にヴァンデ地方で起こった王党派の蜂起を描くバルザックの『ふくろう党』。
演劇の分野では、アレクサンドル・デュマの『アンリ三世とその宮廷』が、ロマン主義演劇として最初に成功を収めた。
歴史学と歴史小説の関係について、アンリ・マルタンは次のように述べている。
同じ資料に依拠しつつ、歴史小説は歴史学が無視する時代を拾いあげ、歴史学がおおざっぱに素描するだけの情景をていねいに完成する。(中略) 歴史上の人物の周囲に二次的な人物たちを配置するにしろ、ひとりの理想的人物のうちに、なんらかの知的運動のさまざまな特質を集めるにしろ、歴史小説においては創作が現実と融合し、それによって現実をより際だった、より明かなものにすべきである。架空の物語そのものが現実になるべきである!(小倉孝誠『19世紀文学を学ぶ人のために』所収「文学と歴史学」からの引用)
歴史小説は、歴史学が対象としない情景を細かく描き出し、フィクションを餅椅子ことで現実以上に現実的な世界を作り出す。
この定義は、ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』にびったりと当てはまる。その歴史小説は、このように始まる。
今から348年6ヶ月19日前、パリの人々は、シテ島、大学、市庁舎に囲まれた三角地帯に響き渡るあらゆる鐘の音で目を覚ました。
それは単に、1482年1月6日が、歴史の思い出として保持された一日というだけではなかった。(中略)
1月6日、ジャン・ド・トロワの言葉に従えば、「パリの民衆全ての心を揺り動かした」のは、太古の昔から続いてきた二つの盛大な行事、「王の日」と「道化たちの祭り」が一緒に行われることだった。
この冒頭の一節は、ロマン主義歴史学による中世研究の書物の一節といってもいいほど、歴史的な資料に基づいているのではないかと思わせるものになっている。
実際、ユゴーが検討した歴史的資料はかなりの数に上ったことが知られている。
それと同時に、ユゴーがこの小説を執筆したのが、1829年から1830年の間だということも、忘れてはならないもう一つの事実である。
なぜならば、過去の事実を客観的に記述する場合にも、記述には必ず著者の視点が含まれ、『ノートルダム・ド・パリ』の中世には19世紀前半の時代精神が反映するからである。
時代精神の最も大きな要素は、「移行の時代」という意識。
1814年にナポレオンが失脚すると、人々は「栄光の時代」が終わったという意識を強く持った。ブルボン王朝が再び権力の座についたしても、ルイ14世の「偉大な世紀」とは比べものにならない。
その一方で、新しい時代はまだ到来していない。
従って、ナポレオン後の時代は、一つの時代からもう一つの時代へと向かう中間の地点にある「移行の時代」と感じられた。
それはまた、人々が漠然とした不安の中に生きる「危機の時代」でもあった。
ユゴーによれば、『ノートルダム・ド・パリ』で描く15世紀終わりも「移行の時代」と定義される。
中世からルネサンスへの移行であるが、その中心には「印刷術」の発明がある。
そして、ユゴーは、移行以前の象徴として、ノートルダム寺院という建造物を選択した。
大聖堂は「石の書物」であり、それが滅びた後には「紙の書物」がやって来る。
この発想は、ヴィクトル・ユゴーという作家の雄大な想像力を最も明確に示している。
彼の時代、石でできたノートルダム大聖堂は、うち捨てられ、今にも消滅しそうな状態にある。その建造物の生命ともいえるカジモドは、最後には骨となり、粉々に崩れ去る。
その後に続くのは「紙の書物」。それは『ノートルダム・ド・パリ』に他ならない。
より端的に言えば、ユゴーは、自身の歴史小説が「石の書物」であるノートルダム寺院の代わりになると言っていることになる。
「これがあれを殺すだろう」
「これがあれを殺すだろう」という言葉は、お忍びでノートルダム寺院に付属する独房にやって来たフランス王ルイ11世と医師のジャック・コワティエに対して、クロード・フロロが口にする言葉。
独房の窓を開き、フロロは指先でノートルダムの巨大な教会を指さした。教会は、二つの塔と石の側面と怪物のような後陣の織りなす暗いシルエットを星空に描き出し、都市の中央に横たわる二つの頭を持つ巨大なスフィンクスのようだった。
叙任司祭(フロロ)は、しばらくの間、何も言わずに、その巨大な建造物をじっと眺めた。その後、一つため息をつき、ページの開かれた印刷された書物の方に右手を伸ばし、書物から教会へと悲しげな眼差しを移した。
「ああ!」と彼は言った。「これがあれを殺すだろう。」
この謎めいた言葉を説明するためにユゴーは続く章の全体を費やすが、その重要性は、長さ以上に、『ノートルダム・ド・パリ』が出版された際のエピソードによって示される。
1831年に最初の版を出す時、ユゴーは出版社との間でいざこざを起こし、故意にこの部分を入れない原稿を渡したと言われている。
しかも、翌年、別の出版社から次の版を出版し、この部分を「第5巻」として付け足した。
この事実は、「これがあれを殺すだろう」と題された章が、『ノートルダム・ド・パリ』という歴史小説の礎石であり、理解にとって欠かすことができないことを物語っている。
その章の冒頭で、ユゴーは、「これ」とは「紙の書物」であり、「あれ」は「石の建造物」であるとことを明確にした。
印刷術の発明以前、人間の思想は石の建造物によって表現されてきた。15世紀までは、建築が人類の壮大な書物だった。
それは最初は単に石を積み上げただけだったが、時代を経るに従い次第に複雑になりながら、堅固で永続性のある書物としての役割を果たしてきた。
15世紀に至り、グーテンベルクによって印刷術が発明され、全てが変わる。ユゴーはその変化を「母なる革命」と呼ぶ。
印刷物の形を取った思考は、それまでよりも不滅なものになる。変化しやすく、つかみどころがなく、破壊できないものになる。空気に混ざる。建築の時代には、思考は山であり、時間や空間を力強く掴んでいた。今の時代、思考は鳥の群れになり、四方に広がり、空気と空間の至るところに同時に存在する。
要するに、「石」から「紙」への移行は、思考の表現が特権階級だけのものではなくなり、一般の市民にまで広がったことを意味している。
それはフランス革命に匹敵する革命であり、民衆が王を殺害する時代の到来を予告すると言ってもいい。
ただし、ユゴーは、王や石の建造物の価値を否定しているわけではなかった。
彼の母親は王党派であり、彼も最初は王党派的思想の持ち主だった。
また、廃墟と見なされていたノートルダム寺院の建築物としての美しさを認めていたからこそ、小説の中心に据えたに違いない。
「石の時代」から「紙の時代」へと移行する15世紀の大聖堂を描くことは、革命以前の精神性の最後の残照を浮き上がらせることでもあった。
その精神性とは、『ノートルダム・ド・パリ』の序文に記されているエピソードによれば、ユゴーがノートルダム寺院を訪れた時、塔の暗い隅に刻まれているのを見たという文字。ギリシア語の大文字で書かれた「アナンケ(宿命)」。
カジモド、エスメラルダ、フロロ、フェビュスを中心にした登場人物達をめぐる物語は、「石の書物」の時代における精神性を伝えるものに他ならない。
女性との交わりを断つ誓いをしながらエスメラルダを得ようとする聖職者フロロ、外見が美しいだけのフェビュスを愛し続けるエスメラルダ、フロロに誠心誠意仕えながら、最後は彼を大聖堂の塔から突き落としてしまうカジモド、彼らは個人の意志ではどうしようもない宿命に支配されている。
ノートルダム寺院はそうした「アナンケ(宿命)」を象徴しているのだ。
寺院の魂ともいえるカジモドは、エスメラルダの遺骨を抱擁しながら、自らも骨となり、最後は粉々になる。その結末は、「アナンケ(宿命)」の時代が終わったことを告げている。
では、「アナンケ(宿命)」に続く新しい時代精神とは何か?
ユゴーはそれを明らかにしているようには見えない。というか、少なくとも、「紙」が「石」に取って代わると言いながら、何が「宿命」に代わるのか明言してはいない。
そのため、1830年代の読者たちは、『ノートルダム・ド・パリ』に最大限の賛辞を送りながらも、この歴史小説が悲観的で暗い物語であると述べることが多かった。
実際、ノートルダム寺院が荒廃と破壊から逃れられないように、登場人物たちは「運命」に支配され、悲劇的な結末を迎えることしかできない
逆の視点から見ると、彼らに欠けているのは、自分の力で運命を切り開く「自由」。としたら、「石の書物」の「宿命」に続くものは、「紙の書物」の「自由」だと推測できる。
『ノートルダム・ド・パリ』を執筆するにあたり、ユゴーが中世に関する数多くの資料を参照したことは知られている。
もし学術調査に基づき、過去の現実を素描したのであれば、それは歴史学の分野の仕事になる。
だが、彼は、フィクションを交え、先ほど引用したアンリ・マルタンの言葉に従えば、「創作が現実と融合し、それによって現実をより際だった、より明か」にする、歴史小説を書き上げた。
そのためには、事実をより際だったものにする想像力の働きが必要であり、ロマン主義的創造者ユゴーは、最大限の「自由」を行使し、「アナンケ(宿命)」の時代精神を描き出した。
その最も明確な例が、第三巻全てを費やして行われる、ノードルダム寺院の描写とパリを俯瞰した中世の街並みの再現である。
ここまで私は読者のために、素晴らしいパリのノートルダム寺院を補修しようと試みてきた。15世紀には存在していたが、今では失われている美しい要素の大部分を、大まかにではあるが指摘した。しかし、最も重要な部分には触れかった。それは、塔の上から見えるパリの眺めである。
こう言った後、ユゴーは、「パリの鳥瞰図」と題した章全てを費やし、15世紀のパリの街並みの様子を上空の視点から再現していく。
その描写は決して大聖堂の塔から見える鳥瞰というだけではなく、町全体が命を持ったかのように生き生きと描き出される。
そして、最後に鐘の音が街中に響き渡る。
それはまさにオペラであり、一聴の価値がある。普段、日中パリからざわめきが流れ出す時には、町が話している。夜は町が呼吸している。ここでは町が歌っている。鐘の合奏に耳を傾けること。全体の上に広げるのは、50万人の人間の呟き、セーヌ河の永遠の嘆き、風の無限の息吹、巨大なオルガン・ケースのように地平線を形作る丘の上に並べられた4つの森の遠くから聞こえてくる低い四重奏。薄暗がりの中でのように、中心をなす鐘の合奏に含まれるかもしれない、しゃがれて鋭い音を全て消すこと。そうした上で、おの世にあるものの中で、これ以上に豊穣で、陽気で、黄金に輝き、絢爛たるものを知っているかどうか言ってほしい。様々な鐘が鳴り響く、これほどの大騒ぎがあるだろうか。これほどの音楽の巨大な竈があるだろうか。およそ10メートルにもなる石のフルートの中で一斉に歌い出す、1万もの青銅の声があるだろうか。もはや一つのオーケストラである、こんな町があるだろうか。一つの嵐のうなりとなる、こんなシンフォニーがあるだろうか。
ルイ11世やジャック・コワティエという実在の人物に、クロード・フロロやカジモドなど架空の人物を配置するのと同様に、あるいはそれ以上に、ここではヴィクトル・ユゴーの想像力が自由に活動しているといえるだろう。
彼の耳は、自分が生きる時代の鐘の音を通して、1482年の鐘を音を聞く。
『ノートルダム・ド・パリ』という「紙の書物」の「自由」は、こうした創作の原理に他ならない。
「これがあれを殺すだろう」というクロード・フロロの予言は、ヴィクトル・ユゴーによって現実のものとなった。
さらに、「紙の書物」は、「鳥の群れになり、四方に広がり、空気と空間の至るところに同時に存在する。」というユゴーの予言も実現した。実際に、『ノートルダム・ド・パリ』は21世紀の現在でも世界中の至る所に存在し、読まれ続けている。

小説を読むとき、私たちはどうしても、登場人物の織りなす恋愛や人間的な葛藤の物語だけをたどってしまう傾向がある。その結果、「あらすじ」と関係がないと思われる部分は、「脱線」や「余談」と見なし、そうした要素が多く含まれる小説は読みにくいと感じる。
しかし、それでは、『ノートルダム・ド・パリ』が1831年に出版されたことも、舞台が1482年に設定されていることも、無視されることになってしまう。もっと言えば、恋愛物語の展開するのが、パリのノートルダム寺院である必要もなくなる。
そのように考えると、「脱線」は脱線ではなく、その部分も含めて、一冊の書物を形作っていることがわかってくる。
それを実感するためには、第3巻のノートルダムとパリの描写、第5巻の「これがあれを殺すだろう」という二つの部分だけを取り上げて読むという方法がいいかもしれない。
物語は全くなく、描写と説明だけ。
それらを読むことで、私たちは、ユゴーの想像力が作り出した15世紀のパリとノートルダム寺院を思い描き、「紙のノートルダム・ド・パリ」の創造主ヴィクトル・ユゴーの思想を知ることができる。
フロロ、カジモド、エスメラルダたちの恋愛物語は、その思想の一つの表現に他ならない。大聖堂を肉体と考えるなら、その生命の動きを私たちに伝えてくれる。
ちなみに、物語的には悲劇に終わる『ノートルダム・ド・パリ』に対して、『レ・ミゼラブル』になると、ジャン・ヴァルジャンはコゼットとマリウスの暖かい手と涙の中で死を迎え、深い闇の中、羽根を広げた天使が彼の魂を待つ。
そのことは、中世の「宿命」とは違い、ユゴーにとっての今の時代、人間は「自由」を行使し、運命を切り開き、深い闇を通して「光」の源を求めて進んでいくことができることを暗示している。
個人的には、カジモドの骨が粉々になる『ノートルダム・ド・パリ』の最後の一節は、「宿命の時代」の最後を告げる象徴であり、「光」へと向かう時代精神の前触れとして読み取りたいと考えている。
(前略)おぞましい死骸の間に、一方が他方を奇妙な様子で抱擁している二つの骸骨が見える。骸骨の一つは女性で、かつては白かったと思われる服の切れ端のようなものが付いていた。首のまわりにはアドレザラの種でできたネックレスをし、小さな袋を手にしている。緑色の鍵が付いているが、口が開いたままで空っぽになっている。それらは安物で、死刑執行人さえ欲しいと思わないものだった。もう一つの骸骨は、背骨が曲がり、頭は肩甲骨にのめり込み、一方の足が他方の足よりも短かった。脊椎骨の外れた痕跡が首になく、縛り首になったのでないことは明かだった。その骸骨が属していた人間がやって来て、そこで死んだのだった。抱擁している骸骨から引き離そうとした時、それは粉々になってしまった。
ヴィクトル・ユゴーの作品
『ノートルダム・ド・パリ』(上・下)、辻昶、松下和則訳、岩波文庫。
参考
小倉孝誠「文学と歴史学」『十九世紀フランス文学を学ぶ人のために』世界思想社所収。