映画は映画として見ることが大切だとはわかっているのだが、それでも、時代の違いによる感受性や倫理観でつまずいてしまうことがある。
たまたまテレビでやっていたという理由で「ロード・オブ・ザ・リング」、「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」を見て感じていたのだが、1954(昭和29)年に公開された「帰らざる河」になると、至るところで違和感を感じてしまった。(そんな見方をしたら、映画が面白く見れなくなってしまうのはわかっているのだが・・・。)
このブログを書くために「帰らざる河」の予告編をyoutubeで探していたら、日本での映画紹介があった。それを見ると、違和感を感じた部分がまさにメインになって切り取られている。
西部劇でマリリン・モンローが酒場の女を演じるのだから、モンローをセクシャルに描き、逞しい開拓者の男との恋や、恐ろしいインディアンが襲ってくる場面があることは予想がつく。
(1)開拓者は善、インディアンは悪

西部劇全てに通じることだが、西部を「開拓」する白人たちは、原住民であるインディアンにとっては「侵略者」であるはずなのに、原住民が悪、開拓者は善の構図が出来上がっている。
その関係の中で、類型的な姿をしたインディアンが集団で少数の開拓者を襲い、反撃を受けて大量に殺害される。
「帰らざる河」でも、インディアンは意味もなく主人公たちを襲い、そして殺される。
要するに、開拓者は善、原住民は悪という分類が何の説明もなく行われ、開拓者の殺人は「自己防衛」として正当化される。
(2)武器の使用

現代のアメリカでも銃乱射事件が頻発し、大きな社会問題になっているが、しかし銃の規制はいっこうに進みそうもない。というか、むしろ、自衛のために銃を持ち、訓練をする人々が増えているともいう。
「帰らざる河」でも、主人公のマット(ロバート・ミッチャム)は、9才の息子マークに銃の撃ち方を教える。そこに何のためらいもない。
ラストに近いシーンになると、息子のマークが、父マットの命を救うため、敵の男を後ろから銃で撃ち殺す。
9才の子供が殺人を犯す。しかし、マークが罪に問われることはない。その行為は、父を助けるためであり、ある意味では自己防衛につながるからだ。
日本の映画紹介では、その場面に「父と子の愛情」という字幕が付けられている。
確かに、現在でも自己防衛は正当化されうる。
しかし、西部劇の中では、二重の基準(ダブル・スタンダード)が無意識のうちに使われる。
インディアンが自分たちの土地を守る行為は絶対的な悪であり、彼らの自衛は許されない。逆に、開拓者たちの自衛は正当なものとされ、たとえ子供だろうと、人を殺すことが認められる。
こうした意識が続く限り、アメリカにおける銃の問題は解決しないだろう。
また、アメリカだけではなく、ポーランドでも、学校教育の中で、14−5才の生徒たちに武器使用を教える愛国心という教科が義務化されたというニュースを目にすると、自衛という言葉の魔力を痛感する。
(3)エロスと暴力

マリリン・モンローが性的な対象として魅力的に描かれるのは、上半身裸のインディアンが馬に乗って襲ってくるのと同じくらい、予想の範囲内のこと。
男たちの視線を一身に集め酒場で歌う彼女の姿は、その象徴だといえる。
ただし、1954年にはme too運動など考えられなかったため、女性を暴力的に扱っても許容され、そのシーンがエロスと繋がると無意識に思われていたのではないかと疑われるシーンがある。

a. 森の中で、マットがモンロー演じるケイに暴行を働こうとする場面。息子のマークが近くにいるはずだし、この場面はまったく必然性がない。
b. インディアンたちの攻撃から逃げる筏の上で、一人のインディアンがもう少しでケイに触れそうになり、服の一部が剥ぎ取られる場面。
この二つのシーンでは、モンローのジーンズ姿に、酒場の歌い手とは違うエロスを付け加えようとする意図が垣間見える。

c. 映画の最後、酒場で寂しそうに歌ったケイをマットが肩に担ぎ、馬車まで運んでいくラスト・シーン。
ケイはマットのことを密かに愛しているので、この行為はケイの望みでもあり、ハッピー・エンドという作りがなされている。
しかし、彼女の同意はなく、逞しい男が有無を言わせず連れ去り、それを女性が喜ぶという成り行きは、男性目線の愛でしかないと、現在であれば見なされるだろう。
。。。。。
1954(昭和29)年の映画なのだから、現代の倫理観を当てはめても意味がないし、そんな見方をしたら「帰らざる河」の映画としても面白さが感じられなくなってしまう。
そのことはよくわかっているのだが、銃規制やme too、戦争における防衛と暴力の複雑な関係といった社会問題の情報がこれだけ流通している中では、どうしてもそうしたフィルターを通して映画を見てしまう・・・。
「ロード・オブ・ザ・リング」は、2001年から2003年にかけて公開された3部作で、全編を通して10時間くらいかかる大作。
公開当時大きな評判となり、アカデミー賞などで数多くの受賞を果たした。実際、映像の華々しさから、8年の歳月を費やし、莫大な予算をかけて製作されたことがよくわかる。
物語の大枠は、中つ国と呼ばれる国の争奪戦。超自然な力を持つ指輪を手に入れたフロドが、仲間たちと共に悪の王サウロンの軍と戦い、指輪戦争に勝利するという展開。
第1部「旅の仲間」でも戦闘シーンがかなりあるが、第2部「二つの塔」と第3部「王の帰還」になると、かなりの部分が戦いの場面であり、場所と時代はファンタジーだが、内容的には戦争映画だといえる。
その戦いの中で、善に属するホビットや妖精の一族は好ましい姿をし、悪に属する戦士たちは恐ろしげな様子をしている。
魔法使いガンダルフの白と冥王サウロンの黒は、その対比を象徴する。
そのことからもわかるように、「ロード・オブ・ザ・リング」という映画は、最初から善悪が決められた西部劇と同じ土台の上に成り立ち、違いは場所や時代の設定、それに応じた人物や武器ということになる。
もちろん、映画としても面白さは映像にあり、その点で、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作は西部劇を刷新し、成功を収めたといえる。





その一方で、戦争という視点で見たとき、主人公たちの一人の死は特別な扱いを受けるが、数多くの戦士たちが殺し合うことに対する思いは全く欠如している。
インディアンを殺すのが当たり前だったように、敵の戦士を殺すのは正義。そして、勝利のためであれば、味方の戦士がどんなに死のうと問題にはならない。

ある場面で、ガンダルフは、膨大な敵を前にして、自分たちが全滅するかもしれないと覚悟し、玉砕しても戦うようにと命じる。それがあたかも英雄的な行為であるかのように。
兵士という役割が与えられた瞬間に、人間であることは終わりになってしまう。彼らにも親兄弟や友人がい、彼らの人生があるはずなのに、そうした側面は完全に忘れ去られる。
中つ国の平和を守ためという理由があれば、相手を数多く殺すことが善となる。
その論理は、「帰らざる河」で主人公がインディアンを撃ち殺し、子供が銃で人を殺すことを正当化する「自衛」の論理と変わらない。
世界が平和であることを願うと繰り返しながら、自衛のためには戦いを厭わない。その論理あるいは倫理観は、西部劇の時代から21世紀までずっと継続している。
「ロード・オブ・ザ・リング」の戦闘シーンは、その一つの証といえるだろう。
問題は、予め善悪が決まり、その基準に対する考察がないこと。
現代では、さすがにインディアンを一方的に悪と見なすことはないだろう。しかし、「ロード・オブ・ザ・リング」において、冥王サウロンとガンダルフの善悪を問う発想は出て来ない。
その思いが、「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」を見た時の違和感に繋がる。
「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」は2017年のアメリカ映画で、観客にも批評家にも高く評価され、様々な賞を受賞した。
物語は、ベトナム戦争がアメリカにとって悪化しているにもかかわらず、政府が情報を隠蔽することに対し、「ペンタゴン・ペーパーズ」(最高機密文書)を入手し、事実を暴露したジャーナリストたちの動きを中心に描いている。
そこでの主張は「報道の自由」。
真実のためであれば、政府の圧力に屈せず、最後まで戦い続けることが正義となる。
そうした主張は、自由主義を標榜する国であればごく普通に受け入れられるもので、違和感を感じるものではない。
問題は、「反戦」という主張がなぜ出てきたのか? ということに対する問いかけが、2017年になっても意識に上らないこと。
「ペンタゴン・ペーパーズ」の中でも、アメリカ軍に多くの死傷者が出、アメリカの若者たちの命が危険にされられることが明らかになるにつれ、反戦ムードが高まったという事実が描かれている。
しかし、北ベトナムの人々も数多く殺害され、枯葉剤の散布のために奇形児が生まれといった、敵側の被害は全く考慮に入らない。
敵兵というレッテルが付けられるだけで、相手を人間と見ることがなくなり、敵を殺害することは正義になる。そして、敵の死者の数がどれだけ多くても、決して反戦運動にはつながらない。
自分たちの側の被害が大きくなることで、反戦が叫ばれる。そして、反戦運動が正義と見なされる。現在でも、ベトナム戦争末期の反戦運動は、アメリカだけでなく西側諸国では美しく描かれることが多い。
映画の結末近く、ワシントン・ポスト社主のキャサリン(メリル・ストリープ)が、新聞に秘密文書を掲載する最終的な許可を出すかどうかを迷う場面で、アメリカ軍の兵士たちを危険に晒すことにはならないかと編集主幹のベン(トム・ハンクス)に問いかける。それに対して、ベンは100%ないと答え、(なぜそんなことを言えるのかわからないのだが・・・)、キャサリンは掲載を許可する。
つまり、表現の自由はアメリカ軍を危険に晒さないことが条件であり、その際、ベトナム人の側にどれほどの死者が出ているかはまったく考慮に入らない。
結局、「ペンタゴン・ペーパーズ」で描かれる”反戦”や”表現の自由”とは、一方の側からの正義にすぎず、反対側の視点から事態を考察する姿勢が欠けているのではないか?
そんな風に感じ始めると、西部劇の時代の開拓者とインディアンの関係が、20年前の「ロード・オブ・ザ・リング」、たった数年前の「ペンタゴン・ペーパーズ」でも、同じように繰り返されているように思われ、正義とは何か考えてしまう。
繰り返すことになるが、現在の感受性や倫理観を基準にして映画を見ることは、映画としての面白さを失わせてしまうことにつながりかねない。
そのことを前提にした上で、しかし、映画を通して現代の社会問題を考え直すきっかけとすることがあってもいいのではないかと思ったりもする。考えることは、感じることと対立するのではなく、感じる仕方をより繊細にすることもあるのだから。