日本語と英語・フランス語の根本的な違い 概念と状況

英語やフランス語を勉強してもよくわからないことがある。その理由は簡単で、日本語に同じ概念がないこと。

例えば、中学や高校で過去形と現在完了形を教わったのだが、私には違いが明確にわからなかった。大学のフランス語の授業で接続法を教わったが、ただ活用を覚えただけだった。
それ以外にも色々とあるのだが、なぜそうしたことが起こるかといえば、日本語表現がベースとするものと、英語やフランス語のベースとするものが違っているからだ。

そうした違いを、実際の生活の中でも感じたことがある。
フランスで話をしていて、神戸に住んでいると言うと、東京から何キロ?と聞かれることがあった。そんな時、私は何キロか知らないので、新幹線で3時間ちょっとと答えたりしていた。
また、初めてフランスに来たのはいつかと質問されると、20数年前とか、もう随分前のこと、とか答えていた。しかし、フランス人の知り合いは、1998年といった年号で言うことが多いことに気づいた。

ここからわかるのは、日本語を母語にする者にとって、物事を表現するときの基準が「私」にあり、空間的にも、時間的にも、「私」からの距離を表現する傾向にあるということ。
逆に言うと、「私」とは直接関係しない客観的な基準に基づいて表現することが少ないことになる。
実際、「コロナでマスクをしないといけなくなったのはいつから?」と聞かれて、「もうけっこうになる」とか「2・3年前から」と答え、年号で答えることは少ないだろう。

こうした違いがあるにもかかわらず、日本語と英語、フランス語などの根本的な違いがあまり語られないのには理由がある。
現在の国語(日本語)文法が整えられたのは明治時代初期のことであり、西洋の文典に基づき日本語の文法が編纂された。つまり、国文法は西洋語の文法の応用として作られた。
そのために、日本語と欧米の言語の根本的な違いが見過ごされる傾向にあると考えられる。

ここでは、その違いについて簡単に考えてみたい。

(1) 状況と概念

私たちが言葉を使う時、必ず一つの具体的な「状況」がある。
私の住んでいる所から東京まで新幹線で3時間少しと言う時、たとえ会話の場面が神戸ではないとしても、「私」を神戸に置き、そこから東京までの距離を、新神戸駅から東京駅までにかかる時間によって伝えている。
もちろん、「私」でなくても新幹線に乗れば誰でも3時間少しで東京に行くのだが、その出発点を神戸に置くのは、「私」が神戸に住んでいることが前提になっている。
その意味で、「3時間少し」という答えには、「私の状況」が含まれているのだ。

それに対して、神戸から東京まで約430キロと答える場合、「私」はまったく関係がない。そのキロ数は二都市間の距離を測定した結果であり、客観的な数字にすぎない。
その意味で、「私」が入る余地のない、抽象的な「概念」に基づいている。

日本語と英語やフランス語などとの根本的な違いは、「状況」と「概念」を表現の基準として含むかどうかにかかっている。
日本語は、「状況」に則した表現がなされ、「概念」の次元では機能しない。
英語やフランス語は、「状況」と「概念」の組み合わせて表現が行われる。
その違いを簡潔に理解させてくれるのが、動詞のテンス(過去・現在・未来の区別)だろう。

(2)動詞の時制

現在の日本語では「タ」が過去を表すとされる。
それ以外にも10以上の用法とされるものがあるが、過去の表現ということが疑われることはない。
確かに「タ」は過去の事象を意味することがある。しかし、問題は、日本語の「概念」に「過去」があるかどうか、ということ。

「過去」はテンスの分類であり、「現在」「未来」と区別される。
ここで注意したいのは、その分類において、言葉を使用する「私」は全く関係していないこと。要するに、テンスとは「概念」であり、「状況」とは関係なく設定されている。

      過去      現在    未来
    完了 — 未完了   完了 — 未完了   完了 — 未完了

では、「タ」は本当に「過去」に属する表現なのだろうか?
「尖っタ羽根」「しまっタ」「それが終わっタら、来て。」
これらの例を見れば、「タ」が過去の事象だけを示すわけではないことがわかる。
「それが終わっタら、来て。」でわかるように、「未来」のことでも「タ」を使うことがある。

それらの例から、「タ」が「過去」だけに属するわけではないと結論することができる。
それにもかかわらず、「タ」=過去という定式が出来上がっているのは、「過去」「現在」「未来」というテンスの「概念」が、英語文法からの輸入品であり、日本語には本来なかったのではないかという疑問が浮かんでくる。

その疑問は、日本語母語者には、英語の過去と現在完了の違いが分かり難いことを説明することにつながる。
過去の活用は、概念としての「過去」に属することを示す。
現在完了の活用は、名前の通り、「現在」のテンスに属することを示す。その中で、have+pp.という形態を取ることで、完了であることを示す。文字通り、現在において完了したこと。

同じ時制はフランス語では複合過去と呼ばれるが、それは現在における完了という意味ではなく、avoirあるいはêtre+pp.が複合形であることから来ている。
(複合過去はavoirの活用が現在形であることからもわかるように、本来「現在」のテンスに属していた。それが単純過去の代理をするようになったため、「過去」のテンスを示すようになった。テンスを超えて使われる唯一の例。)

このように考えると、現在完了の「完了」「継続」「経験」といった用法のベースに、概念として「現在」に属するという基本があることがわかってくる。

その現在完了と過去の区別が私たちに分かり難いのは、現在すでに完了していることが過去の事柄であるということから来るのだが、本質的な問題は、日本語には本来的にテンスの概念がないことなのだ。

そのことが典型的に示されるのは、日本語には未来のテンスがないこと。
willを「だろう」と訳すことがあったりするが、だろうは推測とか予測であって、未来のテンスを示すわけではない。

それでも、未来(will)はわかるような気はする。しかし、未来完了(will have+pp)になるとピンと来ない。
「それが終わっタら、来て。」の「タ」は未来完了なのだが、日本人には未来に完了しているということが分かり難い。完了は過去だと思い込むために、未来に含めることができない傾向にあるからだ。

日本語はテンスの「概念」に基づいて表現するのではなく、「私」のいる「状況」に応じて表現する。
そのために、「私」との関係でそれが終わったのか、続いているのか、これからなのかといった状態(アスペクト)や、「私」がどのように思い、どのように感じているのか(=モダリティー)を、相手に伝えることにポイントが置かれる傾向にあるといえる。

(3)名詞と不定法(原型)と接続法

「状況」に基づく表現をする言語に馴染んでいると、「概念」を表現するということが理解しにくい。

例えば、「木」という場合、それが木の概念を意味しているのか、そこに見える木を意味しているのか、日本語では明確ではない。単数なのか複数なのかもはっきりしない。

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
日本語では、単数や複数を明示しなくても、読者はあたかも作者と思いを共有するかのように、具体的な蛙を思い描く。
それに対して、英語やフランス語に翻訳する場合、蛙を単数か複数かどちらかに決めなくてはならない。というのも、ここでの蛙は「概念」としての蛙ではなく、具体的な蛙を意味しているからだ。

概念としての蛙であれば、frogだけになる。
それに対して、具体化する場合には、冠詞や複数の印付けをする必要がある。

Into the ancient pond
A frog jumps
Water’s sound !  (鈴木大拙訳)

Old pond
frogs jumped in
sound of water.  (小泉八雲訳 )

日本語でこうした印付けが求められないのは、言葉が常に「状況」に基づいているため、「概念」である可能性を考慮しなくていいからではないか。
実際、芭蕉の句の蛙が具体的な存在ではなく、単に概念だけを意味しているとは誰も考えない。

この区別は、動詞の不定法(フランス語では原型)にも関係する。
to startは、日本語の体言に対応し、「出発すること」を意味する。つまり出発という「概念」を示すだけであり、実際に出発したのか、これから出発するかは示されない。

フランス語では、そうした概念が、接続法でも示される。
名詞:départ
原型:partir
接続法:(Il faut) que je parte.

接続法とは、原型partirに主語が付き、je parteと活用されたもので、意味的には、原型と同様、行為の「概念」を示す。
その概念を具体的な「状況」に落とし込むのは、前後のコンテクストの役割になる。

私たちが大学の授業などで接続法を学習する時、わかったようなわからないようなままなのは、日本語には「概念」だけを表現する用法がないために、そうした用法が理解しにくいことから来ている。

(4)状況依存性

日本語の文では主語がなくてもいいことから、色々な議論がなされてきた。ただし、主語だけではなく、目的語も、動詞もないことがある。
要するに、「状況」に依存しているので、言わなくてもいいことは言わない言語なのだ。

そして、そうした点が、英語やフランス語との大きな違いになる。
どちらも「状況」と関係することは確かだけれど、同時に、「状況」から自立し、「概念」として成立することを前提とした言語。
そこで、主語+動詞+目的語といった文の構造を整えることが求められる。

日本語との違いで面白いのは、主語だけではなく、目的語も関係する。
英語を勉強し始めたころ、他動詞と自動詞の区別がはっきりせず、訳文がおかしくなることがあった。
その理由はどこにあるのか?

He opens the door.   彼がドアを開ける。

The door opens.     ドアが開く。

openが他動詞か自動詞かの区別は、目的語の有無による。つまり、文の中に存在する要素によって動詞の意味が左右される。
それに対して、日本語では、「開ける」は他動詞、「開く」は自動詞と決まっている。目的語の有無を確認する必要はない。

ドアの前で「彼、何しているの?」と聞かれた場合、「開けようとしてる。」と言うだけで意図が伝わることもある。「状況」の中で、相手の聞きたいことを推測し、その問いに適した言葉だけで通じる。
日本語はSVOといった構文を整える必要のない言語なのだ。

会話の場だけではなく、文章でも同じことがいえる。
主語の有無が論じられる時しばしば使われる川端康成の『雪国』の冒頭の文を見てみよう。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

最初の文に主語がないが、日本語として問題はない。読者は、トンネルを抜けたのが誰なのか、あるいは何なのかなど意識せず、自然に文を読んでいく。
逆に言えば、作者は、そうした文を最初に置くことで、読者を「状況」の共有者にし、読者の意識を長いトンネルから雪国へと運ぶことができる。

次の文では「夜の底」という主語がある。しかし、そのおかげで、文意が明確になるわけではない。「夜の底が白くなる」とはどういう意味なのか?
しかし、読者がそんな問いを発することはない。意識の中ですでに雪国の夜にいるため、雪の降り積もった風景が夜の闇にすっぽりと包まれた情景を思い描く。

反対に、状況依存性に基づかない英語やフランス語の場合、SVOという構文を成立させ、それ自体で意味を明確にさせる必要がある。つまり、主語や動詞、そして、必要ならば、動詞に応じた目的語などが要求される。

The train came out of the long tunnel into the snow country.
The earth lay white under the night sky.   (traduction de Seidensticker)

Un long tunnel entre les deux régions, et voici qu’on était dans le pays de neige.
L’horizon avait blanchi sous la ténèbre de la nuit.  (traduction d’ Armel Guerne)

冒頭の文の英語訳では、主語はthe train、フランス語訳ではon. 一方は汽車で、他方は人。どちらにしても、トンネルを抜けたのが何か、誰か、決めることを強いられる。

「夜の底」に関しては、英語はthe earth、フランス語はl’horizon。ここでも、大地と地平線と多少言葉は違うが、文それ自体から情景を思い描くことができ、前後関係がなければ意味不明になりそうな日本語とは違っている。

結局、英語やフランス語は文章として自立し、それだけで意味が成立する必要がある。
日本語は「状況」に依存する度合いが高く、単語の連なりで意味が伝わることを条件としている。
もちろん、どちらが良い悪いということではなく、論理性云々の話でもない。言語の表現法の違いであり、そのベースには、「概念」と「状況」の関係がある。



日本語と英語・フランス語のこうした根本的な違いを知ったとしても、言語の運用能力がアップするわけではない。
しかし、日本語を母語としているために英語やフランス語を学んでいてわかり難いことがあるのは何故かという理由は理解できる。そして、言語間に横たわるコンセプトの違いを知ることで、名詞の使用法や動詞の時制に関する理解力が向上するに違いない。

そのことは、外国語の運用をするだけではなく、外国語の習得を通して日本語的な世界観とは異なる世界観を知ることにもつながる。
そのことで、日本的なメンタリティーのまま外国語を使うことで生じる違和感や摩擦が、ある程度減少するに違いない。

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